島津重豪(1745~1833)とは、江戸時代後期に活躍した大名である。
概要
薩摩藩藩主で島津義弘や島津忠恒の子孫。藩財政を傾ける一方で薩摩藩の地位を高め、幕末の原動力を作り出したと評される人物。
宝暦5年(1755年)に父の死去のため幼くして藩主となる。彼がさっそく取り組んだのは風俗の向上であり、安元元年(1772年)、安元2年(1773年)頃には他領と文化的交流を進めていき、近世の大藩たる身分秩序を確立していった。
さらに藩校造士館や演舞場の創設、医学院や薬草園の設置、明時館の設立と薩摩暦の制定など、学問の発展に尽力。『成形図説』、『鳥名便覧』、『南山俗語考』などの書物も出版した。これに加えて島津重豪には「蘭癖」があり、家中には蘭学者が多く、ひ孫の島津斉彬につながっていったとも。ただし、オランダとの貿易・密貿易を図る意図もあり、和蘭商館長ムミーが掛川で死んだのは、密貿易計画による自殺ともいわれていたり。
また、島津重豪の娘・茂姫が徳川家斉と婚姻。前例のない外様大名一門との婚礼は波乱を呼んだものの、島津家と縁の深い五摂家筆頭・近衛家の養子にしてから家斉に嫁ぐことで纏まり、島津重豪は一躍将軍の岳父となる。こうして島津重豪は"高輪下馬将軍"と称される程の権勢を誇り、次々と他の大名たちがこぞって婚姻や養子縁組によって縁戚になろうとした。かくして、南部家、丹羽家、佐竹家、戸沢家、戸田家、久松松平家(伊勢桑名)、柳沢家、久松松平家(伊予松山)、奥平家、黒田家といった血縁グループが出来上がったのである。
とはいえ、これらの結果ただでさえ困窮していた藩財政は悪化。ついに島津重豪の子・島津斉宣の代になると、藩学を否定し財政再建を試みる「近思録崩れ」が勃発。島津重豪は島津斉宣を退けてその子・島津斉興を藩主に据え、島津斉興と調所広郷による天保の改革が始まることとなった。
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