山一抗争単語

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山一抗争とは、1984年昭和59年8月5日から1989年平成元年3月30日にかけて山口組と一和会の間に起こった暴力団抗争事件。

概要

三代目山口組組長であった田一雄と若頭・山本健一の死による山口組の跡相続に端を発し、多数の死傷者と逮捕者を出すこととなった。明治以降では最大規模の抗争事件と言われる。また、現在暴力団の確定と対策法の制定にもつながっており、本事件を闇世界パラダイムシフトの起点と見る説も多い。

前史・対立の芽生え

山本(通称山広)は71年の山口組若頭決定の入れ札(選挙)に立補。票数で対抗だった山本健一(通称山健)を抑えるも、組長であった田の意向により若頭就任を断念する。これは両者にとって遺恨となったとされるが、この時点では田が絶対的な支配者であり表立った対立には発展しなかった。

77年、菅谷政雄(通称ボンノ)若頭補佐が菅谷組から独立山口組の2次団体昇格を画策した下の川内組長川内を暗殺した責任を取らされ絶縁処分を受ける事件が発生。菅谷引退を拒否し、当初は山広が説得に当たるが成功せず、次に山健が、彼の収監(保釈中に抗争を揮した)後は心とも言える竹中正久が事態の収拾に当たる。最終的に菅谷にかかり余命いくばくもない状態となったため、舎らの説得により81年に組の解散と自身の引退を発表。問題は解決する。しかし、竹中には優柔不断な態度を取った山広に対する強な不信と嫌悪が残ったとされる。

田岡と山健の死

81年7月23日組長であった田が死去。元来から健康不安を抱えていたが、較的小康状態を保っていたため急死に近く、遺言を残すことが出来なかった。ほとんどの周辺人物にとっても霹靂であったものの、若頭の山健の存在が大きかったため、大方は跡相続について問題が起きることを予想していなかった。ただし、この時点ではまだ山健が収監されていたため、正式な後継者決定は避け集団導体制のまま組を運営した。

しかし、田の死から半年後の82年2月4日山健も後を追うようにこの世を去る。ここに組長・若頭不在と言う異常事態が山口組に現出する。

三代目姐問題

82年6月5日、山広は組長代行に就任。しかし、この役職は「三代目」の代行であるのか、四代目に向けた暫定措置なのか(後者なら山広が当然の後継者だが、前者であるなら次期若頭が後継者となるのが筋)が曖昧であり、山広自身を含めて組内での統率に大きな裂を生むことになる。

6月14日兵庫県警は一雄の妻であった田文子を「三代目として暴力団組織の組長格として認定し、取り締まりを強化することを宣言。暴力団の不文としては組織の女性を官すことは大きな恥であり、執行部に動揺が走った。

6月27日、この異常事態を収拾するために舎会のメンバーらが山広に組長就任を要請。しかし、竹中らがこれに反対し、7月5日の幹部会でも現状維持が再確認された。

8月1日、今度は山広本人が直接立補を表明するが、これも竹中を中心にした幹部会が反対。15日の田の初行事において山広を支持していた佐々木雄(佐々木組長)と竹中が次期組長を巡り口論となり、最終的に竹中は山広の四代目就任に賛同しないことを宣言。両者の対立がここに表面化した。

竹中逮捕から保釈まで

しかし、同時期に竹中の周辺には脱税容疑で警察の手が及び、8月26日逮捕された。ただ、逮捕を予期していた竹中は文子から「自分の拘留中は四代目の決定をしない」確約を要請。文子も混乱の中で組長就任を狙った山広に不信感をもっておりこれを承諾。保釈までの一年間、人事は凍結された。

一方、山広は9月5日に直系の組長会で立補を表明。承諾をめるが、地方幹部への根回しが不十分であり入れ札には持ち込めず延期。11日には「三代目山口組を守る同志会」を名乗る組織による山広一を非難する怪文書(文子の意思を無視していることなど、地方幹部が知らなかったことが暴露されていた)が出回り山広は立補を取りやめた。

83年6月21日竹中は保釈。四代目就任に意欲を見せ、山広との直接対決が始まった。

竹中四代目へ

竹中保釈の段階ではまだ山広支持が優勢であった。23日、山広の幹部が竹中に山広支持を要請するが竹中は拒否している。

9月に入ると地方幹部を中心に竹中を支持する直参が参集し、竹中40人山広25人と数の上では山広を逆転する。残り中立の25人を巡って駆け引きが行われ、この過程で両の組織がほぼ固まった。

84年には文子も竹中支持を固め、5月には山広の重鎮であった加茂田重政の説得に当たるが失敗。続いて山広本人の説得も試みるがこれも成功しなかった。これにより事実上の山口組の分裂が決定的となる。

一方、山広山口組本部長だった小田秀臣を中心に分裂回避に向けた工作を行うが、内部的には宅見勝(宅見組組長)に阻まれ、次いで外部的な工作稲川会の拒否に合い頓挫した。

6月3日、文子は稲川会総裁の稲川竹中の後見役就任を要請し稲川はこれを了承。内外的にも竹中支持が確認され、5日にはついに正式に竹中四代目就任が発表された。

一和会の結成と全面抗争

6月5日の段階で96人の直参のうち、明確に竹中を支持し組長会に参加したのは46人であった。一方、山広の20名はこの時点で山口組離脱を決意。山広・加茂田・佐々木小田を中心とした組長記者会見を開いて竹中就任に反対を表明し、翌日には菱の代紋を事務所から撤去した。13日、山広を会長とする「一和会」(当初はかずわと呼んだが、最終的にいちわに)の結成を宣言した。

記者会見を開くと言うことは「大阪戦争」において山口組が行った一方的な抗争終結宣言(つまり相手を無視すると言う意思)をほうふつとさせ、竹中激怒させたと言われる。8月5日には和歌山山口組系の組員が一和会の組員を刺殺する事件が発生。これは単純なトラブルが原因だったと言われるが、これを口実に両者は抗争へと崩込む。

当初は人員では有利であった一和会ではあったが、小田の不参加発表など当初から不協和音いていた。23日、竹中は各団体に義絶状を送付。全な宣戦布告であり、また絶縁である以上は存在そのもを認めないと言う意思でもあるため、山広支持者が持っていた「穏便な形での分裂」は不可能となる。山口組側の銭的・実行使による一和会切り崩し工作独立団体の取り込みもあり、これを機に一和会は寝返りが相次ぎ、分裂当初には山口組4000人、一和会6000人であったのが、年末には山口組1万4000人、一和会2800人と一和会の弱体化明らかになった。

竹中組長暗殺

一方、山広直参の組長らは一和会結成当初から必敗と山広の身柄の危機を感じ取っており、7月には山口組上層部への直接攻撃を企図するようになっていた。

山広組若頭である後藤栄治は舎であった長野修一に命じて行動隊を結成。10月には一和会・石川裕雄常任理事が竹中愛人宅であった大阪吹田のマンション「GSハイム第二江坂」を突き止める。石川は近辺のマンションを知人名義で借り受け、線機を設置して殺示系統を入念に作り上げる。

85年1月後藤長野石川を引き合わせ竹中暗殺に向けた準備を進めた。12日から23日にかけて武器の供与が実行部隊に行われ(25口径ベレッタとタイタンあわせて数丁)、線機の取り扱いについても石川長野に直接レクチャーをしている。

一方、竹中は9日賭博罪による実刑判決が確定。刑務所を嫌い、病気を理由に収監の引き伸ばし工作を図った(皮なことにこれが運命を決する)。

26日、山口組本部の上棟会に出席したのち午後9時15分、竹中は若頭であった友会組長中山勝正、ボディーガードの南組組長・南と共に「GSハイム第二江坂」に到着するが、一階エレベーター付近で山広組組員らの撃を受け被弾。南はほぼ即死竹中中山共に負傷しつつ竹中はその場で護衛の南組の自動車で逃亡に成功、中山は騒ぎを聞き駆けつけた竹中愛人に発見され搬送されるが、竹中中山両人とも27日に死亡する。

報復と終焉

再び組長と若頭を喪失すると言う異常事態に見舞われた山口組であったが、岸本才三本部長らを中心に統率の回復が図られた。2月5日には組長代行に中西一男が、若頭に渡辺芳則が選ばれ、組織の弱体化を狙った一和会の思惑は外れた。

報復は組織立て直し後にすぐ始まり、19日には暗殺を示した一和会後藤組の若頭が拉致される事件が発生。後藤は脅しに屈し、組を解散した上で詫び状を送付し「自らの警察出頭と引き換えに人質の解放」を要請。山口組もこれに応じた(しかし現在に至るまでも後藤行方不明)。23日には山口組友会組員・堀川鉄壁により高知県内の競輪トイレで一和会中井組の組員二人が射殺、一名が重傷を負った。これを皮切りに4月までに20人以上の死傷者を出す猛攻が一和会に加えられ、身の危険を感じた山広は表に出られなくなり、揮系統は壊滅してしまう。

勝敗はすでに明らかであったが、山広の身柄が捕えられない以上は終結に結びつかないため、5月以降は神戸でのスポーツ大会の開催中の休戦が元神戸市長や稲川会幹部から提案されるなどした事から着状態になり、85年中での決着はつかなかった。

先に終結に向けて動いたのは関東二十日会や関東同志会と言った外部勢であった。的屋をやっていた一和会幹部の堅気の息子甲子園球場で射殺されるなどしたため、資であった寺社閣から暴力団排除が進んみ、抗争に巻き込まれる形でシノギを失い始めた事が動機であったと言われる。86年2月稲川山口組幹部らに直接終結を打診。中西渡辺もこれ以上の抗争は警察の介入を招き危険と判断し、終結に向けた意思統一を図ることを約した。

87年2月、一年をかけて内部折衝を行った結果、ようやく8日に終結の示が出され、一和会側も会津高山登久太郎を通じて終結を了承。とりあえず山口組正史上の抗争は終結を見た

その後

稲川会の仲裁によって取り敢えず表面上は抗争終結となったが、抗争終結に動いた渡辺中西岸本山口組執行部と、あくまで抗争継続の構えを見せた竹中武(正久の実竹中組長)とが対立。88年5月には竹中組組員が断で山広の自宅を襲撃し、警察官を負傷させる事件を起こす。これは渡辺逆鱗に触れ「シャブ打ってやったとしか思われない」(山口組は表向きはを禁じており、これをやっていると言う発言は最大級の侮辱となる)と述べ、竹中武の山口組離脱を決定付けたと言う(のちの山抗争)。

一和会はその後もしばらく存続したが、最終的に山口組の硬軟両方の圧に屈し、加茂田ら幹部の引退・解散も相次いだ。88年には200人程度の規模となり、89年3月19日山広は引退と組の解散を宣言。30日、稲川本部長であった稲川裕紘(長男)に付き添われて山口組本部に出頭・謝罪をして317回の抗争事件、死者29人、負傷者70人、逮捕560を出した抗争は全に終結した。

山口組の勝因

様々な研究が存在するが、何と言っても一雄の妻であった文子の支持が大きかったとされる。これが対内的には直参の支持と対外的には稲川会の支持につながった。特に対外関係では一和会を支持したのは竹中と因縁があった広島の諸勢のみであり、菱の代紋をなくした一和会は現場のシノギでも競合相手に遅れを取りやすかった。このことは当然に若手の組員の大きな不満と不安を与え、一和会下の組の多くでは離反やお家騒動が相次いだ。

また、竹中を支持した多くの組長若手・地方出身者であり、山広支持の古参近畿出身者とは対照的であったと言う摘もある。若手の支持があったことは前述の一和会の内紛にも通じ、地方出身者が多かったことは82年の入れ札延期につながった。すでに山口組近畿暴力団ではなく、全区の暴力団であることに山広は気付いていなかったとも言われる。さらに、山広支持者は元来山広と同格の者たちが多く、上位下達式の組織運営は望めなかった。

今日では、なぜ山広がここまで支持を広げたかの方が疑問とされることもある。盃も分のような形式であったことから、そもそも山広への忠心ではなく、竹中よりは山広の方が御しやすいと言う理由での参加も少なくなかったとも。また、分裂後も山口組と併存できると言う甘い期待もあったようだ。結果として、山広の直接の組の部隊のみが信に足ると言う状況であり、皮なことにこの直属部下の危機感と団結心が竹中の暗殺に有利に働いた遠因である。

影響

特高警察による拷問によりを喪った経験から、竹中は大変に反権志向が強かった。しかし、暗殺により穏健と呼ばれる渡辺・宅見による組運営が行われ、三代目から続いていた警察との対立関係は一時的に着状態となる。また、抗争により的屋が巻き込まれたことから締め付けが厳しくなり、山口組以外の暴力団も旧来の資が機しなくなって行く(一説には山口組・一和会だけで500億円の損失があったと言う)。分裂の遠因に警察による「三代目認定事件があり、竹中暗殺事件も結果として警察側に有利に働いたため、警察陰謀説が度々週刊誌・実録雑誌などで上に上がる。

一方、警察していた山口組壊滅は達成できず、資も同時期のバブル景気と相まって質的な変遷を遂げることになった。他の組織も山口組の内紛への仲介などでを見せ、現在の三頭(山口組・住吉会・稲川会)+その他諸勢体制と言う強固な業界地図につながった。

竹中体制は一年に満たなかったが、執行部・直参ともに若返りが図られた。一和会に参加し山口組に帰参した組も組長級は許されることはなく、多くは若手に名跡を譲って引退を余儀なくされた。この若手の中に田組(のちの会。ただし、竹中と対立しただけで一和会には参加していない)を継いだがいた。

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山一抗争

1 ななしのよっしん
2015/02/16(月) 04:19:19 ID: 9eZfUVanj0
この辺りからテキ屋がおかしくなって行った。山一の頃はまだ被害者だったけど、87年の青森抗争からは
普通を持って相手を殺すこともしてる。

一番大きかったのは90年代以降の不況なんだろうけど、昔は祭りの時は町中に店が出てたのに、
今じゃあ内も埋まってない。個人的に、裏社会の変遷を肌で感じた一の事件だった。
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2 ななしのよっしん
2015/08/30(日) 19:17:00 ID: tBVwxDEMB3
今回の分裂騒動で全警察は気が気じゃないだろうな
といってもこの抗争のときと違って法律も条も厳しくなってるから、同じことにはならんだろうけど
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