平重盛(1138~1179)とは、平安時代末期に活躍した武将である。
概要
平清盛と高階基章の娘との間に生まれた嫡男。通称小松殿。そのため彼の一門は小松家と称される。
高階基章の官位の低さから、基章の妻が関白太政大臣藤原忠実と密通して生まれた子が清盛の妻となる娘、という説もある。しかし、中関白家とともに没落した高階成忠流ではなく、その弟の高階敏忠流は受領層として地盤を固め、院近臣として活躍した一門であり、高階基章はこのような眷属の一員だった[1]。つまり、官位とは無関係に、有力な一門だったのだ。
重盛の妻は四人確認でき、平維盛を生んだ「官女」、平資盛をんだ藤原親盛の娘、藤原家成の娘で藤原成親の妹・藤原経子、平時信の娘、つまり平時子、平時忠、平滋子の妹である。
彼が生まれたときは清盛が従四位下・左兵衛佐中務大輔・肥後守にある、21歳の時の子であった。当時は京洛の焼亡や強訴が相次ぐ世相であった。1150年には13歳で六位蔵人になり、1151年に従五位下、1155年に中務少輔となった。そして1156年19歳の時保元の乱が勃発して、この軍功で1157年に従五位上、同年中務権大輔、正五位下・左衛門佐、1158年には遠江守になる。
さらに翌年1159年の平治の乱では平頼盛とともに活躍し、一門で初めて伊予守になった。1160年には従四位下左馬頭となり、同年には従四位上に昇り、さらに内蔵頭となる。こうした官職の上昇には後白河院の院司の功績によるもので、このことが父・平清盛と立場や意識を隔てていく。
1162年になると正四位下となるが、3月になると正月内蔵頭になった同母弟平基盛が病死してしまったことが、平時子の子である平宗盛らの地位を向上させ、重盛にさらに影を落とすこととなる。一方で同年には右兵衛督になり1163年には従三位・非参議になり26歳で公卿に座すのである。これはこの4年前にようやく公卿になった平清盛よりも17歳も若いものであった。そして1164年に正三位、1165年に参議となり議政官の仲間入りをする。1166年には近江権守、転左兵衛督、権中納言・転右兵衛督、次第司御前長官、東宮大夫と官職を転じていき、特に東宮大夫に権中納言でなるのは藤原教通以来という例外中の例外であった。
1167年には従二位に昇り、清盛が従一位太政大臣につくと同時に権大納言になるが、1168年に脚気を患い官を辞す。ただこの間海賊追討使に任じられており、後白河院からは明確に清盛の後継者としてみなされていた。そして1169年正二位となったのである。そして1170年に権大納言に復帰する。
しかし、1170年7月、息子の平資盛に摂政藤原基房(松殿基房)の家人が恥辱を与え、重盛が報復を行う殿下乗合事件が起こる。『平家物語』や『愚管抄』ではこの事件を清盛が主導したとするが、清盛は福原にいた可能性が高く、実際には『玉葉』の重盛主犯が正しいとされている。このことによって重盛の信望は少なからず失墜した。さらに同年平維盛の右少将就任のため権大納言を辞したが、平徳子を高倉天皇に入内させるために彼女を養子とし、権大納言を続けていった。
そして1172年に春日神人が重盛の家人に殺害される事件が起こる。しかしそんなことは構いもせず1174年には右大将に任じられ、『玉葉』で九条兼実が「将軍は顕要なり。古来その人を撰びて補し来たるところなり。今重盛卿、当時に於いて尤もその任と謂うべし。ああ悲しいかな悲しいかな」と皮肉を漏らしている。しかし内大臣をめぐる争いは藤原頼長の息子・藤原師長に負け、重盛は大納言となった。
1177年には重盛は左大将となり、異母弟の平宗盛が右大将となった。そして藤原師長が太政大臣になったため40歳の重盛がようやく内大臣となった。大臣の座を父子で継承したのはこれまで摂関流、村上源氏、閑院流のみであり、平家がついにその権勢を高めるだけ高めたのである。こうして以降小松大臣、小松内府などと呼ばれていく。
しかし同年院近臣西光の息子であり藤原成親の義弟・藤原師高の配流をめぐる強訴があり、重盛の軍勢が代理で立ちはだかった。その際神輿に矢を射かけたのは重盛の郎従であった。そして延暦寺への攻撃を後白河院は着々と進めるのだが、突如として鹿ケ谷事件が明らかになる。重盛は義兄である藤原成親の助命を約したが、彼は備前で餓死させられたのである。このほかにも多くの院近臣が処罰され、重盛は左大将を辞した。次第に平清盛と平時子の息子たちが脅威となりつつある中、後白河院の院近臣に接近することで独自の道を行こうとした重盛、および小松家に暗雲が立ち始めたのである。
事件後後白河院にまで罪科を押し上げようとする平清盛をはじめとした他の平家一門を制止した平重盛であったが、平徳子の懐妊で内大臣を辞すことも許されず、安徳天皇の誕生の直後から突然病状が進行し、1179年に亡くなったのであった。
この重盛の死によって小松家の立場は明らかに悪くなり、治承・寿永の乱で平貞能や伊藤忠清といった重代の家人たちと協力して源氏討伐に奮起することで失点を減らそうとするも、失敗。都落ちの際には平頼盛の池家と同様離脱しようとするもこれまた失敗し、平維盛や平清経の自害につながっていく。しかしあくまでも小松家は平家の嫡流とみなされ、『平家物語』の中でも同情的に扱われていくのである。
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関連項目
脚注
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