- プロ野球選手一覧 > 平田勝男
平田勝男(ひらた かつお、1959年7月31日-)とは、長崎県出身の元プロ野球選手(内野手)である。
概要
阪神タイガース #78 二軍監督 |
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平田勝男 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 長崎県松浦市 |
生年月日 | 1959年7月31日 |
身長 体重 |
177cm 77kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1981年ドラフト2位 |
引退 | 1994年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
海星高等学校に進学。内野のレギュラーとして2年時に夏の甲子園大会に出場しベスト4まで勝ち進む。3年時の春の甲子園大会に出場した際には選手宣誓の大役を務めた。
高校卒業後に明治大学に進学。早くからレギュラーに定着し、在学4年間で4度のリーグ制覇、全日本大学野球選手権3度制覇、明治神宮大会1度制覇と大学野球会を代表する選手として活躍。ベストナインにも4度選出され、日米大学野球のメンバーにも選出。高い守備力と「平田のバントは百発百中」と評される犠打の上手さでプロからも注目を集めた。
1981年、阪神タイガースと横浜大洋ホエールズからドラフト2位で指名を受け、くじ引き抽選の結果、阪神に入団した。
阪神時代
1983年(2年目)に遊撃手の真弓明信が一時離脱する間に代役を務め、チャンスを掴む。その後真弓と入れ替わるように岡田彰布が故障で離脱し、真弓がセカンドに回ったことでそのままショートのレギュラーに定着する。この年100試合に出場した。
1984年には初の規定打席に達し、レギュラーの座を強固のものとした。またこの年、守備面での活躍が評価されダイヤモンドグラブ賞に初選出され、以降1987年まで4年連続で同賞を受賞した。
1985年には主に7番打者として起用され、チーム最多タイの22犠打をマーク、7月には1試合4犠打を記録するなど繋ぎの役割を見事にこなし、チームの日本一に貢献した。
1988年、村山実監督が新たに就任すると、前年に悪くない成績(打率.261)を残していたにも関わらず、和田豊(大野久、中野佐資と合わせて「少年隊」)が抜擢されて出場機会を失う。後半戦に掛布雅之が二軍落ちして以降はサードでの出場機会を得るが、結局この年から年々出場機会を減らしていった。
1990年には打率.347を残して代打の切り札的存在になるなど、控えの野手としてバントや代打、守備固めなど活躍。
引退後
阪神で守備走塁コーチやヘッドコーチ、二軍監督など様々な役職を長らく務めている。
コーチを務めていない時期は主に解説者・評論家として活動していた。
人物・エピソード
長打力に欠けるが、犠打や進塁打など小技を得意としたつなぎ役であり、堅実な守備で守りの面でもチームに大きく貢献した名脇役。
明るく社交的な性格で、常にベンチを盛り上げたムードメーカーでもある。
引退試合には、中村勝広監督から「振ってこい!」とヒッティングの指示が出ていたが、自らの判断で送りバントを決行し成功させ、現役最終打席でもつなぎ役の役割を全うした。この送りバントが同点打に繋がっている。
成績
通算打撃成績
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 979 | 2754 | 2450 | 235 | 633 | 100 | 7 | 23 | 220 | 19 | 138 | 8 | 133 | 25 | 229 | 65 | .258 | .302 |
表彰
関連動画
関連項目
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