徳川家茂(1846~1866)とは、江戸時代の征夷大将軍である。
概要
一般的には南紀派の推戴した、一橋派の徳川慶喜と相争った存在としてのみ有名な人物。
紀州藩の徳川斉順の長男として生まれる。母は松平晋の娘・みさ(実成院)。嘉永2年(1849年)に藩主となり、徳川家慶から偏諱され、徳川慶福と名乗った。
以後、一橋慶喜と将軍継嗣問題を巡って対立候補として争うが、安政5年(1858年)に井伊直弼の大老就任で自身に決まり、徳川家定の後継者となる。そして、徳川家定があっけなく死んだことから、徳川家茂として、将軍となった。なお、幼いので当初は田安家の徳川慶頼が後見職となった。
日米修好通商条約や将軍継嗣問題で朝廷とこじれにこじれていたため、文久2年(1862年)に孝明天皇の妹・和宮と政略結婚をする。さらに、一橋慶喜、松平春嶽らを重職に付け、文久の幕政改革を行った。一方で、攘夷を求めて朝廷からやってきた三条実美の下向に対して回答するために、徳川家光以来の上洛を行う。が、はかばかしい成果はほとんど上がらず、いったん江戸にもどった。
文久3年(1863年)に海路から上洛すると、島津久光、松平春嶽、伊達宗城らをいったん免職し、在京大名と調整をして政権委任の再確認を進める。かくして江戸に再び戻ると、禁門の変以後の長州藩への対処に追われる。さらに、四カ国艦隊の条約勅許要求に伴い、阿倍正外・松前崇広が兵庫開港を決定し、朝幕間がさらにこじれる。この対応として将軍辞任を提出し、一橋慶喜、松平容保らの説得で入京し、孝明天皇と交渉。何とか危機は回避したものの、既に対立勢力を無視することはできなかった。
そして慶応2年(1866年)に長州処分のための戦闘を進め、ほぼ敗戦といっても過言ではない状況で、大坂城で病死した。まだ、21歳だった。
彼の在世中朝廷と幕府の関係が逆転した一方で、諸改革にどの程度関与したかはわからない。とはいえ、松平春嶽や勝海舟から英明な資質が評価されるなど、家臣からの忠誠は厚い存在ではあったようだ。
関連項目
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