平岡円四郎とは幕末の武士であり、徳川慶喜の股肱の臣の一人である。
概要
文政5年(1822年)旗本・岡本忠次郎の四男として生まれ、天保9年(1838年)同じく旗本である平岡文次郎の養子となる。
幕臣・川路聖謨の紹介で水戸藩士・藤田東湖と面識を得、そのツテで御三卿の一つである一橋家の家臣となる。
将軍継嗣問題で一橋家用人の中根長十郎と共に徳川慶喜擁立に加担したため安政の大獄に連座。安政5年(1858年)小普請[1]入り・差控となり、更に翌安政6年(1859年)には、素行不良の幕臣の左遷先であった甲府勝手小普請に回される。
文久2年(1862年)、徳川慶喜が赦免され将軍後見職に任じられると江戸に戻り、翌文久3年(1863年)には一橋家用人として復帰。同年、慶喜と共に上京し公武合体派として朝廷工作に携わる。
なお京都に向かう前に当時攘夷論者だった渋沢栄一と面会してその人柄と才覚を見出し、後に京都にやって来た渋沢を一橋家家臣として取り立てている。
元治元年(1864年)2月、側用人番頭に、次いで5月には一橋家家老並に就任。6月には近江守の官位を賜る。
慶喜の懐刀として陰の実力者を演じたが、攘夷派から「慶喜に開国論を説く奸臣」と看做され、6月16日に過激派水戸藩士の襲撃を受け暗殺された。享年43歳。慶喜は自分の片腕として活動していた平岡の死を深く嘆いたという。
「私を一橋家に推挙して慶喜公に仕えるようにしてくれた人は平岡円四郎という人であるが、この人は実に一を聞いて十を知り、眼から入って鼻に抜けるぐらいの明察力があった。来客があるとその顔色を見て、何の用向きで来たということを、即座に察知するほどであった。こんな明敏の人は、あまりに先が見えすぎて、とかく他人の先回りをするから、自然他人に嫌われ、ひどい目に遭ったりするものである。平岡が水戸浪士のために暗殺されたのも、明察にすぎて、あまりに先が見えすぎた結果ではなかろうと思う。」
(渋沢栄一『孔子―人間どこまで大きくなれるか』)
脚注
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