概要
中学生の時、円谷英二が特技監督を担当した本多猪四郎監督の『地球防衛軍』を映画館で観て人生を変えるほどの感動を得て、特撮に身をささげることを志すようになる。
1960年に短大に通いながら憧れの東宝で裏方のアルバイトとして働き、2年後に正式に東宝へ入社。本社勤務の話もあったが、特撮への愛着から特殊技術課への配属を希望し、円谷英二に師事。初めて関わった作品は地球防衛軍とほぼ同じスタッフで創られた『妖星ゴラス』(巨大な星を避けるために地球をズラすという結構なトンデモ映画)だった。
同じ年には看板作品だったゴジラシリーズが復活し、裏方として『キングコング対ゴジラ』にも関わり、これが川北のゴジラとの最初の出会いとなった。
1963年からは光学合成を担当するようになり、この経験は後に平成ゴジラVSシリーズで画面を美しく彩った極彩色の光線美学へと繋がっていく。1965年には初めてテレビの仕事として『ウルトラQ』にも参加。翌66年のゴジラ映画『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』では撮影助手にまで上り詰めた。
また、同年に始まった特撮テレビドラマの大ヒット作『ウルトラマン』では日本人なら誰もが一度は目にしたであろう「ウルトラマンが光と共に巨大化していく」という超有名なハヤタの変身シーンを創り上げ、後のウルトラシリーズにおけるヒーロー変身シーンの基礎を作り上げた。
しかし、1970年に円谷英二が亡くなると、東宝の特撮部門が縮小され、新体制となった71年に製作された『ゴジラ対ヘドラ』は従来の2班体制から1班体制へと変更され、坂野義光監督の下で演出助手および本編助監督を担当した。ウルトラシリーズでは引き続き『ウルトラマンA』にも参加、さらに『流星人間ゾーン』ではゲスト出演したゴジラの演出も担当した。
そして、1976年、『大空のサムライ』で念願の映画特技監督デビューを果たす。これにあたり、師の円谷と同じ操演ではその映像を越えられないと、東宝特撮史上初の手法であるラジコンを使った撮影を反対を押し切って採用し、一定の画面効果を上げることに成功する。
その後もコンスタンスに東宝映画に携わるが、平成時代に入り一大転機が訪れる。
一つ目が1989年に公開された原田眞人監督作『ガンヘッド』で、本格的な巨大ロボットを日本映画で初めてスクリーンに登場させた。興行的には失敗したものの、その特撮自体は現在でも語り草となっている。
そしてもう一つが中野昭慶から後を引き継ぎ、自身の代名詞ともなる平成ゴジラシリーズのスタートである。
ガンヘッドのスタッフをほぼそのまま使い、監督に新鋭の大森一樹を招いた意欲作『ゴジラvsビオランテ』は従来の怪獣映画とは一線を画した本格SFとして映画自体の評価も高く、また30本以上ものピアノ線を用いたビオランテの操演技術も観客を驚かせた。興行的には前作の『ゴジラ(1984年)』を下回ってしまい、シリーズ続行ギリギリのラインではあったものの、後のvsシリーズに一定の方向性を与え、実に6作品もの続編が作られ、特に『ゴジラvsモスラ』はかの『日本沈没』をも凌ぐ大ヒット作となった。
このvsシリーズでは爆破による迫力を重視した中野特撮とは異なる、当時人気だった『ドラゴンボールZ』や『幽☆遊☆白書』的な少年漫画チックな光線技主体の派手な画面作りに注力し、男児を中心に爆発的な人気を集めた。一方で、円谷時代からの教えである『残酷なものは極力避ける』という意思から『血』をスクリーンに出すことはあまりせず、怪獣へのダメージ表現を樹液や金粉で表現するといった工夫もあった。
1995年に『ゴジラvsデストロイア』でゴジラの死を描き、翌年以降は平成モスラシリーズの特技監督も担当。
2002年に東宝を定年退職してから自身の映像技術を存分に活かすために映像制作会社「ドリームプラネットジャパン」を設立。
ゴジラシリーズ完結後の超星神シリーズでも、ゴジラで培った技術を用いて迫力ある特撮画面を子供たちに届けた。
2011年になり、バンダイのアクションフィギュアシリーズのS.H.Monster Artsで自身の手がけたバージョンのゴジラとメカゴジラがその第一弾としてフィギュア化されることが決定。そのプロモーション映像で久々にゴジラを演出した。2012年「平成ゴジラで育ったあなたへ」としてDENGEKI HOBBY BOOKSのパーフェクションシリーズの第一弾として刊行された『平成ゴジラパーフェクション』の監修を勤め、平成ゴジラの数々の貴重な資料を提供した。
2014年にはゴジラ60周年として再度ハリウッド版のゴジラが公開されることが決定し、数々のゴジライベントに出席。ギャレス・エドワーズが監督したこの新アメリカゴジラにも高い評価を与えていた。
大ゴジラ特撮展ではファンに対し気軽にサインや握手、写真などに応じ、トークライブでは大森監督との絶妙なコンビを見せたが、既にこの頃体調があまり優れなかったという。最後に公の場に姿を現したのは同年11月の伊福部昭100周年のコンサートに観客として訪れた時で、西川伸司らに挨拶をしており、西川と大阪の学校で共に講義を行う約束までしていたが、その後体調が悪化。
2014年12月5日、72歳の誕生日の日に肝不全で夢の惑星へと永遠の旅に出かけられた。
このことは12月11日まで関係者以外には伏せられ、12月8日の日本版ゴジラ新作のスタートを告げるニュースが先行して大々的に報じられた後に伝えられた。川北監督はこの新シリーズ決定のことを知らないまま旅立たれてしまったが、最晩年に行われたファミ通のインタビューでは新作への参加にも意欲を示していた。
生前最期の作品は晩年に自身が客員教授を務めた大阪芸術大学の学生、そして長年の朋友にして同大学の映像学科長でもある大森一樹らと共に製作した自主映画『装甲巨人ガンボット 危うし!あべのハルカス』で、前年に学生たちの製作した『戦え!太陽騎士アポロナイト』の好評を請けてテレビ連続番組としての放映を視野に入れたものだった。(後にオープンキャンパス来場者などに向けて非売品DVDも製作されている)
この作品はテレビ大阪のみで11月7日から12月5日にかけ4週に亘って実際に深夜帯にて放送された。
奇しくも、最終話である第4回「あべの大決戦」の放送当日に川北は旅立つこととなった。2018年10月21日にはCSテレ朝チャンネルの「平成最後のEXマニアックス 濃ゆいの集めました」特集で「ムーンスパイラル」などと共に再放送されている。
没後7年から少し経ったクリスマスの2021年12月25日には、ソフト化が非売品DVDのみでごくたまに上映会で観る他には視聴困難だった遺作『装甲巨人ガンボット』のDVDが国立国会図書館に収蔵、翌2022年1月16日付で現地閲覧が可能となり、利用者登録を行って研究目的などの詳細な理由があれば、誰でもこの自主映画を楽しむ事が可能となった。
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