市町村とは、日本国の基礎的な地方公共団体(自治体)である。東京23区、いわゆる「特別区」もこの一種であり、市町村と合わせて市区町村や区市町村とも呼ばれる。平成28年10月10日における総数は1718(特別区も含めると1741)。
概要
「市」を除く「町」「村」の概念は行政区画として古くから存在しているが、これが議会や役場を備えた「自治体」となったのは明治21(1888)年からのことであり、意外と新しい。
市町村は都道府県と違って廃置分合が激しい。特に明治期の町村制施行に合わせた大合併、戦中に政府主導で行われた強制合併、昭和20〜40年代に起こった全国的な大合併(昭和の大合併)、つい近年総務省の口車に乗せられた結果起こった大合併(平成の大合併)において大規模な吸収合併・新設合併が行われ、数がそのたびに激減している。
市町村を定義する法律は戦前は「市制」と「町村制」だったが、現在は都道府県と同じ「地方自治法」に一本化されている。主な違いは互いの立場関係を戦前は市を町村より上としたのに対し、戦後は人口が違うだけで同格としたこと、首長を戦前は都道府県知事による任命制としていたのに対し、戦後は民選としたことである。
町・村
近代以前は藩庁もしくは町奉行所の直轄地で、城下町や宿場町として商業・交通の中心となっている都市部を「町」、それ以外の集落を「村」と呼び、町では町役人、村では庄屋を筆頭とした地方三役が首長として自治を行っていた。これを形を変えて利用したのが自治体としての町村である。
この時代の町村、特に村は自然発生的に形成された地縁共同体であることがほとんどで、近代以降幾多の変遷を経てもなお地縁共同体の基礎単位として数多くが脈々と受け継がれている。
明治維新ではしばらく手つかずであったが、全国的に統一された近代的な戸籍を編成する必要から明治4(1871)年に戸籍法が施行され、町役人や地方三役を廃止し、「戸長」と呼ばれる首長を置くことになった。しかし実際には元の町役人や地方三役が横滑りすることが多く、ただ首長の名前を変え、上部組織が郡と道府県になっただけで実質江戸時代と変わらない自治形態が継続することとなった。それぞれの町村があまりに小さいため、「連合戸長役場」と呼ばれる複数町村合同の役場を置いたところも多い(少し遅れて施行された学制により全国に小学校が設置されると、おおむねひとつの小学校を運営できる規模が最低ラインの目安となった)。
翌年には、戸籍法による地方行政制度は大区小区制と呼ばれる制度に発展した。戸籍法施行に伴い府県の下にはいくつかの区(後の諸制度の区とは異なり、規模としては郡に近い)が置かれていたがこれを大区とし、各戸長役場の管轄区域をもって小区を設置するものである。大区小区ともに固有の地名ではなく番号で呼ばれ、官選の首長が任命された。これに伴い町村は制度上から一時姿を消す。
しかし、地方の実情を無視したあまりに急進的な制度であったため、この大区小区制は不評であった。地方の実情を鑑みず中央政府の命令を一律に伝達・施行する機関を作ってしまったからである(とはいえ、最大の目的だった戸籍の編成は大きな成果を上げた)。そこで明治11(1878)年には郡区町村編成法を施行し、大都市には区(市の節に詳述)を、それ以外には郡、その下に戸長役場、その下に町村を置いた。
なお、このときから大正15(1926)年までは「郡」も郡役所と郡会をもつれっきとした地方自治体であった。
明治21(1888)年に自治体整備の一環として市町村も本格的に近代化することになり、「町村制」が施行。これによって小さな町村は合併しあって議会・役所を備えた自治体へと脱皮した。ただし山梨県など、これに先立つ段階で戸長役場の管轄を単位に町村を整理したところもある。
戦前の町村制下においては町と村の区別は慣習によるものであったが、戦後の地方自治法では都道府県の条例に明示された人口の基準に従って町と村が分かれるようになった。
なお、戦前の北海道や沖縄、樺太、そして一部の離島では本土とは異なる制度に基づいて町村が設置されており、概して本土の町村よりも自治権が制限されたものであった(たとえば北海道と樺太の町村には一級、二級の区別があり、一級町村では本土並みの自治が行えたのに対し、二級町村では自治が制限された)。
市
「市」は町村と成立事情が異なる。原型となったのは、明治11(1878)年に施行された「郡区町村編制」によって都市部に置かれた「区」という行政区画である。この区は人口の多いところに郡から独立して置かれたものであるが、市とは同一ではなく、後に東京市・京都市・大阪市の区となった区も同格のものとして置かれた(このためこの時期には「東京」「京都」「大阪」という自治体は厳密には存在しなかった)。
これが明治22(1889)年の「市制」により「市」に化けたものが現在の「市」の直接の由来となる(東京・京都・大阪の区はそのまま市の下位自治体となった)。これにより区は議会と役所を備えた「市」へと変化し、さらに区時代の慣習により郡から独立して自治を行うようになった。現在、市制を施行すると郡から抜けるのはその名残である。なお沖縄と北海道は少し遅く区の設置と市への移行が行われた。
戦前の市制下においては地方の中核をなす都市のみが市に移行していたようである(たとえば東京府には渋谷町や巣鴨村など10万人前後の人口を抱える町村がいくつかあった)が、戦後の地方自治法では「5万人以上」という人口規定が出来た。この人口規定は引き下げられたこともあり、昭和20〜40年代や平成に入ってから多くの市が誕生する要因となった。また50万人以上の市は政令で特別な権限を付与され、下に区を持つ「政令指定都市」となることが出来るという規定も誕生している(戦前存在した名古屋などの区は単なる行政区分で戦後追認されたもの)。
また市で特徴的なのは既述の通り、戦前には町村よりも上の地位にあり、郡が自治体であった時代には郡とほぼ同格であったということである。戦後このヒエラルキーは法律上消滅したが、「市が町村より上」という概念は現在でも根強く存在し、市が町村を格下に見るという悪習となっている。
なお、市名は重複が避けられていた。もともとは問題視されておらず、1899年の福島県若松市(現在の会津若松市)の成立後に1914年に福岡県若松市(現在の北九州市若松区)が問題なく成立していたが、1942年の泉大津市から重複を回避するのが慣行となっていた。後に東京都府中市と広島県府中市が1954年に同名で市制施行を申請、なおかつ東京都が4月1日市制施行で申請した後に広島県が3月31日市制施行で申請するという事案が発生。その後同年に埼玉県松山市の市名を不認可とし(東松山市として成立)、1970年に事務次官通知として明確に重複を回避するようにされた。後に平成の大合併の際に既に存在する市が了承すれば重複が認められるようになり、北海道伊達市がすでに存在する状態で2006年に福島県伊達市が成立している。
特別区
都の区のことである。
昭和18(1943)年、東京都成立によって旧東京市の区は東京都の下位自治体とされた。これを4年後の地方自治法施行の際に23区に編成し直し、「特別区」と称したのがそれである。
東京都発足時も都の直轄下に置かれ、地方自治法施行後も都の機関として扱われ、長く区長が都知事任命とされるなど、自治体として市に準ずる=「半人前」扱いであった。最近では市と同格とする法的解釈も生まれているが、その立場についてはたびたび問題となる。
なお、大阪都構想に際して大都市地域特別区設置法に規定が設けられたため、他の道府県も名称を変更せず特別区を設置可能である。
関連項目
親記事
子記事
兄弟記事
- 5
- 0pt