島津の退き口とは、古今東西類を見ないダイナミック帰宅である。
概要
慶長5(1600)年9月15日(新暦10月21日)に起きた関ヶ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍に敗れ、西軍は次々に各部隊が敗走。
その中で、最後まで陣から動かなかった島津義弘率いる島津軍(約300)が敵中(約80,000)に孤立してしまう。
普通ならこの時点……というか、孤立する前に降伏するか寝返るか逃げるかするものだが、義弘の下した決断は尋常ではなかった。以下その時にあったというやりとり。
島津義弘「敵は何処方が猛勢か」(敵の勢いが最も強いのは何処だ?)
家臣「東寄の敵、以ての外猛勢」(東側の敵勢の勢いが尋常でなく強いです)
※ただしこのやり取りには異論もあり、討死(自害?)を口走った義弘を、豊久が必死に止めたという話もある。
かくして、戦闘がほとんど終結していたにも拘らず、島津軍(約300)が東軍(約80,000)に向かって一斉に突撃を開始したのである。
普通なら鎧袖一触とばかりにズタボロにされるはずであるが、猛将・島津義弘率いる戦闘民族薩摩隼人達がおかしいのか、東軍にやる気が無かったのか、徳川軍本隊の目前まで一気に突破。更にそのまま脇をすり抜けて伊勢路方向へ一直線に駆け抜けたのである。
※最近では話が盛られて「徳川軍を中央突破して撤退した」という誤解が生じている。
いくら薩摩隼人でもそんなことしたら囲まれて全滅するので注意。やりかねない話ではあるが。
当然東軍は追撃したが、この時『捨て奸(すてがまり)』や『座禅陣』と呼称される決死の足止め役(※1)が、追撃を食い止めるために文字通り捨身で東軍に襲いかかった。
その勢いは尋常ではなく、
と、かなりの被害を受けてしまう。
もちろん島津軍も無事であるはずもなく、妖怪首おいてけ島津豊久や家老・長寿院盛淳などが次々に討死したものの、大将である島津義弘は脱出に成功。
大阪を経由(更に人質を奪還)し、堺の港から船で薩摩まで辿りついた。
この時、義弘の周りにいたのは(※2)僅かに80名ばかりだったと伝えられる。
…とは言え、300人vs80000人で80人生き残るというのが多いか少ないかは人によって感じ方が違うだろうが。
※1 火縄銃と槍刀で武装した兵士たちが、ある程度の集団として本隊から離脱。座禅を組み座り込んで火縄銃を構え、敵将を狙撃。撃った直後に槍や刀に持ちかえ敵集団に突っ込み死ぬまで戦うという時間稼ぎ戦法。確実に追手は足止めを食らうが、捨て奸の兵士もほぼ確実に死ぬという、トカゲの尻尾切りも真っ青な壮絶極まりない戦法である。
更に言うとにこの役目、命ぜられた人数よりも自分からその役を買って出た人数の方が多かったとも言う。
現代でいうところの、「ここは私が!」であり、ニコニコ風に意訳すると「ここは俺に任せて先に行け!」もしくは「ヒャッハー道連れだー!」である(或いはその両方)。
更に更に言うと、この時点で東軍の勝ちは決定していた。つまり東軍は「折角勝ったのに死にたくない!」に対し島津勢は「殿お1人でも城に戻れば我らの勝利。兵子ども死ぬるは今ぞ!」なのである。この辺の士気の差は大きいのではなかろうか。
※2 この人数は『義弘と一緒に薩摩に戻った』のが80名であり、逃げ延びて後からバラバラに帰国した者もいたため、実際に生き残った人数はもうちょっと多かった模様。どういうことなの……
この前代未聞の「前進する」撤退戦が、後に『島津の退き口』と呼ばれ、薩摩隼人の頭おかしい武勇を世に知らしめる事となった。
補足
まず「なぜ島津の兵たちはこのような戦法を取ったか」という部分であるが、この時大勢は決していた。天下分け目の大戦で勝目方とあれば、それすなわち「上様」であり、その徳川に弓引くは「逆賊」である。
つまり島津の総大将である義弘が「生きて戦場を離脱」し「徳川方を納得させる言い訳または謝罪」をせねば、島津のお家危機(=お取り潰し)であった。文字通り義弘の首に島津の全てがかかっていたのである。
もちろん薩摩隼人のバーバリアン(あるいはバーサーカー)っぷりもこの戦法に拍車がけたのは言うまでもない。
ちなみに、西軍に加担(せざるを得なかった=伏見城に援軍で入ろうとしたら、鳥居元忠に拒否られた+鉄砲まで撃ってきた)した時点での島津軍は約1500人ほどであったとされる。
本国薩摩では徳川の政治的な圧力や黒田官兵衛等に備える必要があり、大阪の義弘に大っぴらに援兵を出せなかったため、義弘を慕う荒武者どもがそれぞれ徒歩で大阪まで馳せ参じた。
早い話が1000人以上が殿様大事と聞いて駆けつけたのであり、中でも義弘家臣の中で最強のぼっけもん(強者)として知られる中馬重方などは、知らせを聞きつけるや否や畑仕事を放り出し、知らせてくれた(駆けつける途中だった)朋輩が持っていた槍甲冑をぶん取り、そのまま大阪まで駆け通したという。
義弘の人望、推して知るべし。
ちなみにこの時槍甲冑を取られた朋輩は、重方の家まで行き槍甲冑を担いで後から駆けつけたらしい。カワイソス。
なお、この後島津は改易になるどころか、西軍の関ヶ原参戦組では唯一、かつ異例の本領安堵となる(寝返り組は除く)。
そりゃ300人でこれなのに、本国に主力(数千~万)が居るとか冗談じゃないレベルではある。
といった背景もある。
とは言え徳川が何もしなかった訳ではなく、実際には家康は島津討伐の命を下しており、これを受けて九州の大名による連合軍が肥後水俣まで肉薄した。
島津義久はこれを迎え撃つべく全軍を率いて出陣するが、直後に家康宛に義弘からの謝罪の使者が向けられた事で戦が回避され、その後で交渉開始となっている。
またその交渉も2年という長さに及んでおり、最終的には島津側の粘り強さに家康が根負けした形となっている。
ちなみにこの交渉、調べてみると結構面白い。
徳川方の交渉役は島津によって致命的な致命傷を負わされた井伊直政であったり、島津竜伯(義久)も島津惟新(義弘)も、書状でこれっぽっちも非を認めていないなど、笑いどころ満載である。
注意事項
これらの行為は、特殊な訓練を受けた精強な変態兵によるものです。
現実にこのような行為をする事は大変危険ですので、良い子も悪い子も絶対に真似しないでください。
関連動画
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関連項目
- 歴史
- 関ヶ原の戦い
- ダイナミック帰宅
- 日本版スリーハンドレッド
- 捨て奸
- 座禅陣
- 島津義弘
- 島津豊久(妖怪首おいてけ)
- 長寿院盛淳(阿多盛淳)
- 徳川家康
- 井伊直政
- 本多忠勝
- 松平忠吉
- 鳥居元忠
- 戦国時代の人物の一覧
- ドリフターズ(漫画)
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