平重衡(1157~1185)とは、平安時代末期に活躍した武将である。
概要
平清盛と平時子の間に生まれた子で清盛の五男。通称本三位中将。文武両道な風流人であるが、とあるうっかりミスでひどく恨まれる役割を演じることとなる。
1162年に従五位下に叙爵して以来、尾張守、左馬頭、を経て、平徳子の中宮亮、その子・言仁(安徳天皇)の東宮亮になるなど徳子母子に近侍した。その後中将、蔵人頭を経て1181年には正三位となり公卿に列す。
『建礼門院右京大夫集』には女房たちとの交流など平家公達としての姿が描かれるが、『玉葉』、『吉記』など当時の貴族の日記には、1180年5月の以仁王追討の大将軍としての活躍や1181年3月の墨俣川の戦いでの大勝利など、武勇優れた人物であることもうかがい知れる。しかし『平家物語』ではそんな彼の姿は描かれず、彼に与えられた役割は仏敵であった。
それは1180年12月、南都攻撃の大将軍となった際、思わぬ不慮で南都を焼亡させてしまったことに起因する。さらにこの伏線として、史実上は1180年12月で大将もはっきりしないが、『平家物語』ではそれに先立つ5月には園城寺も炎上させており、虚実混ざり合った仏敵としての姿が平重衡には与えられたのである。
そして1184年2月、一ノ谷の戦いで平重衡は乳母子に裏切られ、捕虜となって都に引き戻される。
史実では三種の神器返還の交渉役を申し出て失敗する一方、『平家物語』では北の方・藤原輔子、千手の前の他、様々な女性との交流と別れを物語として挿入されて悲壮感が強調され、仏敵としての彼は法然への懺悔と受戒によって救済に向かう。そしてついに運命を甘受し南都に引き渡され、十念を唱えつつ木津で斬首されたのであった。
彼の首はその後北の方・藤原輔子のもとに戻されて胴とともに火葬され、骨は高野に送られ法界寺の近くに墓が設けられたとされる。
関連項目
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