徳川四天王とは、徳川家康の創業期から天下取りに至るまでを支えた、
以上の4人の武将である。
酒井忠次が隠居した後は本多、榊原、井伊の三人で徳川三傑とも呼ばれる。
この徳川四天王にさらに12人加えて徳川十六神将と呼ぶことも。
概要
各個人について詳しくはそれぞれの記事を参照されたし。(全員記事が出来ました)
あと、三河武士の記事もオススメです。
酒井忠次は家康の駿府での人質時代に同行した家臣の中では最年長。(ちなみに家康は1543年生まれ。)
家康の独立後は石川数正らと共に重用され、数正出奔後は家臣筆頭として遇された。
1588年に隠居したためか、家康の関東移封時に酒井家は3万石に留まった。
本多忠勝と榊原康政は同い年。2人とも19歳で旗本先手役に抜擢され、各地で武功を重ねた。
関東移封時には忠勝が大多喜10万石、康政が館林10万石を与えられる。
井伊直政は遠江出身。幼くして父を今川氏真に誅殺され、今川家に狙われる身となったが井伊直虎に育てられ、浜松時代の家康に見いだされる。忠勝、康政らと同じく旗本先手役に抜擢される。本能寺の変後に家康が甲斐信濃を獲得すると、武田旧臣を配下に収め、「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭部隊を率いることとなる。
ちなみに4人の年齢差が大きいので、徳川四天王がそろって活躍するのは井伊直政が家康に仕えることになってから、酒井忠次が隠居するまでの実質数年である。
大まかに言うと本能寺の変後~小牧長久手の戦いの期間が大体そんな感じ。
関ヶ原の戦い後は榊原康政以外は加増された。酒井家次(忠次の嫡男)は出羽庄内14万石、本多忠勝は伊勢桑名12万石、井伊直政は佐和山18万石に封じられている。
それぞれの家系は江戸時代を通じて譜代大名として彦根、岡崎など各地の要衝に配置されている。
関連項目
- 2
- 0pt