概要
寛永5年(1628)~元禄13年(1700)。第2代水戸藩主で水戸黄門として知られる人物。謚は義公。
水戸藩初代藩主徳川頼房の子として産まれる(次男説と三男説あり)。兄に頼重がいたが、頼重は尾張家・紀州家に跡継ぎがいないうちに産まれたため遠慮した父頼房は頼重を後継者とせず尾張家・紀州家に後継者が産まれた後に産まれた光圀を後継者とすることにした。
若い頃の光圀は問題児であった。小かうという小うるさい世話役がいたが、ある日雪が降ったので「ふる雪がおしろいならば手にためて小かうが顔にぬりたくぞある」という歌で仕返しをしたりしていた。しかし十代後半に史記で伯夷・叔斉が父の跡を譲り合うという逸話を読んで感動して心を入れかえ、家督を継承してから「大日本史」の編纂を家臣・佐々十竹・安積澹泊などの家臣らと共に始める。十竹は史料収集、澹泊は編纂に大きく貢献した。佐々十竹は旅先各地で何度か騒動を起こしたらしく、これが水戸黄門漫遊記を産んだ元とも言われる(佐々十竹→助さん、安積澹泊→格さん)。
自分が兄を差し置いて家督を継いだことについてはかなり遠慮していたようで、自分に男子が産まれたときには「水にせよ(殺せ)」と命令するほどだった。この時は家臣が従わなかった上に、それを知った兄・頼重がその子を養子に引き取ると言いだしたため殺す理由がなくなり結局子の命は救われた。後に讃岐高松藩主となった松平頼常である。光圀は代わりに頼重の子を養子にして水戸家を継がせた。
徳川綱吉の将軍就任に協力したものの、諸政策全てに賛同したわけでもなく、生類哀れみの令に反発して綱吉へ犬の毛皮を献上したこともあった。
光圀の死とほぼ同時期に佐渡の金山が枯渇したことから「天が下 二つの宝 つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」と歌われるほど惜しまれた。
水戸学は(斉昭に大きく改変されていたが)幕末の尊王攘夷思想にも大きな影響を与えた。
徳川光圀が登場する作品
水戸黄門
ご存じ時代劇の定番。古くは幕末の講談からはじまり、歌舞伎、演劇、映画、テレビドラマ、漫画、アニメなどさまざまなメディアで描かれているほか、パチンコにもモチーフとして用いられている。
くわしくは水戸黄門の記事を参照。
そして――子連れ狼 刺客の子
劇画『子連れ狼』『新・子連れ狼』の続編となる『そして――子連れ狼 刺客の子』に登場。大五郎と水戸黄門の夢の共演が実現している。顔つきはテレビドラマ版『水戸黄門』で初代水戸黄門を演じた東野英治郎をイメージしているようで、おなじみの頭巾を被っているが、三つ葉葵の羽織を羽織っている。
江戸城の地下に広がる「の之字国」を差配する闇将軍としての顔ももつ。アテルイが奥州に残したと伝わる大金鉱へたどり着くには「の之字国」を踏破せねばならないので、事実上、光圀がアテルイの黄金を私利私欲で狙う者たちから守っていることになる。
同作では108歳で死んだはずの天海が実はさらに生き永らえていて、存命時代を含めると歴代5代将軍を陰から操ってきたと言及されているので、舞台設定は西暦1680年~1709年ごろであると推測できる。史実の水戸光圀の生没年が1628~1701年といわれているので健在でも辻褄はあう。もっとも、本作においては枸杞(くこ)の実をもとに秘伝の加工を施した不老不死の丸薬で、天海(120歳)や伊達政宗(90歳以上)、常陸坊海尊(400歳以上)、青蓮尼(800歳以上)が存命であり、光圀もその長生の秘薬を服用しているらしいので、年代の考証はあまり意味をなさない。
本編では単行本4巻から登場。アテルイの黄金を求めて「の之字国」に入った大五郎と秋田高星の前に現れる。手下として両面宿儺の神、その名も「助さン格さン」を従わせており、この先へ行きたくばこの隼人族の神を倒せと命じる。しかし大五郎に「およそ神とうやまわれている存在と争いたくはない」「だから抵抗しないが、無抵抗の者を殺す神を私は神とは認めない。ゆえに刀を抜く」「また人に命じられる神を私は神とは認めない」「神さまなら、なぜご老公は“さン”などとなれなれしい呼び方をしているのか」「この者は神なのか、それとも人なのか」と詰問され、答えに窮してしまう。答えられないなら神にあらずと判断した大五郎は、東郷重位から教わった示現流の太刀で容赦なく「助さン格さン」の右肩を貫いた。
理路整然にして堂々たる大五郎の英姿に光圀は「負けたわいッ」と泣き笑いしながら敗北を認める。そして大五郎と高星をの之字国の屋敷「子城静勝軒(ねじょうせいしょうけん)」に招き、二人に「らぁーめン」なるごちそうをふるまう。史実では儒学者の朱舜水から献上された中華麺を食べていたく気に入ったと記録されている光圀だが、本作では唐の武周朝の女帝武則天に仕えていた天大吉に「らぁーめン」の作り方を教えてもらったという。その天大吉が日本に渡ってきたときに名乗った名がアテルイであった。
アテルイとは面識があるが、黄金峡がどこにあるかは知らされていない。しかし、もともと「光國」であった名前を、惑に通じて不吉であるとし、八方土地に通じ大吉に通じるとの意からアテルイによって「圀」の則天文字に代えた「光圀」に改めるなど、大いに影響を受けている。
大五郎と高星に試練を課し、器量を認めてからはアテルイの黄金を探す二人に全面的に協力する。
最側近として二人の黒人の大男を重用しており、名を「スケ」「カク」という。
うどんとラーメン
客人が来るとよく自らうどんを打っていたという。明より亡命した儒学者、朱舜水にもふるまったところ、朱舜水はお礼にラーメンを作った。これが日本へのラーメン伝来とされている。
関連項目
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