岳飛単語

ガクヒ
  • 5
  • 0pt
掲示板へ

「岳飛」(ガク・ヒ 1103 ~ 1141)とは、南時代の武将であり、女族にされる中国大陸で連戦連勝の後に非業の死を遂げた事から、中国最高の「英雄の中の英雄」といわれる人物である。

岳飛「文臣銭をせず、武将死を惜しまざれば、下泰たらん 」

字(あざな)は「鵬挙」。 

三國志11 統率 政治 特技 戟兵 騎兵 兵器
岳飛 95 91 78 31 98 洞察 S A A A B A

概要

水滸伝舞台でもある末期から、女族の」の侵略を受け続けて「皇帝万里の長城より北に連行される」と言う屈辱的な滅亡をした(北)に代わり、皇族で一難を逃れていた高宗が立てた南の武将として活躍したのが岳飛である。

農民出身ながら文武両で、当時は官軍ですら当たり前のように行っていた兵の略奪を許さなかった事や、文民統制と周辺への配義による弱外交から、中国歴史上でも最も弱い軍隊と呼ばれる程のに対して、中国歴史上でも五に入る屈強な軍であったを相手に連戦連勝を重ね、中国大陸南部にまで侵攻した軍を北首都であった開封(北京)にまで撤退された手腕から、農民等の民層に大変な人気を博した人物であり、且つ、その最期が、実の罪で投され、過酷な拷問に対しても屈せずに処刑されたという非業の死を遂げた事もあって、現在中国においては「英雄」と聞かれればまず第一に「岳飛」の名があがった後に、四では諸葛亮の名が、台湾では鄭成功の名があがるといった英雄の中の英雄的存在となっている。

商売の神様として世界各地のチャイナタウンが建てられている関羽べて、日本では非常にマイナーな人物ではあるが、中国での大人気の理由としては、

  1. 農民出身である事。(文武両で書の達人でもあった)
  2. 部下や兵士に略奪を許さなかった事(当時は最弱軍隊ゆえに正規軍でさえ当たり前のように略奪していた)
  3. 民族による国家歴史が続いた中で、異民族の女族に中国大陸の北半分を制圧されるという状況下で大活躍した事。(民族同士が相手だった楽毅白起関羽、尉遅恭らより一歩前を行く)
  4. その最期が絶頂期の途中で非業の死を遂げた事。且つそれが皇帝ではなく対官僚の手によるものである事。
    (同じく異民族の侵攻を防ぎ続けながらも、最高権者の皇帝疑心により殺された袁崇煥は、儒教道徳から岳飛ほど持ち上げ辛い。また、岳飛と同時期に活躍したの名将・世忠は寿を全うしている)
  5. 岳飛を「須有(有ったかもしれない)」と言う理由で謀反の罪を着せ、非業の死に追い込んだ檜が寿を全うしている事。(所謂、判官贔屓

といった点があげられる。

そして非業の死の後に実であった事が明されると、名誉回復されて「鄂王」に封じられた後は、西湖ほとりには岳飛と共に処刑された養子の岳と共にられている「岳王」が建てられ、現在も多くの中国人が訪れている。

※岳王の岳飛と岳の墓の前には、夫婦ら岳飛を実の罪で殺した者達五人が後ろでに縛られて正座させられている像が、の檻に入れられた状態で設置されており、通る人が唾を吐きかけたり、ゴミを投げつけたりする等、中国の「死後も罪が許されない」宗教観がよく解る場所でもある。 

岳飛誕生

相川湯陰(河南省湯陰県)の貧農であった岳和の子に生まれ、誕生時に、一羽の白鳥が飛んだ事から「岳飛」と命名された。その後、くにを亡くしての由氏の手で育てられ、亡き

に殉じて義の為に死ぬ

と言う訓を胸に、若年にして「佐氏伝」や「孫子」「子」等の書物を読み、様々な武芸を身に着けて、左右いずれでも強を扱えると言う文武両青年に育ち、の手により背中

尽忠報

の四文字刺青を入れられた。

その頃の中国は、水滸伝にも登場する8代皇帝徽宗の政治を顧みない姿勢が悪臣を朝廷にはびこらせ、文民統制であったがゆえに軍隊も弱く、女族の国家であるに対する約束不履行首都開封を陥とされて、9代皇帝宗や多くの官僚・女官らが万里の長城を越えて連れ去られ、所謂「北」は滅亡し、皇族で一難を逃れていた徽宗の9男の構が即位して高宗となり、した南がたてられ、の傀儡政権がおかれていた開封も南に従うと言う混沌とした状況だった。 

無敵岳家軍

開封の防衛を担当していた老将軍宗沢の義勇軍に参加した岳飛は、農民の出ながら文武両で武芸にも長け、書の腕も一流という「お前の様な農民がいるか」と言うチートぶりから、周囲から一置かれる存在だった。

名将の沢が健在の間はおとなしくしていた軍だったが、沢が死ぬと顔宗弼を総大将に10万の大軍で南下を開始し、陵(南)にいた高宗は、難を逃れようと南へと逃亡し、果てには上に逃げる有様だったが、高宗の後を追う軍は広徳県にて良く統率された私兵集団に散々に打ち負かされ、中国歴史上でも五に入る強さと言われる軍が、6戦して6敗すると言う事態に陥った。この私兵集団を統率していたのが岳飛である。

敵の大軍の中にあっても綱紀粛正に務め、略奪を許さなかった岳飛は民衆の支持を受けて、撤退しよとした顔宗弼はの名将「世忠」の攻撃を受けて10万の軍が8000の南軍に40日間も足止めされ、顔宗弼は命からがらなんとか突破して逃れると言う事態にまで発展し、決定的な活躍をした岳飛は女族から岳爺爺と呼んで畏怖した。

軍が去った後に上から戻ってきた高宗は、岳飛を武都督大元帥に封じ、岳飛が江西地方定に尽した後は、

精忠岳飛

と書かれた軍旗を与えて、岳飛の功績を称えた。

岳飛の兵は、代の軍の弱さの原因のひとつであった文民統制下の正規軍と異なり、同郷の者達による私兵集団が軍閥化し、「岳軍」と呼ばれるようになった。

かしこの頃、後に岳飛に最大の災厄をもたらす男「檜」が、連れらされていたから妻を連れて脱出し、帰々に宰相に任命され、が敗れて和と交渉の余地が生まれた事で、開封を含む河南地方一体をに譲渡するという条件で和約を実現しようとしていた。

朝廷では屈辱的な和約が結ばれようとしている時に、岳飛は江南地方で反乱勢の討伐に邁進していたが、内部も流に返り咲いた為、再び顔宗弼が軍を率いて開封を陥とし南下して朱仙鎮に至ると、岳飛と世忠が迎え撃って大勝し、連戦連勝で開封奪還も可かと思われたが、四度の北伐も兵站限界に達した事で開封に至る事は出来なかった。

その後、導者で顔宗弼の顔宗幹が亡くなると、再度和へのが広がり、高宗も和に傾いていた事から、檜により和が進められ、同時に和の邪魔になりかねない軍閥を解体し、高宗から「中の武功第一」と称えられた世忠は、兵を解散させられた後に隠居して々自適な暮らしを始めたが、岳飛は奪回前の河南の地を与えるばかりか大な賠償を毎年払うと言う、檜が提示した和の条件が有利な状況で身低頭する事だった為、和に反対した上に兵の解散に同意せず、高宗が1日に12回も召還の為のを送った事で、10年以上もの間、軍と戦って負けしの状況だった岳飛は、念の慟哭の後に都に戻って兵を解散させた。 

莫須有

農民出身で、連戦連勝で、兵の略奪を許さない人柄がうけて民衆の支持を岳飛が集めていた事は、逆に俊ら他の軍閥や文民統制を旨としてきた官僚達からは不を買い、南筆頭の岳飛が絶大な人気を誇っていた事は、との和檜にとっては頭の痛い問題だった。

ある時、妻と暖炉を囲っていた檜は、妻の王氏が暖炉に書いた

虎を捕らえるは易く、放つは難し

と言う文字から、檜は、岳飛と養子の岳そして岳軍の幹部のを謀反を企んだとして捕らえて投し、実の罪で捕らえられた岳飛は、謀反を企てていたとの自を強要されて拷問を受けたが、筆を持たされた際に、

日昭昭(は全て知っている)

と書いて拷問に最後まで屈しなかった。

岳飛が謀反の罪で捕らえられたと知った世忠は、檜に対して謀反の拠があるのかを問いただしたが、檜は、

須有(あったかもしれない)

と答え、世忠は

須有(あったかもしれない)などと言う理由で下を納得させる事が出来るものか

と非難した。

謀反の拠が須有(あったかもしれない)と言う前代未聞の理由で投された岳飛は、最後までの自を拒否し、結果、檜の示で岳らと共に縄で首を絞められて殺され、38年の生涯を閉じた(享年39歳)。

須有、千古の冤罪」と呼ばれる事件はこうして英雄無惨な死により終わりを告げ、檜がとりまとめた屈辱的の条件での南の和が成立し、南は復を遂げて、を滅亡させたモンゴル帝国に滅ぼされるまで反映を謳歌する事になった為、檜の和重視の策は間違っていなかったのかもしれないが、檜自身は評価されず、岳飛らの活躍のおかげとする場合が多い。

檜が存命中は反逆者の汚名を着せられていた岳飛だったが、檜が寿を全うして亡くなった後に冤罪である事が明されて名誉回復がなされて鄂王に封ぜられ、喜んだ民衆の寄付により朱仙鎮に岳王が立てられ、モンゴル帝国そして元の支配の中で岳飛の名は民族の誇りとしてり継がれていった。 

その他「岳飛」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照exit

関連動画

▼いにしえ武将軍秦良玉)の初期配下武将として登場する「古くないけどいにしえ武将・級」

関連商品


関連コミュニティ

関連項目

関連人物
  • 岳和(
  • 由氏(
  • (養子)
  • (子)
  • 岳霖(子)
  • 岳震(子)
  • 岳霆(子)
  • 宗沢
  • 世忠

【スポンサーリンク】

  • 5
  • 0pt
スマホ版URL:
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E5%B2%B3%E9%A3%9B

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

岳飛

117 ななしのよっしん
2021/01/13(水) 09:16:45 ID: xq2eW3p2cO
ただ、檜も一挙両得とかどさくさ紛れの追い落としとかそう言う事を
最優先にしたがために安易にに迎合した上での現状追認の講和を
してしまったのが結果的に千年の汚名に繋がってるわけだからねぇ…
正直、>>111ウジュの晩年がたまたま「講和破棄ができるような状況じゃ
かったから運よくには滅ぼされなかった」というだけだったけど、
正直檜自身、「これは岳飛やら世忠に大打撃を受けた傷を
癒すためだけの物」というのはわかっていただろうに、の再侵攻に
どう対処するつもりだったんだろうなぁ…
118 ななしのよっしん
2021/01/14(木) 03:47:58 ID: t4HxIGJ331
人を支配するのに人を使ってきてたから
仮に南が滅びても檜は生きていけた
穏に付き合いたい間も窓口の自分は安泰だった
だがを持つと失脚する恐れがあった

中国史をみると名将の死因一位粛清じゃないかってくらい有り触れてるからな
子胥から白起から斛高長恭、枚挙にいとまがない
高宗からしても以上に怖いのが岳飛だったかもしれないよね
119 ななしのよっしん
2021/01/30(土) 10:45:41 ID: lUBr0/NaI2
離間計をされてないのに処刑されたしい忠臣
120 ななしのよっしん
2021/02/07(日) 19:40:44 ID: dS0kyPoAop
https://zhuanlan.zhihu.com/p/305798536exit

平成立から4年後の1146年にウジュはに侵攻してくるモンゴルを討伐するために遠征を行っている。
着状態が一年続いたため、モンゴル優位の和を結ばざるを得なかった。これがウジュの最後の戦いになった。

が和を決意した動機の一つがモンゴルモンゴル戦争っただ中の1130年代から頻繁にに侵攻してきていた。

戦争時は軍は中国戦線にり付いていたから、モンゴルにとっては絶好のチャンス到来だし、和平成立後も軍は長年の戦争弱体化。しかも敵がモンゴルでは勝てんわ。

モンゴルの侵攻が近年まで定説化されなったのは理由がある。史が編纂されたのは元の時代。モンゴルイメージが悪化するような史実はタブー視されていた。それに加えてウジュの同時代人が書いた記録は間違いが多く、それに書かれていたモンゴル侵攻まで事実誤認認定されていたから。


121 ななしのよっしん
2021/02/11(木) 19:06:47 ID: dS0kyPoAop
粛清して再開した南との戦争ウジュが率いていた軍の実態は悲惨なそのもの。長引く戦争で女族の率が下がり民族との混成軍団で形成されていた。民族部隊は北末期の悪政と侵略が原因で盗賊化しの軍門に下った者たち。軍はお互いの言葉が通じない士官や兵士たちが多数いた。

食料不足に陥った軍では、ロバ、さらには雑用係として従軍させていた奴隷まで食べていた。当時の女社会には奴隷制度があり、飢饉が深刻化すると奴隷が食人の対にされていたそうだ。

をすかせた軍を率いて名将ぞろいの南が有利な江南で戦って勝てるわけがないウジュが連戦連敗したわけだ。
122 ななしのよっしん
2021/02/11(木) 19:14:03 ID: dS0kyPoAop
をすかせた軍を率いて名将ぞろいの南が有利な江南で戦って勝てるわけがないウジュが連戦連敗したわけだ。

この文は


言葉が通じない将兵が多く、飢餓に苦しんでいた軍。この軍を率いて南軍が地の利を得ている江南戦争をしても勝てるわけないね。

しかも南軍は岳飛以外にも複数の名将がいたが、軍は粛清をやりすぎてウジュに過度の負担がかかっている状態。

に訂正。
123 ななしのよっしん
2021/02/12(金) 19:45:54 ID: dS0kyPoAop
軍の不利な条件を承知の上でオベンウジュが戦争再開に踏み切っていたのなら、その理由はいざとなったら使える外交カード宗を握っていたからだろう。

ウジュは甥の熙宗に宛てた遺言状に、南戦争を再開し戦況が不利になったら、の正当な皇帝である宗を利用することを提案している。

高宗は正式にから譲位されて即位していないから、宗を利用して高宗を簒奪者認定すれば、南戦争継続不可能なほどの混乱状態になるとウジュは予想していた。

高宗治世下での宗のタブーぶりから見てこの予想は当たっている。
124 ななしのよっしん
2021/02/21(日) 17:55:03 ID: dS0kyPoAop
ウジュの生前に紹の和議をが破約するのは理っぽいわ。何しろ内紛が凄すぎるんで。皇族同士の内ゲバがオベンウジュの勝利で一段落したら、今度は官僚同士の権争いが勃発してたよ。1147年ウジュは人官僚団を実の罪で大量粛清している。人は元はに仕えていた民族。この実の罪で死刑や流刑に処せられた人官僚たちはオベン有能で忠実な部下たちだった。

ウジュは側近の人官僚の讒言を信じてこんな事をやらかしたらしい。人官僚は以前はの臣下だった官僚たち。民族の分断統治を行っており、その一環で人官僚は人官僚より優遇処置を受けていたのが、この粛清劇が起きた根本的原因らしいね。

陵王は即位後ただちに恩赦を下して実の罪で流刑されたの忠実で有能な部下たちを救済し、世宗も人官僚団の名誉回復処置を行っている。ウジュが世宗だけなくあの陵王にまで拭いをさせていたのには吃驚したよ。

この粛清劇について詳しく知りたいんだが、中国でも岳飛の好敵手としてのイメージを損なうウジュのマイナス面はスルーされがちで詳しくこの事件
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
125 ななしのよっしん
2021/07/04(日) 14:15:54 ID: GgDCUTLPa8
一人でウジウジュ、うるせぇ
簡潔に言うてくれ
126 ななしのよっしん
2021/07/12(月) 21:24:07 ID: gMSbMChVb3
結局今でも岳飛項羽と同じぐらい人気のある英雄として慕われてるの?それとも一部地域だけ?

過去のオススメ記事