平賀源内(1728年-1780年)とは、江戸時代の博物学者 兼 医師 兼 漢学者 兼 蘭学者 兼 殖産事業家 兼 鉱山技師 兼 蘭画師 兼 戯作者 兼 浄瑠璃作者 兼 俳諧師 兼 発明家 兼 建築デザイナー 兼 コピーライター 兼 エンターテイナー 兼 詐欺師 兼 殺人犯である。
概要
高松藩の足軽身分(藩の蔵番)の家に生まれた。幼いころから才能を見込まれ、儒学・医学を学ぶことになった。父の役を継いだ後長崎に留学し当時最新の文化に触れた。
その後家督を妹婿にぶんなげて役職も辞職し、自分は京都・江戸に留学した。そののちは高松藩に再登用されたりもしたが結局浪人となり、上記のとおりさまざまなことをやった末、最終的には浪人のまま獄中死してしまった(詳しい経歴はウィキペディア(外部)を参照してください)。
結局なにした人?
彼ほど名前は知られているのに何をやったのか知られていない人物は珍しい。上記のとおりさまざまなことをやっている人物であるため、個別に見ていこう。
博物学者として
一応源内の本職である。日本では一般に本草学と呼ばれているが、源内の場合は薬のもとになる薬草や鉱物にとどまらず、石綿(アスベスト)の発見や鉱山開発といった鉱業に関するものや貝殻採集・絵具など幅広く、医学を主軸においた植物メインであった本草学から、現代科学へ通じる博物学へとその次元を高めたとも評される。
業績としては江戸において複数回物産会を開き、その展示品から特異なものを選び出しまとめた『物類品隲』といった著作が知られている。また長崎留学で知ったオランダの知識を学問に反映させようとしていた。しかし後述するように蘭学における語学知識の不足といった原因によりオランダ博物学(和蘭本草)の和訳と言った大目標は達成できず、大成はしなかった。また再就職することもかなわず、後半生は貧困にあえぎ荒んだ生活を送ることになった。
医師として
源内の本分は本草・博物学であり、医学についてはそのための付属知識としての側面が強かった。そのためこの方面では特に業績は残していない。おまけに高松藩から2度目の辞職する際に「戸田旭山のもとで医術を学びたいので大阪に行くため辞職する」と辞職理由に使っておきながらその師匠(戸田)のもとにいかずに逃げてトラブルになっている(源内が辞職するためだけのダシに使われた戸田が激怒し、結局源内がワビをいれて終わったらしい)。
漢学者として
儒学や漢文・漢詩の作成は当時の知識人の必須教養であり、本草学の書物も多くは中国から渡ってきた漢文であるため源内もこれを学んでいる。しかし源内からしたらやはりこれも「博物学のためのツール」でしかなく、そこまで熱をいれて学んでいなかったようである。昌平坂学問所にはいったのも、漢学を学ぶためというより彼が目指した「幕府仕官」への布石だったらしい。そのため彼の漢文に対する知識は浅く、同時代の友人からも「学が無い」とこきおろされ、今日残っている漢詩や漢文もかなり拙いものが多い。
業績としては中国の笑話である『笑府』の抄訳本である『刪笑府』の抄訳を行ったとされる(後刷りの本では太田南畝の著作に改編されているが、風来山人名義の本のほうが古い)程度である。訓点をつけカナを振ったものであるが、もともとの本が白話本(口語漢文)であるため源内の生半可な漢文知識では手に負えるところではなく、訓点についてはかなり間違いがある…というかぶっちゃけそのままでは読めない。しかし字面と話の流れで判断したと思われる左カナ(当時は右側に読みカナをつけ、左側に和語で意味やくだけた訳語を付ける)はおおむね正しく、またセンスにあふれている。
蘭学者として
上述したとおりオランダから渡ってきた博物学の本に強く感銘をうけ、なんとかそれを我が物としようとしていた。そのため舶来本を入手したりしていた。特にドドネウスの『Cruydt-Boeck(ドドネウスの『草木譜』)』を国訳して出版しようと試みていた。これはまさにオランダ版『本草綱目』ともいえるものであった。一方このころ、源内の友人である杉田玄白も、オランダの学術書翻訳をしようと計画していた。
はじめ源内や玄白は、大雑把な内容は挿絵でなんとなくわかることから、「長崎でオランダ商人の通訳を担当しているオランダ通詞に読ませればOK」と思っていたらしい。しかし通詞はあくまで会話を訳してそのニュアンスを通すだけのため文語の知識はいまいちない。ましてや医学や博物学の固有単語となればお手上げである。そのためこの方法はうまくいかなかった。
そのため玄白は「やはり翻訳にはオランダ語は必須」と考え、仲間たちと半ば暗号解読のように手探りで単語の意味・文意を考察し、翻訳を進めた。そして完成したのが『解体新書』である。この『解体新書』は誤訳も多く(そのことは玄白も分かっていたらしい)完璧なものではなかったものの、この作業を通じて我が国のオランダ語への理解は大きく進み、また体系だった文法・語法理解も出来上がっていき、大槻玄沢など一流の蘭学者を生み出していくことになる。
一方源内はどうだったかというと…オランダ通詞に読ませる方法があまりうまくいかなかったため、そのまま投げてしまった。結局彼が計画した和蘭本草の国訳は成されずじまいとなった。漢文でもそうだったのだが、彼はどうやら語学センス(というか語学習得に必要なコツコツ努力をする才能)が決定的に不足していたらしい。蘭学についても彼からすれば結局は博物学のためのツールでしかなく、急がば回れということができなかった。
結局彼はこの分野でも彼は大成しなかった。友人であり『解体新書』を作り上げた杉田玄白とは対照的である。なお、その後『Cruydt-Boeck』は幕府の命で翻訳がされるが、それを行った石井当光は玄白の弟子である大槻玄沢の友人である。…
殖産事業家として
江戸時代と言えば鎖国である。しかし実際には上述したオランダはもちろん、清国や朝鮮・琉球経由で日本は様々なものを輸入していた。その品目と言えば、高麗ニンジンのような薬品、木綿や絹と言った繊維製品や焼き物といった日用品、そして大量の砂糖などである。
そして支払いは何で行っていたかといえば、主に金銀銅(特に銅)である。日本は当時東アジア有数の資源大国であった。しかしいくら豊富にあるとはいえ鉱物資源が無尽蔵にあるわけでもなく、金銀銅の流出は江戸時代通じて多くの学者・政治家を悩ませることになる。そこで彼らは考えた。輸入せずに自分たちで作ればいいと。
源内もそのような学者のひとりであった。そのため各地を巡っては輸入品の代替となる物品を発掘しているほか、長崎で得た知識で殖産興業を図っている。たとえば中国から輸入される陶器の代替を目指したり(源内焼)、羊を手に入れて飼育して羅紗(ラシャ)の国産化を目指した(国倫織)。しかしどちらも資金のめどがつかずとん挫している。当てにしていた故郷の人はあまり金をだしてくれなかったし、期待していた幕府からの補助も得られなかったらしい。このほか彼は鉱山開発に特に力を注いでいた(後述)。
源内のまいた種はあまり芽が出たとは言えなかったものの、1800年には幕府が自ら製絨所の設営を考えており、先見の明があったとは評価できる。また彼は長崎で甘藷栽培と製糖技術についても学んだというが、彼の故郷である讃岐国は江戸後期にサトウキビ栽培を成功させ和三盆糖を生み出し、国産製糖のさきがけとなった。
鉱山技師として
殖産興業の中で源内が特に力を入れたのが鉱山開発である。各地の鉱山をめぐっては作業の手伝いをしたり、鉱脈を発掘したりしている。特に佐竹藩に請われて秋田へ赴き鉱山開発をしており、その際に後述する蘭画技術も伝わっている。彼はオランダの知識を仕入れたり西日本各地の鉱山を見物したりして知識を蓄えたこともあり「大山師」を自称するほどであった。
しかし、秋田で開発したトタン山(亜鉛鉱)が実はマンガン鉱山で精製に失敗したり、同じく秋田で彼が教えた「山下流の銀絞り法」(銅から銀を取り出す技術)は、あまり質が良くなく役に立たなかったり(後に別の技術者を招へいして成功)、その知識は若干アヤシイところがある。
もうひとつ大きな業績としては秩父の鉱山開発があり、ここで見つけた石綿(アスベスト)や各種金属の鉱山はその後ニッチツ秩父鉱山となり、現在も操業中である(現在は石灰を掘っている)。しかし彼がこの秩父で行った鉄山開発は大失敗し、その後始末は彼を経済破綻に追い込むことになった。
蘭画師として
彼は長崎留学中に西洋画の技術もかじっている。先述したように彼が秋田にもたらした技法は、その直接の教えを受けた小野田直武を筆頭とする「秋田蘭画」へ発展した。もう一人重要な弟子としては司馬江漢がおり、両名は日本の西洋画開拓に重要な役割を担った人物である。
なお、源内本人も絵は残しているものの、舶来した西洋絵の模写であることを抜きにしても出来栄えはビミョーである。ぶっちゃけあまりうまくない。なにより近代西洋画の基本である遠近法や陰影法がまともに出来ておらず、「素人のなんちゃって西洋画」にとどまっている。
以上が源内の「本職」としての業績であり、以下は糊口をしのぐため、また本業がうまくいかないことから手を出した余技である。
戯作者として
源内は戯作者として風来山人などのペンネームを使って執筆している。それまでのこの手のものは「談義僧の話している内容をまねたもの」ということから談義本と呼ばれ教訓めいた話が中心であったが、源内の時代にはその教訓に至るまでの過程が重視されるようになり、風刺も強くなってきていた。
源内はそこをさらに進め、「読み物としての面白さ」という新たなジャンルを開いた。そのため「最初の戯作者」とも評されている。この流れはその後「日本初の職業作家」曲亭馬琴へとつながり、そして近代の「小説」になった。
源内も多数の戯作を残している。その文体は「平賀ぶり」として好評を博し、特に『風流志道軒伝』はその「羽根扇で飛んで世界中をまわる」という構図から和製『ガリバー旅行記』と評されている。このページでいままで挙げた業績は、大成しなかったり、いまいち微妙だったりしているが、戯作者としての評価は間違いなく一級品である。しかし彼本人はあくまで博物学者としての立身を夢見ており、戯作はあくまで「余技」「小遣い稼ぎ」であった。その余技がもっとも評価されうる業績であるのはなんとも皮肉である。
しかし同時代、そして後世からも評価された文才も晩年の困窮に押しつぶされ、晩年の作品はもはや風刺というよりは、自分を取り立ててくれない現実世界への鬱憤晴らしと化している。
浄瑠璃作者として
源内は浄瑠璃の脚本も執筆している。ペンネームは福内鬼外…節分のアレである。
近松門左衛門などの先達の構成をおおむね踏襲しているが、浄瑠璃という関西の文芸を江戸の風俗に落とし込み、江戸浄瑠璃と呼ばれるジャンルを開いたと評される。三味線に乗せて動かすという制約からどうしても型にはまった構成になってはいるものの、彼の文才や本草学の知識からくる独特の言葉づかいは随所にうかがえる。
俳諧師として
俳諧は当時必須教養として普及しており、源内もやはり多くの狂歌や俳諧を作っている。出来としては漢詩よりはだいぶましだが、傑出したものではないといったところ。同時代の友人であった太田南畝は「源内の狂歌・俳諧は一つも良いものが無い」などとこきおろしている。さすがにこれはあんまりな評価ではあるが、戯作・浄瑠璃ほどには素晴らしいものを残していないのは事実である。
発明家として
おそらく今日の源内で一番有名なのはコレであろう。源内と言えばエレキテル、エレキテルと言えば源内である。
幼少のころから才能を発揮した源内がその才覚を周囲に認められたのは、「お神酒天神」というからくり(というよりは工作)を作ったのが始まりであるという。また彼は磁針器(方位磁石)の模造や量程器(万歩計のようなもの)の製作もこなしている。ほかオランダから輸入された壊れた温度計を修理したり、やはり壊れたエレキテルを修理したりしている。また秩父で発見した石綿からは「火浣布」という今日の石綿布のようなものを製作している(この実物は京都大学に現在も所蔵されている)。このように様々なものを作ったことから、「東洋のダヴィンチ」などと評されることもある。
一方で、これらの修復や製作は、体系だった科学知識に基づくものではなく、あくまで「やってみたらできた」「いろいろやっているうちに直った」「よくわからないけどとりあえず動く」「作ったはいいが役に立たない」というものだったらしい。
温度計はたしかに中の水が上下するがしっかりした調整はされておらず「はかり」としては役に立たなかったと考えられている。また火浣布は今日の石綿布と違って柔軟性が全くなく使い物にならない代物であった。
エレキテルについていえば修復にこそ成功したもののその原理はイマイチ理解しておらず、なぜ「火花が散り」「ピリっとくる」のかは説明できなかった。戯作『放屁論後編』の中で「西洋人は電の理(電気)を以てこれをつくった」とは言っているものの、「人の体は陰陽の2つでできているが結局はその陰陽も火でできている。だから火が出るのだ」などというヘラクレイトスじゃあるまいし…というようなよくわからない説明をしている。
いくら自分で「日本開闢以来創て出来る事」(『放屁論後編』)などと自画自賛してもこの説明では納得させるのは難しく、またエレキテルをパクったと源内が訴えた人物が獄中死したりなどもあり、後述の詐欺師との評判がたつに至った。
建築デザイナーとして
源内は建築のデザイナーまがいのことも手掛けていた。先述したとおり源内は秩父で鉱山開発をしており、その際の住居については自分でデザインしたという(秩父中津川に現存)。また晩年にはとある大名が別荘を建てようとしていたが、莫大な費用がかかるというので源内にも見積もりを出させたという。そこで源内は「自分ならこの額の2.3割でできる」などと言うのだが…(後述)
コピーライターとして
「土曜の丑にウナギ」である。おそらくエレキテルに次いで源内と言えばこれであろう。鉄山開拓に失敗した後半生、源内は経済的に困窮し続けており、この手のキャッチコピーを書いては小銭を稼いでいたという。ただしこのウナギ、源内の作ではなく太田南畝のものともいわれていたりする。
真偽は不明であるものの、上述した『刪笑府』のように源内の名前が削られ南畝の作ということに変えられているケースがある。これも同様に源内死後に南畝の功績にされた可能性は十二分にある(後述するように獄死しており、犯罪者の名前を使うのはマズイと考えられたと推察される)。
エンターテイナーとして
エレキテルを復元した源内であるが、そのエレキテルを何に使ったかと言えば主に金もうけであった。もちろん電気治療的なことも行ってはいたものの、「ピリッとして火花がちる」摩訶不思議な見世物としてフル活用した。結果一時的ではあるが金銭的に大儲けし、「家を新築する」などとも話していたようだ。
しかし所詮は一発芸、人気は長続きせず、ほかに饗宴を組み合わせたりしてなんとか客寄せをしたものの徐々に客足は遠のき、さらには上述したトラブルもあって山師(詐欺師)呼ばわりされるようになってしまう。
詐欺師として
源内の最晩年はまさに貧困との闘いであったが、その中でやったアヤシイキャッチコピーや見世物は、徐々に彼の評価を「山師(詐欺師)」というものに貶めていった。この評判に対して源内本人は「オレよりまともそうな顔つきのやつほど、かえって詐欺師が混ざってる」(『放屁論後編』)などと逆ギレしている。
もちろん彼自身が今日のような詐欺を働いたわけではないが、晩年の源内は「インチキ野郎」というような評判が立っており、彼はその評判にいちいち神経をとがらせていたらしい。そのように擦り減ったこともあって晩年の源内は精神的におかしくなっていたという。
殺人犯として
先述した大名の別荘普請、横やりをいれられた大工や町人はたまったものではない。そのため彼らともめた末、3者共同でこの仕事をやることになった。そののち源内と町人は源内宅で酒をのんでそのまま寝た。翌朝起きたら普請の計画書がない。さては町人が盗んだかと思った源内、町人に詰め寄るが町人は知らぬと言い張る。カッっとなった源内はその町人を切りつけてしまう。切りつけられた町人は逃げ出したものの深手を負って死んでしまった。
さすがに源内もマズイと気付き、そして人を殺したら死罪な当時、獄につながれるよりは自害して果てようとして家を整理していたら箱から普請の図面が出てきた…という具合で現代の目でみても情状酌量の余地がない。
もう一説としては門人2人とトラブルになって一人の親指をはね、もう一人の頭に一太刀浴びせて、頭に被刃したほうが死んでしまったともいう。いずれにしても発作的に刃傷に及んでしまったらしい。
結局源内は殺人犯としてお縄になり、その一か月後に獄死してしまった。「田沼意次にかくまわれて余生を過ごした」とかいう話もあるが、同時代の友人や門人の多くが「人殺して捕まって死んだ」と書いているのでやはり死んだものと思われる。
長々と書かれてるけど読む気しねーよ。結局何やったの?
実際研究者でも「源内ってなにした人」って聞かれると困るんですよ。本業では全然大したことやってないし、かといって戯作は副業だし。
オマケ:奉公構食らったって本当?
源内といえば高松藩2度目の辞職の際に「奉公構」(ほかの藩への就職禁止)を食らったという話があり、通説となっている。しかしほんとうに食らったのかは研究者(ゲンナイスト)のなかでも意見が分かれている。
構を受けたとする説は戦前からたびたび指摘され、今日でも城福勇氏らが指摘しており今日では通説となっている。一方構を受けていないと主張する研究者としては芳賀徹氏らがいる。
奉公構食らった説
- 辞職の許可状に「ただし他への仕官の儀は御構あそばされ候」との一文がある(決定的証拠とされる)。
- 結局その後源内はあちこちでいろいろな仕事をし、その才を評価されるが結局仕官できなかった(状況証拠)。
- 奉公構のことは源内はだれにも言っておらず、また誰にも知られていないが、それは彼が見栄っ張りで徹底的に隠したからである。
といったことが挙げられている。
奉公構食らってない説
- 一般に伝わる許可状の一文は、実は「不」の字が脱落しており、「お構いなされず候(=ほかへ仕官してもイイヨ)」の誤伝である(『増訂高松藩記』による)。
- 江戸時代初期ならばいざ知らず源内の時代には奉公構は制度として形骸化していた。というか奉公構の話自体江戸初期に集中している。新井白石が源内の100年近く前に食らって以降ほとんど例が無い。
- 源内は奉公構を食らった(とされる)後も「仕官の勧めは来るが小大名には興味が無い」などと頻繁に書いており、実際勧誘も断っていたらしい。しかしそれは奉公構を隠すにはあまりにも不自然である。
- 実際仕官の勧誘が来たり、そのことを手紙で伝えたりしているにもかかわらず、高松藩の人間や源内の親族はもちろん、源内と親しくしていた友人に至っても誰も奉公構のことに言及していない(奉公構は他家に通告しなければ意味が無いが、幕府を含め日本のどの藩にも通告があったという証拠が無い)。
- 奉公構は家格が上なら割と無視できる(塙直之のようなケース)。高松藩は松平家の親藩大名であるが、源内の本命は幕府であり、もし幕府が本気で源内を登用しようとしたならば奉公構を握りつぶすことは十分可能である。
といったことが挙げられている。
現代の創作の中の平賀源内
江戸時代の発明家として有名なため、彼の名前を持ったキャラクターなどが作られることがある。また、江戸時代を舞台にした作品では彼本人が登場する事もある。
- 平賀源内・解国新書
- 石ノ森章太郎による漫画。平賀源内の手記が見つかったという設定で田沼時代を描いている。
- 翔んでる!平賀源内
- 1989年に放送された平賀源内を主人公とした時代劇。もしくはそれにちなんだゲーム『ファイナルファンタジーⅥ』の裏ワザ。該当記事参照。
- キカイダー01
- 1973年放送の特撮『キカイダー01』では悪の組織「シャドウ」がタイムスリップして江戸時代に行き、平賀源内を誘拐して組織のために発明を作らせようとする。
- 銀魂
- 漫画『銀魂』では平賀源内をモチーフにしたと思われる平賀源外という発明家が登場する。
- 戦国コレクション
- 戦国武将を女体化させたキャラクターが登場するゲームだが、江戸時代の発明家である平賀源内も登場する。
- ライブ・ア・ライブ 幕末編
- ゲーム『ライブ・ア・ライブ』では全身をからくり仕掛けに改造した発明家カラクリ源内が登場する。使用する技には「エレキテル放電」など平賀源内をイメージしたと思われるものもある。
- ロマンシング サ・ガ2
- ゲーム『ロマンシング サ・ガ2』には平賀源内をモチーフにしたと思われるヒラガ一族という発明家一族が登場する。
関連項目
- 鰻
- エレキテル
- 土用の丑の日
- 蘭学 / 蘭学者
- ハイパーメディアクリエイター
- 翔んでる!平賀源内
- 日本史
- 日本史の人物一覧
- 小説家の一覧
- 衆道 - 陰間茶屋の案内本や、男色ものの戯作などを著している。
- 4
- 0pt