「後藤又兵衛」((ごとう・もとつぐ 1560?~1615年)とは、戦国~江戸時代の武将。諱は基次、正親。黒田家、豊臣家に仕えて数多の戦で活躍し、その智略と武勇を敵方からも絶賛された名将である。
概要
播磨国の地侍・後藤家に生まれる。
後藤家が没落すると基次は仙石秀久に仕え、仙石家の改易後は黒田家に仕えて九州征伐や文禄・慶長の役、関ヶ原の戦いで活躍した。
その後主君との折り合いが悪くなった又兵衛は出奔。再就職を妨害されて京都に引き篭もった。
やがて豊臣家と徳川家の対立が深まると、又兵衛は豊臣家に誘われて大坂城に入城。
豊臣秀頼に信頼された又兵衛は牢人衆の筆頭として豊臣軍を指揮し、徳川幕府軍と激しく戦った。又兵衛は智勇に優れ、大坂方の将兵の信望を集めた。
翌年、夏の陣でも基次は活躍。しかし迎撃のために出陣した後藤勢は、運悪く発生した濃霧のせいで友軍の到着が遅れたため孤立してしまう。又兵衛は徳川方の水野勝成や伊達政宗等の大軍を相手に奮戦、壮絶な討死を遂げた。
家臣が記した史料によると、又兵衛は体格の良い大男だった。武具や服装には拘りを持っていて、家臣や与力たちが真似をしたという。
前半生
黒田家を出奔したこと、最終的には敗者となったためか、後藤又兵衛の前半生に関する資料は少ない。
又兵衛が元服した頃、播磨は東西から織田・毛利の大勢力が侵攻し、地元の有力大名が次々と没落した。
播磨の後藤家は本家が播磨春日山城に拠って織田軍と戦い敗北したが、又兵衛の後藤家の動向は不明。
播磨で織田家が優勢になった頃、後藤又兵衛は、
・黒田官兵衛に仕えた
・仙石秀久に仕えて、仙石家の改易後に黒田家に仕えた
他にも黒田家の直臣になる前に黒田家家老の栗山利安(善助)に仕えたなど、諸説ある。
黒田も仙石も羽柴秀吉の麾下で活躍しているので、後者の場合でも基次は黒田家主従と面識を得る機会はあったと思われる。
出世街道
黒田家に従い九州征伐に参加した後藤又兵衛は、戦後に豊前の大名となった黒田家が在地の名門城井家との抗争を始めると、城井家との戦いに参加。
それから4年後、文禄の役が始まると後藤又兵衛も黒田勢の一員として従軍。山場となった第二次晋州城攻略戦では、他の武将と一番乗りを争うなど城の攻略に貢献した。
続く慶長の役で後藤又兵衛は先鋒の将となり活躍しており、戦役の前後に重臣となっている。
豊臣秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは、黒田長政に従い黒田勢の先鋒を務めて石田三成勢と戦う。
石田勢は精鋭揃いだったが、又兵衛は敵の勇将を一騎打ちで仕留めるなど奮闘した。
主従が抜群の手柄を立てた黒田家は戦後筑前に加増転封となり、又兵衛はこれまでの働きを讃えられて益富城と一万六千石の所領を与えられ、遂に大名となった。
転落
だが関ヶ原の戦いから6年後、後藤又兵衛は長年の働きで手に入れた地位を捨てて出奔してしまう。
黒田長政との不仲が原因とされるが、黒田家で二人は兄弟同然に育てられたという話や関係が険悪だったことを示す逸話は後世作られたものである。
この頃の黒田長政は細川忠興と仲が悪くなっており、細川忠興と親しかった後藤又兵衛は彼らの喧嘩の巻き添えにされたという説もある。
出奔の真相は不明だが、黒田家から離れた後藤又兵衛は細川家を頼った。
細川忠興は又兵衛を歓迎したが、又兵衛を雇用した細川家に黒田長政は激しく抗議した。細川忠興も激怒したので、両家の争いを危惧した徳川家康が介入した結果、又兵衛は細川家から退去した。
放浪の身となった又兵衛だが、諸大名は天下の名将を召抱えようと先を争って又兵衛を勧誘した。又兵衛は故郷の播磨を治めていた池田輝政の勧めに従い、池田輝政の息子・忠継に仕えた。
だが旧主・長政は奉公構の措置を取って池田家に抗議したため、池田輝政が亡くなると又兵衛は池田家から離れた。
諸大名は又兵衛に仕官を求め、その度に黒田長政が妨害し、一武将の仕官先を巡って対立を繰り返した。その状況を徳川幕府は危険と判断し、又兵衛を黒田家に帰参させようと仲裁を行ったが失敗している。
後藤又兵衛はその後、京都あるいは大和で隠遁生活を送った。畑仕事や軍学の講義を行ったとされる。この時期の又兵衛は乞食にまで落ちぶれたと言われるが、又兵衛ほど名声のある武将を支援する者が全くいなかったというのは考えにくい。
豊臣氏に仕官
後藤又兵衛が隠居生活を送っている間に、世間では徳川幕府が豊臣氏や朝廷内の親豊臣派を屈服させるべく圧力を掛けるなど慌ただしくなっていた。
徳川幕府の圧力に耐えかねた豊臣氏は、上方で盛り上がる反徳川の機運に後押しされて豊臣秀頼が開戦を決断。徳川幕府軍を迎え撃つために将兵の募集を始めた。
又兵衛も豊臣家の重臣・大野治長から誘いを受け、帰農していた親類や旧臣たちを集めていち早く大坂城に駆けつけている。
前歴は豊臣家から見れば陪臣だが、又兵衛は豊臣軍を率いる大将の一人に抜擢された。
開戦前の閲兵式では総指揮を任され、寄せ集めの豊臣軍を指揮して軍事演習を見事に成功させた又兵衛は、軍神・摩利支天の再来と絶賛された。
大坂城では大野治長が軍団の編成と兵站の総指揮を執っていたが、後藤又兵衛は大野を補佐して豊臣軍の陣容を整えるなど活躍。当時大坂方の人物の中で徳川幕府から警戒されていたのはこの二人だった。
ちなみに開戦前の軍議で真田信繁たちが出撃を提案して又兵衛が賛成したものの、淀殿や大野治長が反対して案を潰したという話には、確かな史料はない。
大野治長は1614年から主戦派に転じた人物であり、彼の恩人で恭順派だった片桐且元を失脚させて開戦を主導している。軍議で又兵衛と衝突したことを示す当時の史料は見つかっていない。
淀殿は邪魔をするどころか、豊臣秀頼と一緒に又兵衛に手厚い贈り物をしたという逸話がある。二度の落城を経験した淀殿はむしろ牢人衆を当てにしていた、と考える方が自然かもしれない。
そして豊臣秀頼は後藤又兵衛を誰よりも重用し、後藤家の家臣たちにも気を配った。
豊臣の主従と10万の将兵から最も篤い信頼を寄せられた武将が後藤又兵衛であり、彼の名声は確かな戦歴と采配によって裏付けされていた。
冬の陣
豊臣氏が開戦準備に費やすことができた時間は短く、また畿内の要所には徳川幕府に味方する有力大名が大軍を抱えていたため、豊臣軍は大坂城の周囲に陣地を構築、襲来する徳川方を迎え撃つ構えで臨んだ。
後藤又兵衛は当初豊臣秀頼の傍にいたので、大坂城で参謀を務めながら各戦線を救援する友軍を率いる立場だったのかもしれない。
大坂城から退去して幕府に味方した片桐且元の軍勢が堺に襲来したが、又兵衛の家臣たちが撃退し、豊臣秀頼から褒賞を与えられている。
徳川幕府は全国から20万人の大軍を動員した。幕府軍は兵数で優ることや諸大名が手柄争いで必死だったこともあり、四方八方から豊臣軍の陣地を攻撃、犠牲を省みない強襲を繰り返した。
豊臣軍も善戦したが、徐々に各地の陣を捨てて後退した。
その中で発生した今福の戦いで、後藤又兵衛は活躍した。
まず大坂城の北東に位置する豊臣方の陣地を佐竹家の軍勢が襲撃。陥落寸前のところを豊臣軍の木村重成が救援した。
戦況を観察していた豊臣秀頼は後藤基次に出撃を命じ、又兵衛は兵を率いて出陣。
今福村へは川を大きく迂回しなければならなかったが、後藤勢は速やかに木村勢と合流し、協力して佐竹勢に猛攻を仕掛けて追い立てた。佐竹勢は家老の渋江政光が戦死するほどの窮地に陥った。
この時、川を挟んで南では大野治長たちが率いる豊臣軍が上杉家の陣地を襲撃していたが、上杉勢の奮戦と諸大名の参戦により敗退。幕府軍は北上して川を渡り始めたので、後藤・木村勢は速やかに撤収した。
後藤又兵衛は真田信繁や長曽我部盛親と協力して真田丸の守備にも参加し、城内の内通者を欺いて敵軍をおびき寄せ、返り討ちにしたという記録を後藤基次の家臣が残している。
他にも大野治長の弟治房から戦の相談を受けるなど、諸将から頼りにされていた。
諸将との関係は終始良好だった。
両軍共に大軍を動員したのでやがて兵糧や弾薬が不足し、和議の話が持ち上がった。
和議について後藤基次がどう判断したかは不明だが、城を包囲された豊臣方は補給が難しく、主戦派の秀頼や大野も最終的に和睦に賛成した。
だが徳川幕府は和睦の条件を破って堀を埋め立て、さらに引き上げた後は様々な口実を設けて豊臣氏を糾弾した。
夏の陣
徳川幕府は豊臣氏に圧力を掛けて再び開戦に追い込んだ。
大坂城では和議の結果として多数の将兵が城から去っており、兵が10万から7万余りに減少していた。
籠城戦は不可能になっていたので、豊臣軍は大和や和泉に進出して徳川方と交戦。
緒戦は豊臣軍が優勢だったが、幕府に味方する諸大名が軍勢を率いて次々に到着すると、豊臣軍は戦線の維持ができず後退するしかなかった。
劣勢の状況で後藤又兵衛たちは、大和方面から侵攻してくる幕府軍を河内方面で迎撃する作戦を提案。国分村という土地を戦場に選び、先に周囲の丘を豊臣軍が押さえて、徳川軍が国分村に進出したところを叩くという作戦だった。
豊臣軍はこの作戦に2万の兵を割き、又兵衛は先鋒を引き受けて三千の兵を指揮した。道明寺の戦いの始まりである。
河内に進出した豊臣軍は道明寺へ向かい、石川を東へ渡って国分村へ移動するはずだった。
先鋒の後藤勢は予定通り夜間に道明寺へ到着。
だがこの時、幕府軍の諸大名の軍勢はすでに国分村に進出していた。また豊臣軍は後続の友軍が遅れていた。
物見から報告を受けた又兵衛は後続の到着を待たず、退却も選ばず、兵を率いて川を渡り国分村の西にある小松山を目指した。
この時点で又兵衛は、作戦の失敗だけでなく豊臣家に残されていた僅かな勝機も潰えてしまったと考えたのかもしれない。
後藤勢は要地の小松山を確保しようと進軍していた幕府方の奥田勢、松倉勢を攻撃して山から追い払い、救援に駆けつけた水野、堀勢との交戦を開始した。
孤立無援の後藤勢3千に対し、幕府軍は伊達、松平、本多など諸軍も加わって総勢2万を超える大軍が小松山を包囲した。
山を登って猛攻を仕掛けてくる幕府軍を後藤勢が撃退し、逆に突撃を繰り返して幕府軍に多大な損害を与えたが、数で劣る後藤勢は次第に追い詰められていった。
およそ七時間にも及ぶ激戦の末、後藤又兵衛は遂に討死。大将の遺骸を守ろうと多くの将兵が奮闘して戦死し、残存兵は三男の後藤一意が率いて小松山から離脱し、道明寺へ向かった。
※濃霧が発生したとはいえ友軍の到着が遅れすぎていて不自然なこと、そもそも本当に濃霧が発生したかどうかも不明のため、上記の説には異論も唱えられている。
真田勢などの迎撃部隊主力は、幕府軍が大和川を越えて北上する可能性も考え、道明寺よりもずっと北の土地に布陣していた。
国分の地形なら寡兵でひとまず幕府軍を足止めできると豊臣方は判断、基次がその任務を引き受けた。
一方、大和方面の幕府軍は豊臣方の予想を上回る軍団規模と速度で西進し、国分一帯を制圧。豊臣方の目論見がこれで崩れてしまう。
後藤勢が小松山を押さえた時点で幕府軍は国分から更に西へ向かっていた。
いずれにせよ幕府軍の進軍があまりに速かったことが、豊臣軍の戦術を破綻させたと考えられる。
小松山の戦いで諸大名は友軍と連携せず我先に攻め寄せて後藤勢に順次撃退されたことや、緒戦で同士討ちも起きている(伊達政宗が味方の神保勢を殲滅した等)ことから、戦後の生き残りを賭けた諸大名の熾烈な功名争いが窺える。
死後
後藤勢の救援に向かった豊臣軍は道明寺に到着して後藤勢を収容し、後藤勢を追いかけて石川を渡ってきた幕府軍と激突した。
戦況は豊臣軍が優勢だったが、別方面でも味方が敗北したことを知った豊臣軍は退却を開始。
幕府大和方面軍を率いる水野勝成は追撃を主張したが、後藤勢との戦いで多大な損害を被っていた諸大名は拒否した。
牢人衆の筆頭であり豊臣軍の精神的支柱でもあった後藤又兵衛の死に衝撃を受けた豊臣軍の諸将は翌日、最後の戦いに挑むこととなる。
後藤勢と戦った敵軍はあまりに甚大な被害を受けたため、この決戦ではほとんど動かなかった。後藤勢は結果的に豊臣軍に最後の勝機をもたらしたことになる。
後藤又兵衛の活躍は味方だけでなく幕府方の諸将からも賞賛され、特に徳川家康や細川忠興は最大級の賛辞を贈っている。
戦後、毛利家と肥後加藤家にそれぞれ仕えていた後藤又兵衛の長男と次男は切腹させられたが、細川忠興に仕えていた四男と、加藤嘉明に使えていた五男はそれぞれ主君が庇護したおかげで命を助けられた。五男の基芳は後に医師となって大成した。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 70 | 政治 | 53 | 魅力 | 54 | 野望 | 52 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 83 | 政治 | 40 | 魅力 | 70 | 野望 | 42 | 教養 | 67 | ||||
覇王伝 | 采配 | 85 | 戦闘 | 87 | 智謀 | 52 | 政治 | 20 | 野望 | 42 | ||||
天翔記 | 戦才 | 172(A) | 智才 | 108(B) | 政才 | 64(C) | 魅力 | 75 | 野望 | 43 | ||||
将星録 | 戦闘 | 88 | 智謀 | 64 | 政治 | 37 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 64 | 戦闘 | 82 | 智謀 | 64 | 政治 | 23 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 77 | 智謀 | 58 | 政治 | 17 | 野望 | 51 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 77 | 知略 | 58 | 政治 | 16 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 75 | 知略 | 51 | 政治 | 14 | 教養 | 38 | ||||||
革新 | 統率 | 85 | 武勇 | 88 | 知略 | 57 | 政治 | 16 | ||||||
天道 | 統率 | 85 | 武勇 | 88 | 知略 | 57 | 政治 | 16 | ||||||
創造 | 統率 | 80 | 武勇 | 83 | 知略 | 63 | 政治 | 30 |
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