彦部晴直(1508?~1565)とは、戦国時代の武将である。
概要
高階姓高一族の分家・彦部氏の内京都で奉公衆を務めた四郎家の当主。官途は雅楽頭。
足利義輝の近臣の一人で、反三好派の六人衆の一人。最期は永禄の変で討死することとなった。
ここまでのあらすじ
彦部氏の創出と庶流一門
彦部氏とは、高師直などを輩出した高階姓高一族の分家である。高一族の内、高惟章の息子・高惟長が祖であり、その兄弟の高惟重が高一族の嫡流となっていく。この高惟長の孫が窪田光貞であり、その息子が彦部を名乗り、彦部光朝となった。
そして、南北朝時代を経て、室町時代になると、彦部氏は高一族の粛正を逃れ、三系統に分かれた。庶流となったのが、彦部光朝の庶子・彦部行貞(『清源寺本高階系図』では光貞)の系統で、彼らは室町幕府の奉公衆となっていく。一方、嫡子・彦部光継の孫・彦部秀通の子孫は、鎌倉府の奉公衆となった。この一門は亀田俊和に便宜的に太郎家と名付けられているが、鎌倉府の衰退後は上野国の横瀬氏、つまり新田一門を名乗る由良氏の家臣となり、戦国期まで残っていく。
また、彦部氏には、近江守家、三河守家、美濃守家といったさらに謎の系譜があるが、おおむねこうした謎の存在は、新行紀一によって彦部行貞流に比定されている。ただし、年齢が理論上可能ではあるが、長寿の人間が続きすぎているということなので、まだ実証研究が進み次第、塗り替えられる可能性はあるようだ。
なお、こうした、彦部氏庶流のうち、彦部行貞の曾孫に、彦部師民、彦部師長兄弟がいる。彼らの書状が『長門小早川家文書』に多数残っているため、事績が良くわかる存在である。
長享元年(1487年)という応仁の乱よりも後世、彦部師民は困窮のあまり細川京兆家の被官と思われており、慌ててそれを薬師寺元長、ひいてはその主君の細川政元に弁解する内容の書状が、残されている。
さらに、延徳2年(1490年)には、山名政豊に但馬の所領が押領され、翌延徳3年(1491年)には地頭職の証文を親戚に預けた結果幕府に提出できなくなってしまったのを1か月にわたってなんとか所領安堵を実現する等、なんか困った奉公衆の一人となっていたのである。
また、明応元年(1492年)には、その弟・彦部師長は、足利義材の六角高頼着陣に従っており、高一族の嫡流・高師為が、彦部師長が近江の所領に無事入部できたことを祝っている書状がある。
彦部氏の嫡流・彦部四郎家の彦部忠春一門
横道が長くなったが、彦部秀通の兄・彦部光春が、彦部氏の嫡流となり、亀田俊和に便宜的に四郎家と名付けられた。この彦部光春の近辺は、系図によって差異が激しく、『彦部家譜』、『彦部系譜』、『高階姓彦部氏系図』、『彦部由緒書』、『高階朝臣家譜』といった複数の系図の内、『彦部家譜』に従っておく。
そして、彦部光春の末子・彦部忠春が、室町時代に初めて活躍する彦部四郎家の存在である。彼は、貞治5年(1366年)7月10日に兄の死で12歳で家督を継ぎ、『彦部家譜』等の彦部氏の伝承によれば、彦部忠春は足利義満の近臣として活動した。
この記録は『愛知県史資料編9中世2』326号で、足利義満の命令で、三河の御料所の実態調査や奉公衆の所領給付などを、守護の大島義高とは別系統の管轄として遂行していたため、ある程度裏付けは取れる。また、『彦部家譜』以外でも、彦部忠春が足利義満の笙習得に関与した形跡が見て取れるため、足利義満の側近・彦部忠春というのは、かなり実態に近いようだ。
しかし、彦部忠春の享年は、『彦部家譜』等と同時代史料では全く違う。『彦部家譜』では永享7年(1435年)に亡くなっているのだが、『常楽記』には永徳元年(1381年)1月11日条に、1月4日に室町殿で負った傷で、彦部伊豆守が亡くなったとの記録がある。つまり、81歳で死んだはずが、27歳の若さで死んでいるのである。この点は、亀田俊和も留保しているため、まだはっきりとした結論は出ていない。
その後、彦部氏は高師英の配下として山城守護代を担った彦部山城入道や、足利義持とともに応永24年(1417年)の放生会に参加した彦部七郎左衛門尉等、謎の人物を挟むが、彦部四郎家については、彦部忠春いつ死んだか問題があって、はっきりとしたことは言えない。
こうして、『彦部家譜』によると、彦部忠春の息子・彦部教春が、嘉吉の変で足利義教とともに死に、断絶した。
彦部四郎家の復活
彦部四郎家の断絶後、彦部四郎家には、彦部行貞の曾孫・彦部直貞の息子である彦部賢直が養子として入ってきた。
ただし、躍進著しかった彦部忠春に比べると、彦部賢直、その息子・彦部国直の事績は、『彦部家譜』などにはほとんど残っておらず、『彦部家譜』に至っては、彦部国直の項目が漏れてしまっている。この辺、彦部賢直が細川典厩家の細川持賢の、彦部国直がその養子の細川政国の偏諱を受けた可能性も高いことから、あまり振るわなかったのは、ある程度は事実であった可能性がある。
彦馬晴直と足利義晴
彦部氏の諸記録は、彦部晴直の記録が、前3代と比べても圧倒的に多いことに特色がある。これらによると、彦部晴直は永正5年(1508年)1月18日に生まれ、9歳で元服すると足利義稙から偏諱を得てはじめは彦部稙直を、大永元年(1521年)の足利義晴の元服に伴い彼の偏諱で彦部晴直を名乗ることとなった(とはいえ、この時期は足利義稙ではなかった気もするが……)。
なお、『彦部家譜』、『高階朝臣家譜』の両記録によると、彦部晴直の母親は、近衛政家の娘という大変高い身分の存在だった。この母親は要するに足利義政の孫にあたった、(のと足利義晴・足利義輝の「足利ー近衛体制」に合致した)ので彦部晴直は一転して取り立てられた、というのが彦部氏の伝承なのである。ただ、亀田俊和はあくまでも、史実としては可能性は存在する程度に留保しており、あくまでも彦部氏の公式設定であることに注意である。
『高階朝臣家譜』によると、彦部晴直は、足利義稙が足利義晴を迎え入れた際、朝倉孝景に塗輿御免の特権を与えた際、武田信虎が息子に晴の偏諱を頼んだ際、つまり武田信玄の武田晴信の名前の由来ができた際、といった様々な場面で使者として活動している。加えて、天文19年(1550年)には関東に向かって、北条氏康、里見義堯らとも会っている。
とりあえず、公式設定は置いておくと、彦部晴直は、『室町幕府申次覚書』から、永正7年(1520年)4月20日に、伊豆守となっている。なお、この任官は、高一族の嫡流・高師宣の刑部大輔の任官と全く同時のタイミングである。以後も、彦部晴直は、高師宣と割と行動を共にしがちだったようで、同じく『室町幕府申次覚書』の天文15年(1546年)7月27日に、彦部晴直の弟・彦部輝直と思われる彦部又四郎(なお、彦部輝直を彦部晴直の息子とするのは伝承としては新しい系統であり、各伝承を調査した亀田俊和に弟のほうが蓋然性が高いとされるので、それに従う)や高師宣らは足利義輝(この頃はまだ足利義藤)の従五位下叙爵を祝っている。なお、『高階朝臣家譜』によると、彦部輝直の母は高師宣の娘である。
そして、『光源院殿御元服記』によると、天文15年12月18日の足利義輝元服に際して、公方御走衆の一人に、雅楽頭となった彦部晴直がいる。かくして、彦部晴直は、足利義晴、足利義輝の側近の一人に名を連ねていったのだ。
一方、彦部晴直は、『彦部家譜』によると大内義興の口利きで、元服の頃御小袖御番衆に任じられたらしい。これを契機としたのか、『益田家文書』には彦部晴直の書状が3通残っており、石見益田氏と個人的な交流があったようである。なお、彦部晴直の花押がこれで分かる。
足利義輝に殉じる彦部晴直
ところが、彦部晴直は、上野信孝、杉原晴盛、細川晴広、彦部晴直、祐阿、細川某の、反三好派六人衆の一人として名前が挙がってきている。つまり、他の幕臣からも三好長慶にたてつく存在として煙たがられていたのだが、足利義輝は盛大にこちらに与してしまう。かくして、足利義輝の再度の京都没落が生じたのである。
彦部晴直は、以後も足利義輝の近臣として何かやっていたとは思うのだが、正直あまり表に出てこないのでよくわからない。一応、永禄2年(1559年)10月13日に、広橋国光が幕府に参賀した時、申次を務めたことが『言継卿記』補遺からわかるので、足利義輝と行動を共にしていたのだろう。かくして、永禄8年(1565年)の永禄の変で討死する。
なお、『言継卿記』等では彦部晴直くらいしか死んでないのだが、『足利季世記』では弟・孫四郎がともに戦死しており、おそらくこれが彦部輝直である。なお、同じく『足利季世記』のコピペで高師宣もここで死んだと言われがちで、亀田俊和などもそう書いているが、木下昌規がそれ以前に指摘した通り、高師宣は足利義栄政権に残っているため、これは誤りである。
その後の彦部氏?
その息子が、『高階朝臣家譜』によると彦部信勝で、高師宣の娘を母とするという。この彦部信勝は天文5年(1536年)生まれで、永禄3年(1560年)に近衛前久とともに関東にやってきており、太郎家の彦部師光に預けられた。やがて永禄の変が起きると、まだ6歳だった彦部輝直の息子・彦部信直を京都から助け、彼を養子として家督を譲ったらしい。
が、『彦部家譜』によると、彦部信〇という謎の人物が太郎家の末裔におり、亀田俊和はこの人物を彦部信勝と考えている。つまり、彦部信勝以降を京都彦部氏としたのは、『高階朝臣家譜』の語る伝説なのであり、関東の彦部家は実際は太郎家の子孫のままであるとしたのだ。
なお、『彦部由緒書』、『彦部先祖書』はこの『高階朝臣家譜』の伝説形成の過程が見て取れるが、彦部氏が京都からやってきた経緯が異なるなど、バリエーションを伝えている。
ただし、彦部太郎家には明らかに彦部四郎家の遺物が残っており、この辺は両彦部家に交流があったのかもしれない。
補足
信長の野望に出たことなどない。
関連項目
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