概要
賤ヶ岳七本槍の中で一人だけ出世できなかったことで、逆に有名な人。このため、逆に創作物に出てくる頻度が多い。
『寛永諸家系図伝』によると、北条氏の子孫・横井氏の出身であるらしい。この横井宗長の姉の夫・平野葉忠が尾張国津島の平野村に住んだから、平野氏と名乗った(ほぼ無関係者では…)。『寛政重修諸家譜』によると、その孫の平野万久が織田信長に没落させられ、加賀を経由し北条氏康に仕えてまだ津島に戻ってきたということなのだが、史実かは不明。
その息子・平野長治が豊臣秀吉に仕え、その三男が平野長泰ということらしい。
また『武家事紀』によると、この平野長泰は清原氏の出身らしいが、詳細は不明。
この平野長泰は賤ヶ岳の戦いで一番槍を遂げ、福島正則以外の全員が3000石を与えられた。こうしたことから、賤ヶ岳七本槍と評される。のだが、大名にもならず、加須屋武則や片桐且元と違い代官として何かした形跡もなく、文禄4年(1595年)に唐突に賤ヶ岳の戦いの功績と称して、5000石に加増された。これは加須屋武則と片桐且元と同様ほぼ豊臣秀次死後の混乱を鎮めるためとされるが、彼ら二人と違って大名にすらなれなかったのである。
以後、関ヶ原の戦いで徳川家康につき、息子の徳川秀忠の家臣となった。なお、『武家事紀』によると、日根野兄弟とともに石田三成に従わず、怒った石田三成に攻められかけ、三成が大事の前の小事と諸将に説得されて取り止めになったとのことだが、史実かは不明。
大坂の陣では福島正則、黒田長政、加藤嘉明らと同様江戸城守備を任され、豊臣秀頼の死にかかわることはなかった。なお、『武家事紀』によると、豊臣家存続のために尽力し、大坂城入城すら企てたためにこのような任務につかされたとのことだが、史実かは不明。
以後も徳川秀忠に仕え、徳川家光の代まで命を保った。なお『葉隠』によると自分を取り立てようとした細川忠興の庭で放尿をして断ったそうな。
子孫も加増されることもなく、交代寄合の身分にあったが、明治維新で大名となり、男爵の華族になったのであった。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 69 | 戦闘 | 73 | 智謀 | 18 | 政治 | 32 | 野望 | 40 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 146(A) | 智才 | 96(C) | 政才 | 54(C) | 魅力 | 59 | 野望 | 140 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 61 | 智謀 | 44 | 政治 | 35 | 野望 | 43 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 55 | 知略 | 37 | 政治 | 28 | 教養 | 28 | ||||||||
革新 | 統率 | 54 | 武勇 | 71 | 知略 | 42 | 政治 | 32 | ||||||||
天道 | 統率 | 54 | 武勇 | 71 | 知略 | 42 | 政治 | 32 | ||||||||
創造 | 統率 | 52 | 武勇 | 67 | 知略 | 47 | 政治 | 40 | ||||||||
大志 | 統率 | 51 | 武勇 | 66 | 知略 | 49 | 内政 | 41 | 外政 | 41 |
関連項目
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