市川猿之助とは、日本の歌舞伎の名跡である。屋号は澤瀉屋(おもだかや)。
反骨精神と先進性を併せ持つ一癖も二癖もある人ばかりという独特の歴史を持つ名跡である。
歴代の市川猿之助
- 初代市川猿之助(1855~1922)…末端の歌舞伎役者であった坂東三太郎の息子。
十三代目市村羽左衛門(後の五代目尾上菊五郎)の弟子を経て九代目市川團十郎の弟子となる。
ところが、ある小芝居(非公認の芝居小屋)に出演した際にあろう事か無断で十八番である「勧進帳」を演じた為、師から破門されてしまう。
しかし、破門にもめげずドサ回りを続けて修行した結果、1890年(明治23年)に破門を解かれた。
その後は市川猿之助を襲名し、市川一門の中でも初代市川左團次に次ぐ地位を獲得した。
九代目團十郎と初代左團次の死後は市川一門の長老格まで上り詰めた反骨の苦労人でもある。
1910年(明治43年)に息子である長男に市川猿之助の名前を譲り二代目市川段四郎を襲名する(因みに初代段四郎は初代市川團十郎の弟子)。
一方で息子と共に十八番の中で既に演じられなくなって久しかった「鎌鬚」を復活上演させるなど、
晩年になっても意欲的に活動に取り組む独創性は息子や曾孫に受け継がれている。
大正11年2月、横浜での舞台出演直前に倒れて死去した。 - 二代目市川猿之助(1888~1963)…初代の長男。
因みに「これからは役者も勉強が必要だ」という父親の方針から歌舞伎俳優初の私立中学を卒業している。
上述の様に1910年に二代目市川猿之助を襲名する。
欧米に留学し、ロシア舞踊の要素を歌舞伎に持ち込むなど父譲りの独創性を誇る。
一方で反骨精神も健在で、配役等の問題から大正13年(1924年)と昭和6年(1931年)には何と二度も松竹から独立までしたりしている。
松竹に出戻った後も二代目市川左團次一座に入り新作の創作や記録映画を除いて当時(戦前)はタブーですらであった商業映画の出演も行っている。
因みに戦後は海外公演(それも当時共産圏であったソ連と中国)も行っている。
1963年に孫に猿之助の名跡を譲り初代市川猿翁を襲名する。
しかし、この名跡襲名に至る経緯を含めた諸問題を巡って時の市川宗家である十一代目市川團十郎と対立してしまい、一門の襲名にも関わらず團十郎にボイコットされてしまった…。
そんな事もあってか襲名披露公演直前に倒れてしまう。
余命いくばくもない事を悟ったのか、公演の最後の3日間の口上のみ息子の三代目市川段四郎と共に出演した。
その時涙ながらに孫の襲名を語った事から「涙の口上」と呼ばれている。
そして、孫の襲名から僅か2週間後の6月12日に亡くなった。 - 三代目市川猿之助(1939~)…二代目の孫。
襲名直後に祖父と父を無くして劇界の孤児となってしまう。
しかし、先祖代々の独創性を発揮し、曽祖父や祖父の演目などに加えて明治時代の演劇改良運動や関西歌舞伎の衰退に伴い絶滅しかけていたケレン(瞬時に別の役になる早変わりや宙乗りといったエンターテインメント性重視の奇抜な演出)の要素を復活させて盛り込んだ後に「スーパー歌舞伎」と呼ばれる斬新な演出方法で従来の歌舞伎ファンとは異なる新たな客層を開拓する事に成功した。
また、劇界で孤立していた事により二代目中村鴈治郎や五代目坂東玉三郎といった一部の人を除き共演してくれる役者がいない事を逆手に取って、血縁や出自に拘らず大きな役が付きにくい脇役や国立劇場研修生を弟子にして大役に抜擢するなどして「猿之助一座」を形成した。
一方で自身の襲名披露公演をボイコットした十一代目團十郎や團十郎の実弟でスーパー歌舞伎の事を木下サーカスにかけて「喜熨斗サーカス」と批判した二代目尾上松緑への恨みからか全ての歌舞伎役者が出演した十二代目市川團十郎の襲名披露公演を前代未聞の一門揃ってボイコットをするという反骨精神も遺憾無く発揮している。
(因みに十二代目市川團十郎とは後年に和解し共演を果たしている)
しかし、2003年に演出指導中に脳梗塞を起こし歌舞伎役者としてはこの年を最後に実質引退状態となった。
2012年、甥に猿之助の名前を譲り、祖父の隠居名であった二代目市川猿翁を襲名した。
そして襲名披露公演では何と9年ぶりに舞台に復帰し甥や実子の市川中車、孫の市川團子たちと共演した。
上述の様に俳優であり九代目市川中車を襲名した香川照之は実子である。
四代目市川猿之助
1980年の『義経千本桜』(よしつねせんぼんざくら)の安徳帝の役で初お目見得。1983年『御目見得太閤記』(おめみえたいこうき)にて、二代目市川亀治郎を襲名。伯父の三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁)の下でさまざまな役に取り組む。また、「学問の澤瀉屋」の呼び名の通り慶應義塾大学文学部(国文学専攻)を卒業。歌舞伎役者としては珍しい大卒の役者である(慶応義塾大学の先輩に、澤瀉屋の兄弟子である市川右近がいる)。
2002年に『亀治郎の会』を開催。ベテランの指導を仰ぎながらさまざまな舞台で演じていく。
2007年、大河ドラマ『風林火山』にて武田晴信を演じる。歌舞伎では女形を演じることが多く、将来を嘱望されているが、この大河ドラマではとても男臭い晴信を演じ、好評となる。ニコニコ動画では第28回で見せた、千葉真一演じる板垣信方の名を叫ぶ場面が、その迫力・演技にて人気となる。
2010年大河ドラマ『龍馬伝』にて、坂本龍馬暗殺犯の1人である今井信郎を演じ、翌年のTBS系列ドラマ『JIN-仁-』では坂本の盟友である中岡慎太郎を演じた。
その他
- 勉強家である猿之助の自宅には本屋が開けるほどの蔵書があるという。
- 従兄弟の香川照之とは仲が良く、猿之助の舞台のパンフレットに香川が寄稿したり、記者会見のときには香川をだしにしたジョークを交えたりする。
- 顔がカピバラに似ていることからか、猿之助の動画には「カピバラ」タグがよくついている。ネットでは「カピ様」という愛称も。
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関連項目
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