山一證券(やまいちしょうけん)とは
- かつて存在した証券会社。日本を代表する大手証券であったが、巨額の不正会計が発覚し1997年11月24日に自主廃業した。本社は東京都中央区兜町におかれていた。
- 東京都千代田区にある、M&Aや事業承継の支援を業務とする法人。(新・山一證券)
本記事では1.と2.の両方について記述する。
概要
1897年に山梨県出身の小池国三によって創業された。戦後一時期は国内トップの座にあったこともあったが、1960年代に経営危機に陥るなどした以降は野村證券、大和證券、日興證券(現・SMBC日興証券)に次ぐ業界4位であった。
バブル時代に「営業特金」(後述)などで多額の利益を上げたが、バブル崩壊により株価も下落し、一転多額の損失を抱えた。これらの損失を処理せずにひた隠しにしたことで簿外債務が積み上がり、ついには経営破綻、自主廃業の道へ進むことになった。
この時代には北海道拓殖銀行や日本長期信用銀行などの大手金融機関が相次いで破綻し、四大証券会社のひとつであった山一證券も、創業100年を迎えた年に自主廃業に追い込まれ、関連会社を含めると約1万人が路頭に迷うこととなった。
従業員約7,500人、預かり資産およそ24兆円に上る歴史ある企業の破綻という衝撃に加え、当時の社長野澤正平氏による『社員は悪くありませんから』という涙の会見はあまりにも有名である。今に続く数々の謝罪会見の歴史に残るシーンであった。
総会屋への利益供与や約2,600億円もの債務隠しが発覚したことが自主廃業に繋がったが、社内各所に含み損が隠蔽されていたことは公然の秘密だった、という元社員の証言もあり、悪いことは分かっていたのに放っておいた、ということである。
いかにも日本的と言えるかもしれないが、優秀な人材が集まり、家族的な雰囲気も残っていたことから「人の山一」とも呼ばれていた。元社員たちが破綻から20年経って集まったある同期会では、皆大変な思いをしたにもかかわらず、会の終わりに山一證券の社歌が歌われたそうである。
沿革
創業~バブル期まで
1897年に創業後、一時は国内トップの証券会社へと成長する。しかし野村證券に抜かれて以降、株式市況の低迷などから経営が悪化し1960年代半ばには経営危機に陥る。結局大蔵省と日本銀行の計らいにより無担保・無制限の融資を受けることやリストラにより危機を脱した(「日銀特融」と呼ばれた)。ちなみに当時の大蔵大臣は、のちに首相となる田中角栄である。
1980年代半ばから、法人からの「営業特金」によって多くの利益を上げる。これは、法人(企業)と投資一任契約を結び、預かった資金を自由に運用できるというもので、自社の判断により売買を繰り返すことで短期間に多くの手数料収入を得ることができたのである。
また、より多くの営業特金を獲得しようとするあまり、資金を預かった法人に対して利回り保証を行う「にぎり」という行為や損失補填も横行していた。これが結果として企業を財テクに走らせ、株式市場の過熱、バブルが発生する原因の一つになったという見方もある(利回り保証や損失補填については、当時はまだ法律上での規制があいまいであった)。
営業特金は特定金銭信託の仕組みで運用されていたため、企業は過去に買った株式等の含み益を確定させずに(税金を取られずに)売買ができることになり、企業にとっても税制上のメリットが存在していた。
バブル崩壊
1989年にかけて株価は上昇し続け、営業特金のビジネスモデルもうまくいっていた。しかし1990年以降、一転して株価は下落に転じる。営業特金も多くの含み損を抱える事態になるが、利回り保証に加えて損失補填の契約もしていたケースも多かったことから、山一證券自身が巨額の債務を抱え込むことになる。
営業特金自体は他の証券会社にも普通にあったシステムであったが、山一證券は戦後から法人営業に注力していたため、それがあだとなり損失補填の額も4大証券の中では最も大きくなってしまったのである。
1991年に証券取引法(現・金融商品取引法)が改正され、利回り保証や損失補填は明確に禁止された。しかし裏では営業特金のビジネスが続けられたといわれている。山一證券はじきに日本の景気が回復して株価も戻り、含み損が消えることを期待していたため、損失処理の先送りを続けた。しかしその期待は裏切られ、損失を抱えた有価証券を決算の時に子会社などに転売する「飛ばし」と呼ばれる手段を用いて簿外債務を隠し、粉飾決算に手を染めていくことになった。
自主廃業へ
1997年8月に、当時の社長である三木淳夫が総会屋への利益供与の責任を取って退任し、後任の社長に野澤正平が就任した。三木はその後9月に逮捕されている。
このころすでに簿外債務は隠しきれなくなってきており、10月には富士銀行に対し簿外債務の存在を打ち明け支援を求めたが、良い回答は得られず。11月には大蔵省から自主廃業を突き付けられる。
当時金融業界は「護送船団方式」で、企業を倒産させないということに主眼が置かれていた。しかし山一証券は総会屋への利益供与や損失補填、粉飾決算などの不正行為を繰り返していたことから、2度目の救済は大蔵省も認めなかったのである。
11月24日早朝の臨時取締役会で廃業に向けた営業停止が決議され、ここで山一證券の歴史は終わった。ちょうど創業100周年の年であった。この時点で簿外債務は2648億円にも上っていたという。
自主廃業を受けての記者会見では、最後に社長が号泣しながら「社員は悪くありませんから」と述べる場面もあり、平成不況の印象的な場面として現在も語り継がれている。
「これだけは、言いたいのは……私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから!!」
「どうか社員の皆さんに、応援してやってください!……お願いします!私らが悪いんです!社員は悪くございません!」
「善良で、能力のある……本当に私と一緒になって、やろうとして誓った、社員の皆さんに、申し訳なく思ってます!」
「ですから、一人でも、二人でも、皆さんが力を貸していただいて、再就職できるように、この場を借りまして私からもお願い致します……!」
負債総額は3兆5000億円。この後、顧客保護のために1兆円を超える日銀特融がなされた。前社長の三木と前会長・前々社長の行平次雄は証券取引法違反により逮捕され、執行猶予付き有罪となった(現在は二人とも故人である)。
従業員たちはメリルリンチ日本証券などほかの会社に散り散りとなった。社長の野澤は不正会計には関与していなかったため刑事訴追はされず、廃業に向けた業務に携わりながら社員の再就職に奔走するなどした。その後は複数の企業の会長や顧問を務めている。2004年から2009年まではセンチュリー証券の代表取締役社長も務めた。
法人本体は自主廃業の手続きを進めていたが、解散決議に必要な株主数が足りず、自己破産へと方針転換。1999年6月に破産宣告を受けた。2005年2月に破産手続きが終わり、山一證券は完全消滅した。
新・山一證券
2004年に、山一証券の元社員が中心となって「IBS」が設立された。2011年には「IBS山一證券」という社名になり、旧山一證券とは全くの別会社ではあるものの山一の名が復活。2014年には社名が「山一證券」となった。
ただ、行っている業務はM&Aの助言など法人向けのもののみで、一般的な証券会社が提供する株式の仲買などの業務は行っておらず、個人投資家にも幅広くサービスを提供していたかつての姿からは程遠いのが実情である。
新・山一證券の社員20名の中には、旧・山一證券の社員が5名いる(2017年現在)とのことで、様々な思いを抱えながら法人営業に強かった「法人の山一」の復活を目指している。
旧・山一證券の流れをくむ企業
- 三菱UFJモルガン・スタンレー証券……旧山一證券の子会社であった太平洋証券が、2000年に他3社と合併し「つばさ証券」となる。その後UFJグループの証券会社と合併し「UFJつばさ証券」となり、2005年には「三菱UFJ証券」となる。2010年に持株会社となり、事業会社はモルガン・スタンレーの日本法人と合併し現社名となった。
2020年には、かつて旧山一證券の従業員の大多数が移籍した「メリルリンチ日本証券」のリテール部門が分割され誕生した「三菱UFJモルガン・スタンレーPB証券」と合併する。 - 三菱UFJ国際投信……旧山一證券の傘下にあった投資信託運用会社「山一證券投資信託委託」が山一證券の廃業後「パートナーズ投信」に改称。その後「東海投信投資顧問」と「東洋信アセットマネジメント」から営業譲受され「UFJパートナーズ投信」となり、さらに三菱投信と合併し「三菱UFJ投信」に、国際投信と合併し「三菱UFJ国際投信」となった。
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関連項目
外部リンク
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