平成研究会とは、自由民主党の派閥である。略称は「平成研」。
現在の会長は茂木敏充である。
概要
派閥の呼称は竹下派(竹下登)→小渕派→橋本派→津島派→額賀派→竹下派(竹下亘)→茂木派の順で変遷している。
自由党・吉田茂派を起源に持つ保守本流派閥であり、周山会(佐藤栄作派)と木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む。
思想的な偏りや執着は少なく、現実路線志向である。
かつては党内主流派として党内を金銭面でも人事面でもコントロールし、当時は「経世会支配」と呼ばれていた。
このため派の名称を変えた今でも、旧称の「経世会」の名で呼ばれる事もある。
田中派時代以来の「一致結束・箱弁当」と言われた強力な団結力を誇ったが、小泉純一郎が党総裁選に勝利してからは急速に派閥としての求心力を失いつつある。
「経世」の出典は、中国の古典に登場する言葉「経世済民(世を経(おさ)め、民を済(すく)う)」である。
歴史
竹下派(~1992年)
- 1985年 竹下登・金丸信が中心となって、田中派の内部に勉強会と称して「創政会」を結成。
- 1987年7月 田中派から独立して「経世会」結成。
- 1987~89年 竹下登内閣。(内閣発足に伴い、金丸信が会長に就任)
- 1991年 海部俊樹の後継総裁選に宮澤喜一・渡辺美智雄・三塚博らが出馬。
→竹下派の幹部・小沢一郎が自分の事務所にて、総裁選候補者とそれぞれ面談実施。(小沢面接)
年齢も当選回数も上の候補者を事務所に呼びつけた事は、当時の「経世会」の権勢の象徴的な行動であった。 - 1992年 佐川急便事件発生。会長の金丸信が議員辞職。
→ 竹下登直系グループの推す小渕恵三と小沢一郎グループの推す羽田孜で後継者争いが発生。
小渕派(1992~2000年)
- 1992年 小渕恵三が会長就任。
小渕の会長就任に反発した小沢グループは派閥を脱退して「改革フォーラム21」(羽田派)を結成。
→さらに翌年、羽田派は自民党を離党して「新生党」を結党した。 - 1995年 橋本龍太郎が党総裁選に出馬・勝利。
→就任時に首相にならなかった党総裁としては河野洋平に次いで史上2人目である。 - 1996年 自民党下野の際に呼びかけられた派閥解消運動を受け、「平成研究会」に改称。
- 1996~98年 橋本龍太郎内閣。
- 1997年 新進党を離党した石破茂が自民党に復党し、小渕派に入会。
- 1998~2000年 小渕恵三内閣。(内閣発足に伴い、綿貫民輔が会長就任)
- 2000年5月 小渕が脳梗塞を発症して退陣。
- 2000年6月 小渕恵三死去。
橋本派(2000~05年)
- 2000年 橋本龍太郎が会長就任。
- 2001年 党総裁選で橋本が小泉純一郎に敗北。
→小泉総裁から「抵抗勢力」と呼ばれ、三木政権以来25年ぶりに党執行部ポストなどを派閥から出せなくなる。
以後、橋本派の影響力・求心力の低下が語られるようになる。 - 2004年 日歯連闇献金事件により、橋本が会長辞任。 以後、1年以上会長不在となる。
- 2005年 第44回衆議院選挙(郵政選挙)にて、綿貫民輔・保利耕輔ら郵政法案反対組が非公認とされる。
→選挙後、清和政策研究会(森派)に抜かれて党内第一派閥から転落。
津島派(2005~09年)
- 2005年 津島雄二が会長就任。
- 2007年 第21回参議院選後、参議院でも清和政策研究会(町村派)に抜かれて党内第2位に後退。
- 2009年 第45回衆議院選挙後、宏池会(古賀派)・清和政策研究会(町村派)に次ぐ党内第3位に後退。
額賀派(2009~18年)
竹下派(2018~21年)
茂木派(2021年~)
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