徐盛とは、三国志に登場する人物である。
江東の鉄壁
戦乱を避けて呉に居住した。その勇気によって知られた。孫権は徐盛を起用すると兵五百を率いさせ柴桑(江西省九江市)の守りにつかせた。
劉表の部将、黄祖の子である黄射が数千人を率いて攻めてくると、徐盛は二百足らずの手勢でこれを打ち破り、黄射も二度と攻めて来なくなった。孫権は徐盛を校尉、蕪湖(安徽省蕪湖市)の県令に任じ、ここでも徐盛は功績を立て中郎将となった。
曹操が濡須を攻めた時、徐盛も迎撃にあたった。乗っていた軍船が強風で流され、敵中に孤立すると将兵は恐怖に陥ったが、徐盛だけは手勢を率いて上陸しこれを攻撃し、逃げる敵兵を多数殺傷した。そして風が止むと徐盛は引き返し、詳細を聞いた孫権はこれを壮快に感じたという。
221年(黄初2年)、魏に臣従していた孫権は呉王の位を与えられることになったが、魏の使者の邢貞の態度は傲慢だった。張昭をはじめ多くの群臣が怒る中、徐盛は「我等が至らなかったために巴蜀を併呑できず、我が君にこのような盟約を結ばせてしまった。こんな恥なことはない」と号泣した。邢貞はこれを聞くと「江東の相や将がこれほどであれば、いつまでも臣従していることはあるまい」と語ったという。
徐盛は建武将軍、都亭侯、廬江(安徽省巣湖市)太守になった。劉備が攻めてくると徐盛は陸遜らと共にこれを打ち破り(夷陵の戦い)、続いて魏の曹休が攻めてくると呂範や全琮らと共にこれにあたった。おりしも大風で多数の将兵を失ったが徐盛は残りの将兵をまとめ迎撃したので曹休を防ぐことができた。安東将軍、蕪湖侯に昇進した。
224年(黄武3年)、魏の曹丕自ら長江を下り呉を攻めてきた。徐盛は建業から数百里に渡り偽の城壁を築き水軍が大勢いるよう見せかけようとした。諸将は効果がないと反対したが徐盛はこれを押し切った。果たして曹丕はこれに驚き、長江の水かさが増していることもあり撤退した。
徐盛は黄武年間(229年まで)に没し、子の徐楷が後を継いだ。
逸話
- 蒋欽の部下を処罰しようとして孫権に止められ、蒋欽を恐れていたが蒋欽が私怨にとらわれず徐盛を褒め称えたためこれに心服した。また、朱然と共に周泰の下に付けられた時は周泰に従わなかったが、孫権が宴会で周泰の上着を脱がせ傷ひとつひとつの由来を語らせるなど気配りをしたことで初めて徐盛らは周泰に従ったという。
各メディアにおける徐盛
三国志演義
曹丕が攻めてきた時、自ら志願して総大将になるが孫権の甥、孫韶が徐盛の言うことを聞かず手を焼く。しかし独断で魏軍に攻め入った孫韶を徐盛は丁奉に命じて支援してやり、自らも偽城の計を成功させ魏軍を追撃、火攻めで赤壁の戦いに匹敵する大損害を与えた。
三国志大戦
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