島津久光(1817~1887)とは、幕末に活躍した人物である。
概要
薩摩藩主の一門で島津斉興とお由羅の方の間に生まれた子供。つまり島津斉彬の異母弟。幕末のキーパーソンではあるのだが、映像作品などではいまいち兄・島津斉彬に比べて扱いが悪いような…。
島津斉興が島津斉彬ではなく、次第にその弟である島津久光に家督を譲ろうと考え、それに様々な要因が加わった結果、お由羅騒動が起きてしまったことでも有名である。とはいえ、騒動の鎮静化後、島津斉彬は彼を重用し、安政5年(1858年)にその斉彬が亡くなる際、遺言によって島津久光の息子・島津忠義が藩主となり、安政6年(1859年)頃から久光は国父として藩政の実権を握るようになる。
島津久光は当初慎重論を示し、安政6年(1859年)には大久保利通ら尊王攘夷派の計画を断念させるなどの行動をとっていたが、桜田門外の変、和宮降嫁などの政局の変化を受け、挙兵上洛を決意。文久2年(1862年)に上洛すると、藩政改革を求める勅使派遣を建言し、その勅使・大原重徳の警護とともに江戸に下向。その帰途に起こったのが行列を遮ったイギリス人を殺害した生麦事件である。
この結果、文久3年(1863年)に薩英戦争が勃発。島津久光は攘夷の難しさを痛感させられてしまう。孝明天皇の求めで再度上洛するも、攘夷論の台頭を感じて帰国。この年のうちに再度の上洛を果たし、元治元年(1864年)に朝政参与に任じられる。しかし参与会議で横浜鎖港問題をめぐって一橋慶喜(後の徳川慶喜)と対立し、朝政参与を辞退して帰国してしまう。
ついには慶応3年(1867年)の4度目の上洛による四侯会議では、薩長同盟を受けて長州藩寛典処分の先決を主張するも、ついに慶喜と意見が合わず、薩摩藩は討幕へ舵を切ることとなる。
こうして入れ替わる形で島津忠義の兵が上京。以後戊辰戦争を経て明治新政府の樹立が行われた。やがて、新政府樹立後、版籍奉還では不十分と考えた西郷隆盛らが、島津久光の反対を押し切り明治4年(1871年)に廃藩置県を断行。島津久光は抗議のため一日中花火を打ち上げさせた逸話が残る。
この年玉里島津家を樹立し、明治6年(1873年)に内閣顧問、明治7年(1874年)に左大臣に迎えられたが、新政府への不信感を募らせ、明治8年(1875年)には辞任。以後史書編纂などに専念し、明治17年(1884年)に公爵になったことくらいしか特筆すべきことはない。
関連項目
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