広岡子之次郎とは幕末の水戸藩士。桜田門外の変に関与した桜田十八士の一人。
概要
天保11年(1840年)、水戸藩士・林吉次郎の次男として生まれる。諱は正則。
嘉永3年(1850年)、広岡政介の養子となる。北辰一刀流を学び、藤田小四郎らと共に原市之進に師事した。
金子孫二郎や高橋多一郎の井伊直弼暗殺計画に参画。気性が激しく、年齢の若さもあって生きて帰れない挙に打って出る事を思い留まるよう周囲に説得されたが「年齢は問題ではない」と言って切腹しかけたため参加を認められた。
安政7年(1860年)3月3日の襲撃に加わり、重傷を負いながら姫路藩上屋敷前まで逃げたが、力尽きて自刃。享年20。自刃を目撃した姫路藩士から「潔き死にぶり」と讃えられた。
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