市松人形とは、人形の一種である。
関節が可動し、正座ができるより高級な市松人形のことを「三つ折れ人形」ということもある。
概要
一口に「市松人形」といってもそれの意味するところは文脈によって異なる。
以下は「市松人形」という用語の場合分けである。
・日本人形としての市松人形:ひな人形や木目込み人形、御所人形などを含み、西洋人形と対置される。
・細かい仕様・グレードで分ける市松人形:三つ折れ人形>座り人形>立ち人形
→三つ折れ人形:正座ができる、座り人形:台座から外し座ることができる、立ち人形:台座固定
・大きさ(サイズ)で分ける市松人形:答礼人形>>15号>14号>13号>12号・・・>>豆市松
市松人形の(ほぼ共通する)特徴は、
・おかっぱの髪型※ただし、近年は髪型も多様化している。また男の子の市松人形も存在する。
・絢爛な着物※振袖のことが最も多いが、一部に留袖あるいは洋服の市松人形も存在する。
また市松人形の第一人者である青山恵一氏(京都/昔人形青山店主)によれば、人形は以下の5つの要素を兼ね備えた「総合芸術」であるとされる。
①形としての「彫刻」的側面
②彩色としての「絵画」的側面
⑤それらをまとめあげる「コーディネート」的側面
※参照:マリア書房2003『「骨董」緑青vol19 特集:<生誕100年>人間国宝・平田郷陽─人形の世界』75頁以下「人形に生きる」より
市松人形の歴史
江戸時代:市松人形のルーツ
「市松人形」という呼称の由来は諸説ある。
・江戸中期の美男俳優・初代佐野川市松の似顔人形に由来(喜多川守定『守定謾稿』に記述あり)→ほぼ通説
・「市松」と名の付く子どもが多く、彼らをターゲットに制作されたということに由来
いずれにしても当時の「市松人形」は非常に高価であり、大名の娘などの上流階級のお遊び品であった。
また見た目から受けるイメージも現代のものとだいぶ異なり、男の子(三つ折れ人形が多い)は地味な着物&おっさん的な風貌、女の子(御殿女中人形、姉様人形とも)は対照的に細くきゃしゃで色っぽいという特徴を持つ。
※参照:マリア書房2012『緑青vol.5 ICHIMATSU市松人形』32頁以下青山恵一「人形今昔」及び、同74頁以下さいとう恵美子「着せ替え人形 享受日和」より。以下、この歴史の項目において全面的に参照。
明治・大正時代:市松人形の発展
明治時代、大正時代を経て市松人形は徐々に現在の形に近づいていく。
「市松人形=おかっぱの女の子」というイメージはこの時代に形成されたといってもよい。
また、大正時代になると「桐塑(とうそ)」という技術が大量生産向けに最適化され、徐々に庶民にも広まっていく。
当時の市松人形は「着せ替え人形」としての側面も強く持っており、各オーナーがオリジナルの衣装を作成して着せ替えを楽しんでいたという。
昭和時代:市松人形の華
市松人形を一躍有名にしたのは昭和2年にアメリカから送られてきた「青い目の人形」に対するお礼としての、答礼人形コンクールである。
おかっぱに振り袖姿の大型の市松人形(身長81センチ)というテーマで全国から人形を募集。そして審査により上位58体を選出した。※その中で最優秀作となったのがのちの人間国宝平田郷陽(当時弱冠24歳)である。
同コンクールなどが火付け役となり、一時は「お人形=市松人形」を指すほどの市松人形ブームが起こり、それに伴い「市松人形専用の着物や紋が制作されるようになる」「嫁入り道具として市松人形が採用されるようになる」「人形作家が大幅に増加し、技術水準もさらに向上する」などの社会現象が起こった。
また、昭和時代以降の市松人形は非常に絢爛な衣装を着ていることも特徴であり、現在もヤフオクなどに出品されている古い市松人形の写真から、当時を窺い知ることができる。
※上記マリア書房2012『緑青vol.5 ICHIMATSU市松人形』のほか、マリア書房2003『「骨董」緑青vol19 特集:<生誕100年>人間国宝・平田郷陽─人形の世界』12頁以下小林すみ江「生人形師から人形作家へ─天才・平田郷陽が歩んだ道─」より。
戦後~平成~令和時代:市松人形の多様化
とりわけ平成に入ってからは、他の文化領域と同様にニーズの多様化が進んでいる。例を挙げるとするなら、以下の変化が重要である。
・着せ替え人形→観賞用人形という変容:着物は人形に接着され、また立ち台に固定されたタイプのものが一般的になる。また「大量生産大量消費」というニーズに即応して廉価な市松人形も増加した。
・嫁入り道具→ひな人形の代替という変容:女性の社会進出に伴い、嫁入り道具の需要が全体的に低下。その代わりに、ひな人形と並んで子どもの健やかな成長を祈るグッズとして認識されるようになった。また、最近では女性を中心に自分自身用として購入するケースもあるという。用途の変化により、市松人形の髪形も従来の「おかっぱ」とは限らず、現代的な髪形の人形も増加した。
・三つ折れ人形&座り人形→コレクター用の高級品という変容:現在も昔ながらの技術で三つ折れ人形や座り人形を制作する職人は存在はするが、少数となっている。とりわけ三つ折れの市松人形は市松人形の最高峰として、一部の人形愛好家によって収集・保管されている。
現代の市松人形は多様化のただなかにある。しかし、それによって昭和時代に平田郷陽が確立した「芸術としての市松人形文化」が希薄化するとすれば非常に残念だといわざるを得ない。今後は、市松人形をはじめ日本の伝統文化を次の世代に対して開かれたものとしておくことが求められているといえるだろう。
代表的な市松人形作家と市松人形関係者(あいうえお順)
人間国宝:二代 平田郷陽(明治36-昭和56年)
人形作家として昭和30年に重要無形文化財(人間国宝)に初めて認定され、今も彼の作品は「市松人形界隈の伝説」として重宝されている。
デビュー当初から圧倒的な才能を発揮し、昭和2年にいわゆる「青い目の人形」の答礼として日米親善の人形募集が行われた際には、100体を超す応募作品の中から最優秀作として認められる。
彼の活躍はこれまでおもちゃ同然にも見られていた人形制作を「芸術」の域に押し上げ、市松人形をはじめ人形制作に一大ブームを引き起こした。
生涯を通じて「人形の美」を追求した郷陽の業績は多岐にわたるが例えば、次のようなものがある。
・昭和11年:「帝展(現:日展)の第四科工芸部人形部門に入選
・昭和13年:私塾「童人舎人形塾」を開き、次世代教育に努める
・昭和30年:人形師として史上初めて重要無形文化財(人間国宝)に認定される
※また平田郷陽の門下生たちが結成した昭和31年に結成した「陽門会」とも密な関係を持った
また、郷陽の市松人形や他の作品を観たければ、以下のところがお勧めである。
昭和時代以前
・伊藤久重氏
・内田氏
・永徳斎氏
・永光氏
・樫村瑞観氏
・玉水氏
・勝久氏
・大観氏
・徳山氏
・平田郷陽(二代)氏
平成時代
・味岡映水氏(初代、二代、三代)→「味岡人形 映水工房」
・岩村賢二氏
・村岡茂氏
その他市松人形に関する第一人者
参考文献
マリア書房2012『緑青vol.5 ICHIMATSU市松人形』
マリア書房2003『「骨董」緑青vol19 特集:<生誕100年>人間国宝・平田郷陽─人形の世界』
関連動画
関連項目
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