山下勝充単語

ヤマシタカツミ
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山下勝充(やました かつみ、1977年5月19日-)とは、大阪府出身の元プロ野球選手内野手)である。本名は山下勝己

ウメさん称でしまれていた。

概要

大阪府八尾市出身。近畿大学時代に二岡智宏(現北海道日本ハムファイターズ)、藤井彰人(現阪神タイガース)らとともに史上初のアマチュア五冠リーグ戦、リーグ戦、大学選手権、明治神宮大会全日アマチュア野球王座決定戦の5大会で優勝)を達成。2年と3年のベストナインに選出と、々しい活躍を続けた。

1999平成11)年のドラフト会議大阪近鉄バファローズから4位名を受けて入団。

2000平成12)年、オープン戦本塁打を放つなどの活躍を見せ、オープン戦新人賞受賞。開幕1軍入りを果たし4月1日オリックス戦(グリーンスタジアム神戸)でプロ初出場。翌4月2日に初安打投手はのちにチームメイトとなる金田政彦)、5月7日ダイエー戦(大阪ドーム)でプロ本塁打投手篠原貴行)を放つなどチームの期待通りの活躍を見せていた。

が、その後はプロの洗礼を浴び二軍降格。ここから二軍の帝王化が始まる。

近鉄リーグ優勝を果たした2001平成13)年は1軍出場し、翌2002(平成14)年も1軍出場2試合に終わる。

2003平成15)年にはウエスタン・リーグ二軍)で本塁打打率の二冠王を獲得。1軍出場26試合ながら打率.267と健闘した。しかし翌2004(平成16)年は22試合、打率.171に終わる。シーズンオフ、球団合併に伴う選手分配ドラフトで新規参入球団・東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。

2005平成17)年、開幕1軍に入るも、わずか4試合で二軍降格。最終的にはもう1度あったチャンスも生かせず、9試合の出場に終わる。二軍ではリーグトップの12本塁打を放つ。

2006(平成18)年も開幕1軍入り。しかしながら、怪で再三のチャンスをつぶし、打率.278記録するもポジション奪取とはならなかった。同年、二軍で13本塁打ロッテ竹原直隆と同数)を放ち自身2度本塁打王を獲得。史上2人のイ・ウ両リーグ本塁打王となった。特筆すべきは出場試合数で、竹原が82試合で13本塁打に対し、山下35試合で13本塁打だった。

2007平成19)年は1軍出場し。二軍でも守備面で精を欠いた。

2008平成20)年、4月11日オリックス戦(Kスタ宮城)の延長10回裏、1死2塁のチャンス代打として出場し、山口和男からセンター前へサヨナラヒットを放つ。プロ9年で初めてお立ち台に立ち「おおきにっー!!」と叫んだが、野村監督は、代打山下を告げてトイレに行っており、トイレから出てきた後、観客の歓山下が打ったことを気付いた。野村監督は「代打だけ告げてトイレ行ってた。まさか打つとは思わなかったもん。」とっている。

この件の約1カ後の5月6日に8年ぶりの本塁打を放つ(相手は奇しくもプロ本塁打を打った時の相手と同じホークス)。しかしながらシーズン終了後の11月7日戦力外通告を受け現役を引退した。

引退後は四国九州独立リーグ福岡レッドワーブラーズでコーチを務めるも、1年でチームが解散したため、2010平成22)年からは楽天イーグルスジュニアコーチに就任。2013年からはスカウトに転身した。

先は絶好調ながら、開幕とともに失速していくため、「オープン戦」「二軍の帝王」と揶揄されることもあった。二軍の帝王卒業チャンスは数多くあったが、ことごとくそれを棒に振ってきた。

浜崎あゆみの大ファンとしても知られ、マンガドカベン スーパースターズ編」でもネタになっている。

近鉄時代の応援歌大塚愛の「さくらんぼ」に似ていた(のちに平下晃司に流用された)。

通算成績

通算:7年 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 196 426 379 38 84 21 0 2 29 5 11 2 30 4 104 10 .222 .284

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山下勝充

1 ななしのよっしん
2014/03/24(月) 09:34:30 ID: hLPiNOwhhO
楽天創期の「三大宝の持ち腐れ選手」の一人。
山下(長打)・森谷(俊足)・小山(速球)
ノーコン小山が半袖魔神と化したように、他の二人も化けてくれればよかったんだけどなあ…
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