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川口和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日-)とは、鳥取県出身の元プロ野球選手(投手)である。
2011年から2014年まで読売ジャイアンツの投手総合コーチを務めた。
概要
OB | |
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川口和久 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 鳥取県鳥取市 |
生年月日 | 1959年7月8日 |
身長 体重 |
183cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投両打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1980年ドラフト1位 |
引退 | 1998年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
幼少期は鳥取県の吉岡温泉で旅館とうどん屋を経営していた両親を出前などで手伝っており、野球は2人の兄の影響で始め、6年生から投手になっている。
高校時代は速球を活かしてノーヒットノーランを達成したこともあったが、このノーヒットノーランで7四球を記録するなど制球が致命的に悪く、県大会では決勝止まりで甲子園には出場できなかった。
それでもプロからはその速球は魅力的に映ったようで、ロッテから6位で指名されるが「まだ自信がない」としてこれを拒否して社会人のデュプロに進む。
しかしデュプロでは初先発となった松下電器戦でバスターからホームランを打たれたり、高校時代に膝を痛めていたにもかかわらずランニングを強制される等苦い思いをすることもあった。
そんな中で川口は住金和歌山の補強選手として都市対抗に出場、やがて広島のスカウトである木庭教から目を付けられ「うちが絶対に上位指名をする。他の球団に知られたくないから投げないでくれ」と依頼される。
最も川口としては試合に出れば手を抜くわけにもいかなかったため、木庭スカウトはわざと他のスカウトの前で川口が多くの故障を抱えているかのような話を披露したという。
そんなこんなで1980年のドラフトでは原辰徳を外した広島から外れ1位で指名されて広島に入団。ちなみに川口自身はよもや1位で指名されるとは思っていなかったようで、仕事中に仕事着のままで会見を行う羽目になった。
広島時代
1981年(1年目)は初登板の中日戦で左打者に二塁打を打たれて自信を失い、2軍落ちを志願するが許されず、6月には投球練習中に山本浩二から「ストレート、カーブ、はい真っ直ぐ」と球種を言い当てられ、その後阪神の投手である山本和行に満塁ホームランを打たれたことで2軍落ちとなった。
古葉竹識監督からは「左打者を抑えられるようになれ」と言われ、2軍では走り込みと左打者対策のために内角攻めを磨き上げる。
1982年に先発で初勝利を挙げる。この時途中からリリーフで川口の初勝利をアシストした大野豊からは「1勝もできないで辞めていく投手はたくさんいるんだぞ。よかったな」と祝福されている。
1983年はシーズンを通じて1軍で投げ続け、15勝10敗でリーグ3位の防御率2.92とリーグトップの4完封を記録する等ブレークを果たすが、一方で四球もリーグトップの104個で高校時代から続く荒々しいスタイルは変わらないままだった。
1984年はシーズンこそ8勝6敗、防御率4.23と今一つな成績に終わるが広島は4年振りの優勝を決め、阪急ブレーブスとの日本シリーズでは第3戦目に登板し、4番のブーマー・ウェルズを徹底的な内角攻めで封じ込め9回3失点で完投勝利を記録する。しかし第6戦目に登板した際は初回に阪急の先頭打者である福本豊に頭部死球を与えてしまう。この時福本のヘルメットは砕け散り、福本自身もしばらく起き上がらなかった為「ああ、人を殺してしまった。俺の野球人生もこれで終わりだ」と動揺してしまい(幸いにも大事には至らず、翌日の7戦目に福本は出場している)、3回には2アウトから2四球を挟んで5連打で一挙7点を失いノックアウトされた(補足しておくと当時はまだ頭部死球⇒即退場というルールは作られていなかったため、川口は初回で退場にはなっていない)。
だがこの年行われた広島とボルチモア・オリオールズの日米野球では第1戦目の先発を託されると、オリオールズの打者たちは川口の速球とカーブのコンビネーションに手も足も出ず、結局川口は9回を6安打無失点10奪三振の快投、打っては自身のタイムリーが決勝点となり1-0で勝利。翌日からカープは4連敗を喫したため、川口の活躍が一層光るものとなった。
1985年には右打者対策としてスクリューを、1987年には左打者対策としてシュートを覚え、これにより投球の幅が広がり、1987年は12勝11敗ながら184奪三振で初の最多奪三振のタイトルを獲得、1989年も12勝7敗、192奪三振で2度目の最多奪三振のタイトルを獲得した。
1990年はリーグワーストの被本塁打・失点を記録したことで新たにスライダーを習得する。
1991年は12勝10敗、自己最高となる230奪三振で3度目の最多奪三振を記録する。またこの年の日本シリーズでは最終的に敗れはしたものの、大野豊とのリレーで西武ライオンズから2勝を挙げて敢闘賞に輝いている。
1994年、7勝10敗という成績に終わると、川口は関東在住の夫人の父親が重病のため近くで看病したいという希望のためFA宣言をする。在京球団が希望で当初は西武に決まりかけていたが、巨人の監督であった長嶋茂雄から直々に誘いを受けたため土壇場で巨人入団を決意、FAで巨人の一員となった。
巨人時代
1995年は先発で結果が残せず、通算2000奪三振という大記録を達成するも、シーズンでは4勝6敗、防御率4.42という成績に終わりバッシングを受ける。
1996年はリリーフ転向を告げられ、一時は引退しようか考える程に悩んだが、コーチの宮田征典の説得と受け、二人で一から体とフォームを見直した結果往年の球速も取戻し、7月には一軍に復帰すると中継ぎ・抑えとして活躍。10月6日の優勝決定戦となった中日戦では朝に長嶋監督に呼ばれ「最後は君が投げるんだぞ」と告げられ、その言葉通り5-2でリードした8回途中から登板し、1と1/3回を無失点に抑えて胴上げ投手となった。
1997年はあちこちの故障が原因で2軍暮らしが増え、1998年に「打たれても悔しくなくなった」という理由で現役を引退した。
引退後
2011年から2014年まで読売ジャイアンツの投手総合コーチを務め、2015年からは編成入りした。
プレースタイル・エピソード
最速148キロのキレのある速球と変化の大きいカーブを一番の武器とし、 どんな時でも打者に向かっていく姿勢を崩さず、多くの三振を奪っている。反面制球はプロ入り後も改善されず、6度の四球王の他2度の暴投王にもなっているがカウントが悪い時でも腕を振ることを意識していたため、フルカウントにも強く、自己最多の奪三振を記録した91年にはフルカウントとなった82打席で被打率.122、39三振、奪三振率47.6%という数字が残っている。
通算139勝の内、巨人戦で33勝を挙げており、対巨人戦で30勝以上で巨人に勝ちこしている数少ない選手(後は平松政次と星野仙一)で、阪神からも34勝を挙げている。逆にヤクルトスワローズからは12勝しか挙げていない。
本人曰く「巨人戦はいつも斎藤雅樹・槙原寛己・桑田真澄の三本柱との投げ合い。2点取られたら負けという緊張感がよかった。あと巨人は左打者が多く、あまり走らなかったので、左打者さえ抑えればいいという安心感があった」とのこと。
広島時代の女房役であった達川光男とは当初息が合わずに言い争いになったこともあったが、とある試合で打ちこまれた川口を達川が擁護したことから信頼を寄せるようになり、その後は所謂「ツー・カーの仲」となった。
プロ野球選手とは知らずにモデルにスカウトされたことがある。
成績
通算投手成績
通算:18年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 435 | 347 | 98 | 25 | 139 | 135 | 4 | - | .507 | 2410.0 | 1021 | 2092 | 1006 | 906 | 3.82 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | ||
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最多奪三振 | 3回 | 1987年、1989年、1991年 |
表彰 | ||
月間MVP | 3回 | 1983年6月、1988年9月、1989年4月 |
日本シリーズ敢闘選手賞 | 1回 | 1991年 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 6回 | 1983年、1986年-1990年 |
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関連項目
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