概要
「米将軍」の呼び名で知られ、江戸幕府の財政を建て直した名君として人気の高い将軍。
1684年(貞享元年)、第2代紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれる。1705年(宝永2年)、父と2人の兄が相次いで亡くなったため、22歳で第5代紀州藩主に就任。紀州藩の財政再建に努めた。
1716年(享保元年)、江戸幕府第7代将軍・徳川家継が8歳で早世し徳川将軍家の血筋が絶えたため、御三家の中から選ばれて養子(後見役)として迎え入れられ第8代将軍に就任。
享保の改革と呼ばれる財政再建を基本とした幕政改革を行い、窮乏していた江戸幕府の財政を安定させ、その後の幕政改革の見本ともなった。「米将軍」の呼び名は特に米相場の安定に尽力したことに由来する。長男・家重に将軍職を譲ったのちも(家重が言語不明瞭で政務に支障を来したため)大御所として実権を握り続けた。
寛延4年(1751年)薨去。
松平健主演のドラマ『暴れん坊将軍』の主人公や、ドラマ『大岡越前』の登場人物、1995年のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』などでお茶の間にもおなじみの将軍である。
なお、体格も当時としては破格なほど大きく、身長180~185cm、体重90kg(当時の相撲力士クラス、現代で言うならプロ野球選手の体格くらい)という、現代でもかなりの屈強なものであり、さらに相撲と剣術を得意とするなど、あながちドラマなどでの吉宗像と史実のものを比較しても間違ってもいないとも言える。
享保の改革
吉宗の評価を語る上で外せないのが、江戸の三大改革の中で最も成功したとされる、「享保の改革」である。
時代背景として元禄バブルの終息期に、新井白石らが中心となって行った「正徳の治」での貨幣改鋳によって金銀の含有量は改善されたもののマネーサプライ(通貨供給量)が減少し、デフレに陥っていた。
そんな状況で吉宗は幕府の支出を切り詰め、諸藩に対して石高の割合に応じた年貢の増税「上米(あげまい、上げ米の制、上米の制と表記することも)」を行い、農民の年貢率を4公6民(40%)⇒5公5民(50%)にアップという倹約と増税の緊縮財政によって財政健全化をはかったため、デフレが加速。不況下の緊縮財政で「極度のデフレ経済」「物価下落と増税による庶民の困窮」「貧富の格差の拡大」「人口増加のストップ」など現在の日本と似た状況に陥る。
そこで日本史上、最も効果が高かったと評価されるリフレーション政策「元文の改鋳」を行ない、貨幣の金銀含有量を下げる代わりに通貨供給量を増大させた結果、長期間継続したデフレから脱却に成功した。この景気回復と質素倹約によって後世まで「幕府中興の名君」として見事に名を残した。[1]
成功?
しかし、この改革については効果を疑問視されている部分も多い。
「幕府中興の名君」とは讃えられたものの、実際は増税とデフレを加速させたに過ぎず、支配者層である武家社会から出ている「名君」という評価を受け入れるのは難しい。また、緊縮財政をとった江戸に活気がなくなってきたのとは対照的に、倹約令を真っ向から無視した尾張・徳川宗春の領内では逆に、積極的な投資・散財によって経済的な好循環となっており、活気があったという(ただし江戸っ子の「宵越しの銭は持たない」と同様の放漫財政であるため、こっちはこっちでまた問題があるのだが)
また、年貢の算定方式を都度測る「検見制」から産出量にかかわらず一定量の年貢を納めさせる「定免制」へと切り替えたことで、豊作不作に関係なく年貢の供給を安定させることには成功したが、不作の時でも一定量をむしり取られるため農民を苦しめる結果を招いている。[2]
諸事権現様御定通り / 権現様成し置かれ候通り / 諸事権現様御掟之通
(徳川吉宗)
また当の本人が、上記スローガンの通り、家康が仕切っていた時代の体制に戻そうとしていた節があり、これまで幕政を仕切っていた老中の罷免、側用人の廃止など再び将軍に権限を集中させるようにしていた。これらの動きから、「改革」ではなく単なる「復古主義」ではないのかと見る向きもある。
子女
- 長男:家重(1712-1761) - 江戸幕府9代将軍。遺骨調査の結果から女性説が浮上している。
- 次男:宗武(1716-1771) - 田安徳川家を創始。寛政の改革を行った松平定信の父。
- 三男:源三(1719) - 吉宗が将軍になって初めて生まれた子供であったが、夭折。
- 四男:宗尹(1721-1765) - 一橋徳川家を創始。孫に11代将軍の徳川家斉がいる。
- 長女:芳姫(1721-1722) - 唯一の女子の実子であったが夭折。
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関連項目
脚注
- *三上隆三の「江戸の貨幣物語」によると、この改鋳された貨幣がこの時の経済状況にちょうど合っていたらしく、80年以上にわたって流通したという。
- *いちおう吉宗も、財力のある町人などを中心に新田開発をやらせたり、用水路の建設を行うなどして米生産の安定化と米価をおさえるようにしたが、「享保の大飢饉」が起きたことで、産出量が大幅にダウンし米価が数倍以上に跳ね上がったことで調整に失敗し、無になった。
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