「山添勇夫(やまぞえ いさお)」とは、フィリピンのレイテ島ドラグ市にて英雄として祀られている大日本帝国陸軍の軍人である。
概要
京都府岩滝町(現・与謝野町)にて、天保4年(1833年)創業の丹後ちりめんの製造を生業とする家(現在の山藤織物工場)の末子として誕生。
昭和12年に召集され、飛行場があったレイテ島ドラグ市の守備隊長を務めた。
その際、地元のフィリピン人と親睦を深めようと、ラジオ体操・テニス・ショーやダンス・映画の上映を行い、食料不足の改善の為の地元住民による野菜作りや、地元の子供達に日本軍が設立した学校で勉学に励む事を奨励し、自身は地元住民に対して常に公正・中立で偏見なく紳士的に接した事から、キャプテン・ヤマゾエと言われて地元住民からの信望を集めた。
しかし、運命の日...昭和18年4月18日。ホセ・ナザレ率いるフィリピンゲリラとの戦いの際に戦死した。
ゲリラとの戦闘にあたり、地元住民が巻き添えをうけないようにとゲリラ側と交渉して戦闘地域を制限し、多くの地元住民の命を守ったと言われている。
戦死後、教会の鐘を鳴らし続けて悼んだ地元住民により、その威徳を偲ぶ為の小さな記念碑が建立され、後にドラグ市により鳥居の様な入り口を備えた大きな記念碑が建立された。
記念碑には、
士官でありかつ紳士であった山添勇夫大尉への賛辞
この地において、1943年4月18日午前8時頃、日本陸軍山添勇夫大尉(CAPTAIN・ISAO・YAMASOY)はホセ・ナザレ中尉指揮官下のフィリピノ・ゲリラ隊と遭遇戦を戦い戦死された。彼は厳格な軍規の遵奉者でありながら親切かつ思いやりの深い人柄で、単に彼の部下の信頼と尊敬を受けただけでなく、地域の住民よりも、本当の士官であり、かつ紳士として尊敬を受けました。彼の英雄的な死は人々の為、男達の兄弟愛が国や統治権を超えて、この碑の建設となりました。
との内容の英文が刻まれている(上記は英文を日本語訳したもの)。
レイテでは、現在でも学校教育の中で山添勇夫の事を教え、記念碑は地元住民達によって清掃されている。
なお、家業の4代目を継いだ実兄の子孫が、与謝野町長の山添藤真である。
関連動画
※本記事に掲載すべき動画が確認されたら追加してください。
関連コミュニティ
関連項目
関連リンク
- 1
- 0pt