平教盛単語

タイラノノリモリ

平教盛1128~1185)とは、平安時代末期に活躍した武将である。

概要

忠盛と待賢門院女房・藤原の子で忠盛の四男。息子通盛、平教経業盛、忠快、藤原成経室、土御門通親室、平宗盛室、藤原範季室・教子[1]がいる。通称門脇殿

1148年21歳で左近将監に初任、1151年に淡路守になり保元の乱に参戦。1158年に左権頭、大和守になり平治の乱に参戦。その勲功で越中守になる。乱後常陸介に補任されていたが、1161年に滋子が産んだ皇子・仁親王(高倉天皇)の東宮擁立を図った事件に平時忠に連座して諸職をとかれる。
しかし1162年7月には能登守となり、内蔵頭を兼任。1166年10月仁親王(高倉天皇)の東宮、そして1168年2月高倉天皇の即位に際して蔵人頭になった。8月には41歳で参議となり卿に列する。昇進具合は平経盛よりもはやく、『玉葉』には宮中の所持に堅実に対応する姿が描かれる。
118112月に参議14年の労によって権中納言になり、11834月に中納言となった。

武将としての活動も、1179年の延暦寺内の騒動への軍勢派遣を差配したり、1180年の以仁王挙兵の際の園寺攻撃軍の大将軍の一人に連なる、などあちらこちらに見られる。118110月には北陸道への官軍派遣の際、平頼盛平経盛とともに中警護にあたり、11822月には北陸道下向が取りざたされている。

しかし11837月の都落ちに伴い下向し、以後西を流転する一門と行動を共にし、一ノの戦いでは通盛、行盛、通盛の妻・小宰相を失う。そして壇ノで入死し、この際『物語』では平経盛と手を取り組みを背負って身を投げたと記されている。

物語』で息子平教経の活躍が々しいため、やや取って食われている感もあるが、文武において着実に功績をあげ、平清盛をはじめとした一門の支えとなったそんな人物であった。

関連項目

脚注

  1. *順徳天皇の祖

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