弁証法単語

ベンショウホウ
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弁証法とは哲学的思考法の一つ。

古代ギリシャの「ディアレクティケー(対話)」がであり、原義は「一方的に決めつけないで、2人で対話して色々な側面から柔軟に対応する」という意味。弁証法を用いた古代ギリシャ哲学者では「万物は流転する」と述べたヘラクレイトスや、問答法のソクラテスが有名。

18世紀にドイツ観念論者カントが弁証法を学問的に取り上げ、ヘーゲルがそれを批判的に継承して観念弁証法を完成させた。その後マルクスがヘーゲル哲学を「逆立ち」させて、精でなく物質に基礎を置いた物弁証法と呼ばれる体系を作る。

一般に弁証法といえばヘーゲルマルクスのものをすが、弁証法の射程はこの二人にとどまらず多義的である。キュルケゴールサルトル、アドルノなど有名哲学者も弁証法を論じており、近代西洋思想と弁証法は切っても切れない縁にあるといえよう。

弁証法の最も基礎的な考えは「対立、矛盾する二つのものAとBが両者を保存しつつ、より高次のCになる」というものだが、あくまで基礎は基礎。このだけをもって弁証法と言ってしまうのはかなり理があることに気をつけよう。

正反合(トリアーデ)の弁証法、いわゆるヘーゲルの弁証法

これは「二つの矛盾するものが、対立を経て、新たな一つのものになる」という思考法である。一般的に「ヘーゲルの弁証法」や「トリアーデの弁証法」と呼ばれ、おそらく一番有名な弁証法の公式である。

この弁証法はある一つの命題(テーゼ、正命題)が、それと矛盾する命題アンチテーゼ、反命題)と出会った場合、両者はアウフヘーベン止揚揚棄)して統合した新しい命題ジンテーゼ、合命題)になるという思考をたどる。

命題とは「正しいか正しくないかはっきりしている文章」のこと。テーゼとは「残酷な天使のテーゼ」のテーゼである。アンチテーゼまでは聞いたことがあるだろう。アウフヘーベンとは「捨てて持ち上げる、高める」という意味。

テーゼとアンチテーゼはどちらか一方が正しいという訳ではなく対等なものである。テーゼはアンチテーゼに否定され、アンチテーゼはテーゼによって否定の否定がなされる。アンチテーゼはテーゼを全に否定しないし、テーゼはアンチテーゼ全に否定しない。両者はそれぞれを保存しつつ統合して(相互媒介)、より昇された命題を生み出すのである。

図にするとこんな感じ。

     テーゼ⇄アンチテーゼ   

ジンテーゼ

まずテーゼとアンチテーゼがお互いを否定しあう。そうするとアウフヘーベンが起きて二つが合体ジンテーゼの出来上がり。そしてジンテーゼは再び新しいテーゼとなり新しいアンチテーゼに否定し合う。「正→反→合→正→反→・・・」これを繰り返すことによって真理に近づいていく。

分かりやすい例

A太郎飯何にする? おれはカツが食べたい」←テーゼ
B助「そうだなぁ・・・カレーが食べたいぞ」←アンチテーゼ
A太郎「そっか、じゃあカツカレーを食べにいこうぜ」←ジンテーゼ

最初のテーゼがアンチテーゼに否定されつつ保存され、両者が統合された最終結果がでている。このような両者を折衷して思考を発展させる弁証法は議論の場やビジネス日常人間関係でも応用されている。

正反合の弁証法についての誤解

「ヘーゲルの弁証法」というと上のものが広く人口に膾している。だが、実を言うとヘーゲルは著作においてこのような説明は一切おこなっていない

もちろん弁証法そのものはヘーゲル哲学の最重要概念である。要著作の『大論理学』ではと有による弁証法があり、『精神現象学』にはガイスト(精)が弁証法的に発展し絶対知に至る路があり、『歴史哲学講義』でも歴史の弁証法的発展が解説されている。若いフランクフルト時代の著作『』や『キリスト教の精』には生と死と再生が統一、分離、再構築と三段階の弁証法的発展がある。

しかし、ヘーゲル哲学で弁証法が用いられていることと、ヘーゲル哲学が正反合の弁証法を確立させたことは全く別問題である。通常、正反合の弁証法はヘーゲル哲学を定式化したものと言われるが、ヘーゲルの観念論的議論を一切取っ払って、道徳の授業にでも出てきそうな分かりやすい訓を「ヘーゲルの弁証法」と呼ぶのはかなり問題がある。仰々しく哲学衣装っているが、正反合の弁証法とは「対立してるものがあったら折衷案でいきましょう」「両方のいいとこ取りをしましょう」と言ってるだけの話なのだから。

バーレー大学教授Schnitkerは「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼのモデルは普通ヘーゲルの弁証法として言及されるが、実際にはヘーゲルはこの専門用語をイマヌエル・カントに帰していた。また多くの学者は弁証法はフィヒテ[この人もドイツ観念論者]に代表されると主張しているexit」と述べている。またヘーゲル研究者のMuellerは「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの三段階の弁証法をヘーゲルのものとするのは間違っており、この三段階の弁証法がヘーゲルの理論と信じられるようになったのは、難解すぎる彼の著作の拙い読み方と翻訳が原因であるexit」と言っている。

カール・マルクスは『哲学貧困』の中でヘーゲル弁証法としてこのテーゼ、アンチテーゼジンテーゼをとりあげている。そのためマルクスの知名度が広まるにつれてこの本は「ヘーゲル弁証法=正反合の弁証法」という常識を作る一因になった。しかし『哲学貧困』の該当箇所は、フランス哲学プルードンのヘーゲルへの理解の至らなさを揶揄するレトリックであり、マルクスはテーゼ、アンチテーゼジンテーゼ々をヘーゲル弁証法を戯画化する的で用いていたのだ。にも関わらず、正反合がマルクスの方法論の精髄とみなされるようになったのは、歴史の奇妙の一つである。

誤解のないように言っておきたいが、カントとフィヒテの用いた観念弁証法を完成させたのはヘーゲルであり、また彼の弁証法の中に正反合の弁証法を当てはめるということは可である。上で否定されているのはあくまで「ヘーゲル弁証法=正反合の弁証法」という等式だけである。ただし重要なのは、ヘーゲルが弁証法を彼の研究であった精の発展に方程式のように当てはめたのではなく、精の発展を内容に即して考えた時に自ずから弁証法的プロセスを取らなければならなかったことである。恣意的に弁証法の方程式をなんでもかんでも押し付ける行為はヘーゲルの思想とは逆の行為といえよう。またヘーゲルの弁証法における対立、矛盾は自己の中で生まれるものであり、勝手に外から対立するものをもってくることも本義とずれる。

もとより弁証法の本来は、会話の中で妥協点を見つける手法であり、正反合の弁証法のように物事を折衷的に考える方式を日常生活仕事で役立たせるということも為ではないかもしれない。しかしヘーゲル研究者の高山岩男は「弁証法というものは本来哲学的なものであったが、今日では常識化し造作に用いられるようになった。しかしこのような弁証法は浅い理解と誤解を伴っており、弁証法と言葉で言っていても内容がまるで弁証法的ではないということが多くある。弁証法を数学公式のように何にでも応用のできる定式のごとく考えるに至っては、もはや弁証法というものではない」とし、日常での雑な弁証法の利用を批判している。

実際のところ「ビジネスに使える哲学」などの専門以外が使う「ヘーゲルの弁証法」という慣用句は、大哲学者ヘーゲルの名を援用した、ファッションや権威づけという場合がほとんどなのだ。

ヘーゲルの弁証法、観念弁証法

それでは実際のヘーゲルの弁証法とはどういうものかというと、皆さんの想像通りに難解の極みである。弁証法はヘーゲル哲学の基礎なので要著作の『精神現象学』『大論理学』『法の哲学』『エンチクロペディ』はじめ、ヘーゲルのどの著作も弁証法的に書かれている。ここではその中の『精神現象学』を取り上げてみる。

弁証法論理学と形式論理学

その前にまずヘーゲルの用いる「論理学」と私たちが普段使っている「論理的」が別物であることを押さえておきたい。ヘーゲル論理学は弁証法論理学なのだ。

「A=B、B=C、よってA=C」の三段論法に代表されるように、一切の矛盾がないことを論理学を「形式論理学」と呼ぶ。形式論理学においては「A=BかつA≠B」は矛盾しているため成立することはない。これに対して、矛盾を前提とし、対立した物事の統一による発展こそを基礎とする論理学のことを弁証法論理学と言う。弁証法論理学においては、形式論理学では許されない「A=BかつA≠B」は逆に最も核心的な命題になる

矛盾を基礎とする弁証法論理学において「A=BかつA≠B」はアリ

矛盾を許さない形式論理学において「A=BかつA≠B」はナシ

精神現象学は要約不可能哲学書と呼ばれるが、その難しさの要因の一つにこの大著が弁証法論理学に基づいていることが挙げられる。普通の論文というものはどれだけ難しくても形式論理学に則って「私はこう思います()。なぜならこういう理由(根拠)だからです。よってこうです(結論)」という「、根拠、結論」の構成で執筆されている。

だが弁証法論理学に基づいている精神現象学はこの全てが存在しない。精神現象学の冒頭でヘーゲルは「著作というものには普通作者がその著作で企てた的についてる序文があるが、哲学的な著作の場合はそれは余計なものであり、不適切だ」と述べている。よって読者は「結局、何が言いたいの?」とポカンとなってしまうのだ。

形式論理学に従っている通常の論文は自分の矛盾しない根拠を示し、結論という真理に到達することをす。しかし「真理とは矛盾し、常に変化するものである」とする精神現象学では、は常に対立し、矛盾を続け、どこかにたどり着いたと思ったらまたその中に矛盾が発見される。矛盾を経るにつれてより高次に段階に移っていくも、最終的な結論に至ることはない。ヘーゲルにとって大事なのは、実体ではなく作用性。つまり高次に向かって歩む過程の中にこそあった。ヘーゲル真理とは固定した結果ではなく、常に生成していくプロセスにのみ成り立つと考えていたのである。

精神現象学の弁証法

精神現象学は、「意識」が様々な経験を得ながら「絶対知」に向かって歩んでいくプロセスを叙述する哲学書である。あまりに物語的な書籍であり、ある哲学者は「小説みたいで面い」という感想を残している。遥かなる旅路の中で「意識」は常に自己を懐疑しながら感覚的確信→知覚→悟性→理性と発展していく。

この本で問題とされているのは認識論である。真理を追いめる哲学という学問にとって「に存在するものをどう認識するか」は非常に重要な問題であった。私たちがの前にあるりんごを見て「ここにりんごがある」と考えてみたところで、その考えに至るまでにはりんごで知覚し、で認知するという過程があるが、果たしてこの知覚と認知は無条件に信じて良いものなのだろうか。カントは認識(主観)と対客観)の間にはえがたい溝があるとした。

ヘーゲルは「対は認識できるのか?」という問題が生まれる原因を、この「認識対りんご)」と「認識体(自分)」を対立させるからだとし、カントのように対体を全くの別物とする立場。つまり矛盾を許さず(二律背反)、真理を固定したものとする認識を悟性的だとして批判した。認識体に対して全く異なった認識対という客体があったときに、ヘーゲルはその対立、矛盾する客体を綜合する。絶対的な他在のうちに自己を見ることを絶対知と言う。すなわち、体と客体の統一を自覚することこそが絶対知であり、ヘーゲルが「学問」と呼ぶ真理の極致である。しかし絶対知へののりは高い山に登るようなもので、段階を踏まなければ踏破することはわない。そこで案内役になるのがこの精神現象学の役割である。

精神現象学の中にでてくる数々の懐疑と経験の過程こそがヘーゲルの観念弁証法である。精神現象学で一番最初に取り上げられるものは意識の中でも、ただ「これ」だけを直接媒介に受け止めている「感覚的確信」である。この出発点は、何ものにも媒介されていない直接態でなければならない。この体と客体が統一された最初の状態は、それ自体で独立して存在しているため即自的存在と呼ばれる。次に、最初の存在に反省作用を加え最初の統一を否定するならば、体は統一から分裂し、自己を対化し二重化する。この体は自己に対して存在するため対自的存在と呼ぶ。それ自体で在るだけの「」でしかなかった自覚なき即自は、対自によって批判を受けることによって自覚を得る(自覚化)。

批判を受けて、客体のあり方が自己自身と同じ存在だと自覚し、体と客体の統一の否定を更に否定する(否定の否定)。こうして体は自己自身へ回帰し、より高度な統一へと帰っていき、即自かつ対自的段階にいたる。このように直接態が媒介を通じて自己を反省し、第二の直接態へと螺旋的に発展する。この運動をヘーゲルは「他在において自己自身へ帰る反省」と呼んだ。その媒介の働きに現れるのが思惟(思考)である。

  1. 体と客体が統一された実体(即自)←自覚がない
  2. 否定による体の二重化と分裂(対自)←分裂した体から批判を受けることで自覚が生まれる
  3. 否定の否定による統一(即自かつ対自)←批判を経て自己肯定し、自覚は深化する
  4. 1に戻って繰り返し。自覚は深化し続ける

さて左の2本の線は行だろうか?感性的に考えれば、行の記号はついているものの線はガタガタだし感覚的に行ではない。しかしここで思惟という媒介を通してみると、普遍的な世界にある完璧行が取り出され「パッと見で行ではない」という感覚を否定する。自己反省したことによって左の二線は個別性を失い、行線という一般性を捉える。

この例のように思惟による媒介は感性による個別性に対して常に否定的である。また思惟の媒介を通した第二の直接態は、思惟の否定的媒介をも否定しているので、ここから否定の否定と言われる。更に、否定との対決を経ることによって、直接態は自覚的な肯定を得る。自己批判と自己肯定を繰り返すことによって、自覚はより深化していく。

常識的に考えれば、私たちが実際に感覚、経験したものは具体的で、思考の中で生まれたものは抽的であろう。だが上の例を見ればわかるように、ヘーゲルは実際に感知したものは「」で、媒介の中にある思惟こそが実を伴った「具体的」なものと考えてた。意識はまず「知」る(上の例でいえば雑な線の2線を見ること)。その後、思惟によって「」(完璧行線を思考する)を得て「知」を否定する。だがこの「」も絶対的真理ではなく、単なる高次の「知」にすぎないとすぐに気づかれ、さらなる「」によって否定される。「知」→「」による「知」の否定→高次の「知」→さらに「」による否定→……こうして体と客体の否定、統一を繰り返すこと(これを「経験」と呼ぶ)が観念論弁証法の特徴の一つである。

マルクスの弁証法、唯物弁証法

ヘーゲルの死後に、彼の継承者たちはヘーゲル哲学保守的に受け継ぐ右(老ヘーゲル)と、批判的に受け継ぐ左青年ヘーゲル)の二に別れた。カール・マルクス青年ヘーゲルに属する。マルクスはヘーゲル弁証法を「逆立ち」させ、経済に基礎を置く物弁証法を唱えた。経済諸関係の矛盾歴史を発展させていくという唯物史観が有名。

唯物史観については後に解説するが、こちらのページにも詳しい。> 唯物史観(史的唯物論)

また彼の著『資本論』にも弁証法は見出される。日常的な『意識』から出発したヘーゲルに対して、資本論の出発地点は資本主義社会を構成する最小単位である『商品』であった。市場において交換される商品はやがて貨幣という特殊な商品に行き当たる。人々は貨幣を交換するうちに、本来は商品と交換するために集めていた『貨幣』それ自体をめ出す。こうして貨幣は資本へと転化される。

資本は人間の労働(剰余価値)を搾取し、自己増殖する。こうして人々は自分たちが生み出した資本によって支配を受ける。資本主義が発展するとともに、資本を擬人化した資本家ブルジョワ)と、資本を持たない賃労働者(プロレタリア)の格差は大きくなり、やがて資本主義を倒す革命を引き起こす。このような分析には常に対立と矛盾、そしてその統一が見出される。ヘーゲルの場合と同じく、マルクス経済を弁証法的に分析したのではなく、経済を分析したときに自然と弁証法の動きが発見されるのである。

エンゲルスの『自然の弁証法』

マルクス社会科学を弁証法的に論じたが、物理学生物学、化学など自然科学の分野でも弁証法が見出されると考えていた。例えばダーウィンの『種の起』を読んだマルクスは、進化論が弁証法的であると感銘を受けている。マルクスは生前に弁証法についてまとまった本を出すことはなかったが、彼の友人のエンゲルスが『反デューリング論』と稿集『自然の弁証法』の中でより広範囲の分野での弁証法についての考察を深めた。

エンゲルスによれば弁証法とは「自然社会、思考の発展法則に関する科学」と述べている。エンゲルスもまたヘーゲルと同じく、弁証法とは自然科学の中に恣意的に弁証法の方式を当てはめるとことではなく、逆に自然を観察する中で自ずと見出される科学的一般法則であると考えていたのだ。

エンゲルスによれば弁証法には3つの特徴がある。

  • 量から質の転化(量が増えるとやがて質的にも変化する)
  • 対立物の相互浸透
  • 否定の否定

量から質の転化はわかりやすいだろう。一例をあげると、温が増していくと100℃をえた時点で質的に変化、つまり気体になる。対立物の相互浸透とは、自然の中で対立矛盾するものがあっても、どちらかが一方的に否定されるのではなく、両者が統合されるという今までよく見てきた弁証法の特徴をしている。

三つ目は形式論理学においては否定を否定することはただの肯定になってしまうが、弁証法では否定を否定することによって、より高次のものへと発展することをエンゲルスは言っている。エンゲルスは1例としての成長をあげている。まずを否定することによって生まれ(第一の否定)、成長し変態しやがてを産んで死ぬ(第二の否定)。

科学的弁証法

マルクス、エンゲルスらの弁証法はソビエト連邦盛期にさらに発展し、科学的思考法として流行した。この弁証法も矛盾と統一を基礎とするが、ここでは更に特徴を2つあげて紹介する。

キーワードは「点ではなく全体」、「静ではなく動」である。この二つの考え方はヘーゲルマルクスの弁証法にも共通することなのだが、より日常に即した表現になっている。

科学としての弁証法

普通、私たちは物事を考えるとき「個」と「静」で考える。例えば「い」「砂糖は甘い」などの「AはBである」という思考は、Aという個のみを対とし、また「A=B」を固定された一つの真理とみなす。しかし弁証法においては「個」と「静」ではなく「全体」的、「動」的に考える。

「全体的に考える」とはどういうことか。「砂糖は甘い」の例をあげて考えてみる。まず「砂糖が甘い」のは砂糖という個のみの性質によって生まれる現ではない。砂糖が舌に触れとけて、その刺に「甘い」と認識されることによって初めて引き起こされるのである。もっと踏み込んでみれば砂糖を甘いと認識したは、たんぱく質の塊でありその細胞を作るまでには多くの化学物理の工程を経ている。さらに細胞を作るための食材の摂取にも多くの過程があり、こうして「砂糖が甘い」という単純な現世界全体に至っていく。弁証法では砂糖という個のみを見ず、全体の中で個が他の事物とどう連関して存在するかを考えるのである。ヘーゲル精神現象学の序文で「真理は全体にあり」と述べている。

次に動的に考えるとは、対物Aを停止したものとせず、(例えば時間経過などの)変化をAに持ち込む考えをす。上の例で言えば「い」といっても時間が経って夕方になれば「く」なる。古代哲学者が「万物は流転する」と述べたように、森羅万象のものはどこかの一点で静止することはない。「かった」という一点を静的に捉えて「い」を真理とみなす行為は虚な思考なのだ。そこで動的に考えれば「く、またくない」ということができる。矛盾を基礎とする弁証法ならではの発想法といえよう。

物事は、時間経過や量的変化によって自らの内に矛盾を生み、自らを否定し始める。自らを否定した個は、より深化した自己に至る。その深化した自己もまた自己矛盾によって再度深化していく。こうして物事は自己矛盾の連続によって螺旋的に発展し、個は全体の中で連関していく。

マルクス思想における応用例

ここでは、マルクス思想も「全体」の中で「動的」に考えていることを確認したい。

今の日本人経済学部に入って普通最初に習うのは近代経済学である。これに対し、マルクスが『資本論』で独自に構築した経済学体系をマルクス経済学と呼ぶ。近経(キンケイ)、マル経(マルケイ)なんかとも言う。両者の違いは色々あるが、その一つとして近経は形式論理学に基づいており、マル経は弁証法論理学に基づいていることが挙げられる。つまりマルクス経済学経済を人類史全体の中での連関で考えているのである。

もっと具体的に見てみよう。近代経済学ミクロマクロ経済学では様々な経済理論があるが、それらは全て「資本主義社会」という前提の上に成り立っている。しかし資本主義社会というのは長い人類の歴史の中の一幕に過ぎないはずである。要するに近経は経済を静的に捉えてしまっているのである。これに対してマルクス経済を動的に捉え、資本主義歴史の1つの過程に位置付けた。

資本主義社会において人々の格差は広まり、豊かなブルジョワと貧しいプロレタリアという対立、すなわち社会矛盾を生む。資本主義は発展するにつれてプロレタリアに階級意識を植え付け、資本主義は自己深化する。そうして先鋭化した後期資本主義社会はやがて自らが生み出したプロレタリアによって破壊され、共産主義という共産主義という新しい社会に到達するのである(プロレタリア革命)。

人類史を原始共同体古代奴隷制→中世封建制→近代資本主義共産主義と弁証法的発展させていく歴史観を弁証法的唯物論、または唯物史観と呼ぶ。マルクス自身は遠い未来すぎて言及しなかったが、弁証法に則れば共産主義もまた歴史の一幕であり、共産主義社会もいずれば自己深化し社会矛盾を生み更にその先の社会へと移り変わっていくはずである。

関連動画

関連項目


参考文献

  1. 『弁証法入門柳田謙十郎
  2. wikipedia英語版)『Thesis, antithesis, synthesisexit
  3. Encyclopedia of Sciences and Religions『Hegel's Thesis-Antithesis-Synthesis MOdel』exit
  4. 證法入門高山岩男
  5. 『「反デューリング論」を学ぶ』福田泰久・正夫
  6. 自然の弁証法』F・エンゲル
  7. マルクス ある十九世紀人の生涯』ジョナサンスパバー小原
  8. 読解!はじめてのヘーゲル精神現象学」』武田嗣、西研
  9. 『ヘーゲル精神現象学金子武蔵
  10. 『ヘーゲルとその時代』権左武志
  11. 『ヘーゲル塚登

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