岡部幸雄(おかべ ゆきお)とは、かつてJRAで「名手」と称えられた元騎手である。
武豊が記録を更新するまで、中央競馬の最多勝記録2943勝を保持し、40年近く現役を続けた競馬界のレジェンドの一人である。
概要
1948年群馬県生まれ。実家が農耕馬を育成をしていた事と幼少時代の悩みのタネだった小柄な体格が騎手としては好都合だったことから競馬の世界に興味を持ち、中学を卒業した1964年に馬場公苑騎手養成所に入学。同期には「追い込みの鬼」柴田政人、「天才」福永洋一もおり花の15期生と呼ばれる騎手界の黄金世代の一人である。
1967年にデビュー。当時は競馬界も縦社会が当たり前のように通用しており、競馬界とのコネがなかった岡部は苦戦(実際、福永がデビュー3年目で中央競馬リーディングを獲得できたのは、兄が先んじて中央競馬騎手となっていた事がコネとなった部分がある)。しかし、彼の才能を認める競馬界の先輩などの協力もあり、お世辞にも多いとはいえないチャンスを活かし八大競走などで結果を上げた岡部は、先輩に揉まれながらその知識や経験を吸収していった。実際、同期のメンバーで八大競走優勝一番乗りは菊花賞でそれを果たした福永より先に優駿牝馬(オークス)で果たした岡部である。
1971年に初の海外遠征としてアメリカのレベルの高い競馬を目の当たりとして、以後はアメリカ競馬を目標に海外遠征を精力的に行っていく。彼の乗り方もアメリカのものを取り入れた結果である。
岡部とシンボリルドルフ
岡部とシンボリルドルフは運命のめぐりあわせであった。当初主戦騎手はシンボリルドルフの兄・姉にも乗っていた柴田政人の予定だったが、あまりにもルドルフの調子がいいので急遽デビュー戦をやろうと新潟競馬場の新馬戦をデビューに選んだ。その時夏競馬で岡部は新潟が主戦場だったので、岡部に決まったという。野平祐二調教師が芝のレースに出させたいというのもあり、往復に時間のかかって当時ダートしかない札幌競馬場より芝のある新潟のほうがルドルフに負担をかけないというのもあったようだ。
海外遠征の先駆者とも言えルドルフの母父にあたるスピードシンボリで果敢にも海外の強豪に挑んでいった野平と同じくレベルの高い海外競馬を目標としていた岡部との巡りあわせもある意味必然だったのもしれない。
岡部は回顧する。「これが日本最高峰のサラブレッドの馬だ」と。
岡部が引退した同年に無敗の三冠馬となるディープインパクトとの比較を問われた時でも、欠点が少ないからやはりルドルフの方が上と答えている。
クラシック三冠を無敗で達成し勝つことが当たり前のように称された皇帝シンボリルドルフ。
岡部は勝つたびに掲げる指を増やしていった(最後に勝った有馬記念は7本指をしなかったが)。最終的に七冠馬となるルドルフを彼の最高の相棒とする声は多い。
武豊のディープインパクトでのパフォーマンスはこの時の岡部の真似である。
乗りたい馬に乗る
今でこそ特定の厩舎騎乗専門でないフリーランスの騎手は多いが、その先駆者は岡部であった。
彼は1984年にフリー宣言をするのだが、前年に所属厩舎の縁故を重視して桜花賞で主戦だったダイナカールに乗れなかった結果、ダイナカールは3着に敗れてしまったことが一因とされる。
同年に主戦だったビゼンニシキとルドルフが皐月賞前哨戦の弥生賞でかち合った時も、ノータイムでルドルフを選択し、ビゼンニシキの馬主と調教師を激怒させ、以後彼に騎乗を任せることは一切なくなった。
だが、ルドルフを選択した岡部はビゼンニシキに全て勝ったため、彼の選択は正しかったと証明されたのである(なお、ビゼンニシキ側が熱くなりすぎてクラシック出走権だけを鑑みると出なくても良かったスプリングステークスとNHK杯を使った結果、無駄に消耗させたのがただでさえ距離不安を抱えていたダービー惨敗を招いたと言う自爆的要素もある)。
以後騎乗がかち合った場合は、師弟的な関係であった柴田善臣と田中勝春に騎乗を回すことで依頼を断らずにかち合わなかった場合は岡部が乗るというスタイルを確立した。
またレースのみに集中したいため、その他の交渉事を専門の代理人に任せたのも岡部が初である。岡部より前に渡辺正人がフリー騎手として活躍していたが、彼の場合は巧みな話術と騎乗術を駆使し交渉も自ら行っていたと言う違いがあり、岡部の交渉スタイルが現在のエージェント制を生み出したとも言えなくもない。
岡部とタイキシャトル
晩年の相棒としてはタイキシャトルが挙げられるだろう。短距離~マイルの鬼と称された同馬の主戦は岡部だった。そしてその調教師は野平の下で働いていた藤沢和雄であった。
藤沢の管理馬に岡部はよく乗っており、タイキシャトルもその1頭だった。
スプリンターズステークス・安田記念・マイルチャンピオンシップ2連覇、初の同年スプリンターズSとマイルCSを連覇した馬。98年当時、1800の最速馬サイレンススズカとの対決も望まれたがその機会は97年のマイルCSの1回だけだった。伝説の98年毎日王冠に出走する予定は藤沢曰くあったとしながらも実現はしなかった。
岡部は同馬でGIジャック・ル・マロワ賞を制覇し、念願の海外GIタイトルを獲ることができた。
この時岡部は悲願叶って泣いている。
だが引退レースとなった2度目のスプリンターズSは急遽引退レースに決まったというのもあって陣営は舐めプ気味で、慢心した結果マイネルラヴとシーキングザパール(初の日本調教馬で海外GI制覇馬)に差されて3着という何ともな結果になってしまった。
競馬界のレジェンド
岡部が中央競馬リーディングジョッキー(その年の最多勝)になったのは1987年のことで、既に岡部は39歳であった。この時の記録は福永洋一の131勝を超えた138勝。なお年間最多勝記録は2005年の武豊の212勝の後長らく更新はなかったが、2018年にクリストフ・ルメールが215勝で更新した。この二人も大概やばい。
その後岡部は関東リーディングジョッキーを6年連続で、89年~2000年までの12年間の関東リーディングを9回と、まさに西の武豊、東の岡部状態だった。
岡部が勝ったGI・重賞の大半は40歳を過ぎてベテランになってからのものであり、自他ともに認める晩成型騎手であった。
通算成績は武豊に更新された記録もあるがそれでも2005年当時の記録はほぼ岡部によるものである。
2005年には長年の左膝の故障もあり、自分のイメージ通りの競馬ができなくなったとし、引退を決めた。前人未到の3000勝は見えていたが、記録のために続ける気は元からなかったようである。
八大競走はオークスは3勝しているものの、同じ牝馬クラシックである桜花賞は未勝利で完全制覇はならなかった。先述のダイナカールやスティンガーなどチャンスはあったものの、前者は先述の理由・後者はスタート出遅れで逃す結果となった。
人物
馬優先主義で知られる。これは競馬の主役はあくまで競走馬であり、携わる人間は馬の目線に立って馬の気持ちを汲み取るものだという考えである。
「ダービー出走が目的になってしまい、まだまだ未発達な馬までそれが目標になって無理な育成をする。そうすると馬の競走能力が犠牲になってしまう。マティリアルのように」
マティリアルについては該当記事に譲るとして、後年岡部はこう回顧する。
「もしマティリアルが皐月賞・ダービーを使わずに休ませていたら、どれだけ強い馬になっていたかわからない。それでも、マティリアルの競走生活はそうして幕を閉じてしまったのである。
戦う勇気ではなく、やめる勇気。ブレーキをかけることがアクセルを踏み込むことよりも勇気が求められるケースは少なくない。そしてその勇気が持てるかどうかは本当に重要な意味を持っている。そうしたことをマティリアルに教えられたのだ」
マティリアルはシンボリ牧場のドンである和田のワンマンに壊された馬の典型ともいえるケースであり、岡部はそれを教訓として馬優先主義を掲げる一因になったのだろう。
だがともすれば勝利よりも優先すべき事項が発生するこの考え方は批判されることもあり、「調教は美浦でやれ」とファンに詰られたことや、競馬の神様と言われる大川慶次郎には「実力は確かだが、レースの後でこれは練習でしたとか言われたら金返せとも言いたくなる」と言われた。
岡部はこれについて「正当性はよくわかる。最後まで追えば1着なのに手を抜いて2着とか、3着(馬券圏内)に残る可能性があるのに流したりはしていない。あくまでファンを裏切らない範囲で将来を見据えたレースをしていた」としている。
岡部の乗り方は馬に最低限の負担で勝つ、これに尽きる。トウカイテイオーの安田隆行が2年目に岡部に乗り替わったのは安田の乗り方が影響しているという説もある。コースロスも少なく、無駄のない騎乗は騎手の手本となり、努力を惜しまず堅実に確実に勝つ。
一番大事なことは「騎手が馬に働きかける要素を減らすこと」で、騎手が自分勝手に馬を導いてもいい結果は出ない事が多いのだと語る。
中にはレース展望とは違う展開も瞬時に出てくる、その時に試されるのは騎手の判断力と即決力。それが「勝負勘」である。これは経験と努力で培うことができるとした。
立ち振る舞いも社会人として気を付けなければならないとしており、騎手であっても最低限の常識は持ち合わせておくものであると考えている。
全くの余談だが近年では髪が完全に後退し、大僧正と呼ばれている。
G1(G1級)勝ち鞍
関連動画
関連項目
JRA調教師・騎手顕彰者 | |
騎手 | 野平祐二 | 保田隆芳 | 福永洋一 | 岡部幸雄 | 河内洋 | 郷原洋行 | 柴田政人 |
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調教師 | 尾形藤吉 | 松山吉三郎 | 藤本冨良 | 武田文吾 | 稲葉幸夫 | 二本柳俊夫 | 久保田金造 | 伊藤雄二 | 松山康久 | 橋口弘次郎 | 藤沢和雄 |
騎手・調教師テンプレート |
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牝馬三冠 | 前田長吉 | |
変則三冠 | 前田長吉 | |
中央競馬牝馬三冠 | 嶋田功 | 横山富雄 | ★河内洋 | 松永幹夫 | 武豊 | ★幸英明 | 本田優 | 池添謙一 | 安藤勝己 | ★蛯名正義 | 岩田康誠 | 福永祐一 | ★クリストフ・ルメール | ★松山弘平 | ★川田将雅 |
|
古馬三冠 | 春古馬 | 達成者無し |
秋古馬 | 和田竜二 | オリビエ・ペリエ | |
★は同一馬による達成者。変則三冠、古馬三冠は同一年達成者のみ。 | ||
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