徳川慶喜単語

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徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、

  1. 江戸幕府第15代、そして日本史上最後の征夷大将軍。「よしのぶ」の他、「けいき」や「よしひさ」と読ませることも。幼名は七郎麿号は山。
  2. 1998年に放送されたNHK大河ドラマ演の徳川慶喜役は本木

概要

第9代水戸徳川斉昭の7男として生まれ、のちに御三卿の一つである一を継ぐ。
そしてさらに将軍をも継ぐことになるのである。

大政奉還により江戸幕府を終わらせたため無能の人物と思われがちだがそうではない。
江戸幕府の歴代征夷大将軍の中でもその資質はトップクラスされ、当時「家康再来」とまで言われた。
趣味・多芸であったと言われる家康と同じく何事も器用にこなし、特に手裏剣術に関しては達人の域であった。
また、学問にも優れていた上に話上手で当代髄一の論客でもあった。
の生まれながら時勢に敏感で、江戸幕府の終焉を最もくから感じていた人物だろう。
当時の水戸は尊皇攘夷思想の先頭にある存在であったにも関わらず、慶喜自身は豚肉を食べ写真に熱中し西洋式の軍隊の導入を図るなど、西洋文化の信奉者であった。
日本人よりも維新を望んでいたのは慶喜であったかもしれない。

江戸幕府の終わりを予想していた慶喜は最後の将軍となることを拒み続け、結局その役割を引き受けたのは前将軍茂の死後4ヶも経ってからであった。
慶喜の在位はおよそ1年間。
まさに江戸幕府を終わらせるために生まれてきた人物であった。

生涯

少年時代

保8年(1837年)9月29日、徳御三家の一つである水戸の九代徳川斉昭の七男として江戸で生まれる。

保9年(1838年)、斉昭の教育方針により、江戸から水戸へ移り住む。斉昭の教育は非常に厳しく、例を挙げると衣食を質素なものに制限させるといった軽いものから、いたずらをした際は火傷を負うほど灸を据える、座敷に閉じ込めて食事をさせない、寝相の悪さを直すため、の両端にカミソリを立てるなど、非常に厳しい教育であったと言われる。

化4年(1847年)、11歳の時江戸に滞在していた斉昭に呼び寄せられ、御三卿の一つである一への養子に出される。それ以前に同じ御三家の紀州や尾からも養子縁組の話が来ていたが、敢えて一を選んだのは当時の将軍徳川家慶が一系の血筋であり、一に入れておけば将軍世子になる可性が高かったためとされる。加えて斉昭が「七郎麿は英邁である」という噂話をばら撒き、後年の慶喜英邁論の発端となる。

同年12月1日、元して従三位中将・刑部卿に任じられ、名を徳川慶喜にめて正式に一となった。

青年時代

となった慶喜は、その後しばらくの間穏な生活を営む。慶からも気に入られ、周辺では慶は実子の徳祥(定)ではなく、慶喜を後継者にしたいと思っているのではないかと噂されるほどだったという。

だが嘉永6年(1853年)6月米国艦隊来航のすぐ後に慶は病死。十三代将軍には予定通り世子である祥が就任した。就任後、定と名乗る。

定は言不明瞭で病弱菓子作りが趣味というひ弱な人物で、これでは国難に対処出来ないと考えた有志の人々は、次の将軍補として英邁と評判の高い慶喜を陰に陽に推挙していくことになるが、当の本人は将軍になりたいとは思っておらず、斉昭に対する手紙の中ではそうした動きを迷惑がっていたことが伺える。

「この節世上にてもっぱら取沙汰仕、私事御養君の思召にも被為在哉にもっぱら取沙汰仕、若御登にても、かようなる義御聞被遊はば、堅く御差留め被遊様奉願
下を取程気の折れ事は骨折故いやと申義にし得ども、下を取りて後到しそんじよりは、下を不取方大いにまさるかと奉存
「当一にても、愚私之器量にしすぎ事にて、中の世話さえも中々行届き不申、況(いわんや)下取り成りは、是下滅亡之基ひと奉仕。何とぞお差留のほど偏に奉奉願

(『嘉永六年八月十二日 徳川斉昭宛 徳川慶喜書簡』)

このように嘉永6年の時点では将軍職就任に興味かった慶喜本人の意思とは裏に、斉昭や越前松平慶永薩摩島津斉彬などの有志大名とその配下の人々によって、次期将軍補に祭り上げられていくことになる。

将軍継嗣と条約勅許

安政に入ると通商条約の締結をめる西洋列強が押し寄せるようになり、それまでのように独断で政治的な判断を下すことが難しくなった幕府は、朝廷から条約勅許を貰うことで大義名分を得ようと京都に老中首座・堀田正睦付・岩瀬忠震、勘定奉行・川路聖謨らを派遣工作活動に当たらせた。

だがこの活動は孝明天皇や攘夷卿、在野志士の反発に遭い頓挫。同時に行っていた慶喜将軍就任の勅命降下工作も、紀州の徳慶福(茂)を次期将軍に望む井伊直弼の妨工作によって失敗した

江戸に戻った堀田定に、慶喜を次期将軍にと奏上するがあっさり断られ、同時に井が大老に就任する事が決定された。安政5年(1858年)7月22日、幕府は諸大名を登させ、通商条約の調印を伝えた。

同日報せを受けた慶喜は勅許を得ずに条約に調印した事に反発し、23日に井の元を訪れ面談を行った。

慶喜「条約調印の事は知っていたのか」

「恐れ入り奉り

慶喜「違勅になることをどう考えているのだ」

「恐れ入り奉り

といったこんにゃく問答が暫く続き、将軍継嗣問題に話が及んだ。

慶喜「(定の)御養子の件はどうなったのだ」

「恐れ入り奉り

慶喜「決まったのか決まってないのか」

「恐れ入り奉り

慶喜「紀州殿(慶福)に決まったのではないか」

Exactly(そのとおりでございます)

慶福が次期将軍に就任する事を確認した慶喜は慶福を讃え、井は「方様にそう仰って頂けると有難い」と嬉しそうに返したという。

翌24日、今度は斉昭の他尾・徳慶恕(よしくみ)らが井と面会し、違勅調印と将軍継嗣について非難したが取り合われず、25日、慶福が正式に第14代将軍に就任する予定である事が発表された。

安政の大獄

7月5日定の死の1日前に斉昭の他、慶喜を次期将軍に据えようとしたいわゆる一諸侯が隠居・謹慎の処罰を受け、慶喜も登停止の罰を受けた。更に翌年安政6年(1859年)8月27日には隠居・謹慎を命じられる。一が処罰された理由として井は「謀反を企てていた」としていたが、慶喜自身は斉昭らの政治活動には加わっておらず、御輿として担がれたがためにとばっちりを受けるかっこうとなった。

「身に覚えなくして罪りたるなれば、一つには血気盛りの意地よりして、かく厳重に法のごとく謹慎したりしなり。」

(渋沢栄一 編 『昔会筆記』)

身に覚えのい罪で隠居・謹慎させられた慶喜は意固地になり進んで厳重な謹慎生活に入る。

翌安政7年(1860年)3月3日、井桜田門外で暗殺されると幕府の強硬策がめられ、9月4日に謹慎を解かれるが、他者との面会や文通についてはなお禁止され、これらが全て解除されるのは文久2年(1862年)4月25日になる。

将軍後見職

文久2年(1862年)、薩摩島津久光が卒兵上京朝廷を擁し奉り幕府に政治革を強要する計画が浮上した。これを察知した幕府は先手を打つべく、当時将軍後見職にあった徳慶頼を罷免して後見職はもう不要であることをアピールし、かつて一だった松平慶永を赦免して幕政への参加をめた。合わせて安政の大に連座した人々に対する赦免も行われ、前述の通り慶喜に対する面会・文通の禁止も解除された。

6月7日、久と勅使・大原重徳が江戸に到着。慶永を大老に、慶喜を将軍後見職にという久の要に対し、幕府は慶永を政事総裁職という新設の役職に据えることで妥協を図ろうとするが、将軍継嗣問題で茂の競争相手となった慶喜の後見職就任については拒否の構えを崩さなかった。このため、幕閣と交渉を行っていた大原薩摩士による暗殺をめかすと老中・板倉勝清ら交渉に応じた幕閣が砕けになり、7月1日に慶喜の後見職就任が決定された。

続く

その他

晩年の趣味の一つとされる写真はかなり熱が入っていたらしく、よく雑誌に投稿したりしていたらしいが全然評価されなかった。ただし、当時はカメラそのものがあまり普及しておらず、残っている写真も少ない為か慶喜の写真は当時の時代風景を知る重な資料として再評価されている。それでも現代のプロ写真には酷評されているが。

新しいもの好きであったらしく、倒幕後も豊富な財産を使ってカメラの他に当時しかった自転車や顕微にも手を出していたらしい。が、自転車に乗っているときに横切った美人が気になってよそ見していたところ電柱にぶつかったり顕微で好物のきなこをのぞいたら小さなだらけだったことがトラウマになって食べられなくなったりなど、切れ者の将軍時代からは想像できないちょっとお間抜けなエピソードも一緒に残されている。

2015年TBSバラエティ水曜日のダウンタウン』にて、「徳川慶喜を生で見た事がある人まだギリこの世にいる説」が検証され、実際に言が得られた。つまり、まだいた

撃していたのは1910年生まれの女性で、ほんの子供だった頃に、東京日本橋で、慶喜が行列を伴って歩いていくのを遠に見たということだった。
そして専門(後述する大河ドラマの時代考もした齋藤洋一氏)によれば、この頃=晩年の慶喜は、日本橋を訪れていたり、日本橋(地名ではなくあの)の文字の揮毫をしていたりと同地との関りが深く、これらの記録を裏付ける間接的な拠として、この言は確かな史料価値を持っているということであった。

ちなみにこの回は、この言にたどり着くために100歳をえる高齢者の方々に片っ端からインタビューしたため、他の偉人(大隈重信ダグラス・マッカーサー)の情報や、関東大震災日中戦争などの言なども手に入れており、ゴールデンの民放バラエティらしからぬ濃密な歴史番組と化していた。
結果、優れたテレビ番組を表する「ギャラクシー賞」の間賞を受賞している。

大河ドラマ

1998年に放送された第37作大河ドラマ「徳川慶喜」は、司馬遼太郎原作の「最後の将軍」をベースに、「武田信玄」「信長 KING OF ZIPANGU」の田向正健が脚本を担当した。

主人公の慶喜があまり表だって動けない立場にある人物のため、多くの架の人物が慶喜の代わりに幕末混乱を生きていく姿が描かれていたが、登場人物の多さと複雑さに視聴者があまりついて行けず、視聴率は伸び悩んだ。しかし苦悩を内に秘めながらもポーカーフェイスで底深い演技を見せた本木の好演が高く評価され、後の「おくりびと」「坂の上の雲」における俳優・本木の地位を確立した作品とも言える。

また、ナレーション役の大原麗子がしばしば使う「後で聞いた話だけど~」のフレーズが当時はやった他、当時俳優だった藤木直人が慶喜の側近で様々な幕末の事件に遭遇するドラマオリジナルキャラクター村田新三郎役で準役級の活躍を見せた。なお、大政奉還における重要人物で司馬遼太郎原作ドラマでありながら、坂本龍馬は一切登場しない。

本作では主人公だった慶喜だが、それ以降の幕末を題材にした大河ドラマ(「新選組!」「篤姫」「龍馬伝」「八重の桜」「西郷どん」)では全て、役が佐幕・倒幕にも拘わらず、いずれも悪役とされている。その中でも、新選組!の慶喜役だった今井視聴者に強インパクトを残し、今井はその後長きにわたって、エステーの消臭プラグCM新選組!の慶喜をイメージした殿様役で出演し続けた。

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徳川慶喜

277 ななしのよっしん
2024/01/19(金) 19:25:02 ID: xF2m+oA+kC
「一足らず」というが、この人に足らないのは忠義より協調性な気がする。
朝廷は重んじてたり、渋沢や勝は結構大切にしたりしてるし。
幕府と壊滅的にも波長も合わず、とんでもない勢いで革だけを進めるから余計に嫌われる。
お互いがもう少し仲良くしてたら、降はしてても少なくともここまで幕府軍を粗雑に扱うことはなかったかもしれない。
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278 ななしのよっしん
2024/02/02(金) 12:30:07 ID: bspKRiykaX
>>277
の下での一会桑政権の首班、くらいのポジションベストだったんだろうな。
そうなると、茂の逝は慶喜にとっても致命傷だったということになるのかな。
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279 ななしのよっしん
2024/02/25(日) 18:04:51 ID: BHOMVjB4+u
一見支離滅裂な言動の持ちのように見えるが、徳の消滅を回避しつつ過な攘夷や佐幕を宥め透かしてうまく日本が新体制に軟着陸できるよう即のオリチャーを駆使しながらほとんどこの人の想定通りに幕末政治が操縦されていたのが恐ろしいところ
他の維新の重要人物の多くが不幸な結末を迎えたのにこの人だけは70歳まで趣味自転車を漕ぎながら々と生き抜いたのは徴的だ
臣への薄情さや意志の弱さがよく批判されてきたがが、自己の生存も含めてある意味底したリアリストだったんだと思う
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280 ななしのよっしん
2024/02/25(日) 18:07:48 ID: OjTGy1bq00
>>279
そう考えるとすごい人に見えてきた
実際狙ってやったのかはともかく
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281 ななしのよっしん
2024/02/25(日) 18:33:51 ID: BHOMVjB4+u
>>280
みんな幕府と将軍の存在を大前提にしている時代にこの人だけは将軍職なんて要らないなら別に止しても構わなくね?って気づいているのは並大抵のことではないんだよね
なんというか感性がすごく現代人的というか…維新後はカメラ絵など舶来の新しいもの好きになった話もなんだか頷ける
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282 ななしのよっしん
2024/03/02(土) 03:54:38 ID: 69sw/xxfdc
どうせ負けるんだし、駄な血を流さずに済むのが一番…っていうのは理屈としては正しいけど「例え負けると分かっててもワンチャン狙って最後まで戦う!!」
的なのが美徳とされてるから情がないように見える
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283 ななしのよっしん
2024/03/15(金) 19:18:42 ID: rU7c0EifS2
本当に深謀遠慮で軟着陸させたのか幕府の不甲斐なさや朝敵になった事にビビって何もしなかった結果論なのかわからん
隠居後の方がずっと長いけど息子からもらってたり渋沢栄一の作った会社のけてたりニートFireの中間みたいな生き方しとるな
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284 ななしのよっしん
2024/03/17(日) 14:37:35 ID: xF2m+oA+kC
>>280
意図はしてたけど、うまくいく保はないし、何なら一つ一つの施策に固執もしてないって感じだと思う。良く言えば臨機応変だけど、悪く言えば空気読めないし一貫性もない。
現代でいうとホリエモンとかの感性に近いというか、将軍政治家より商人とかの方が向いてそう何だよね。
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285 ななしのよっしん
2024/03/18(月) 11:34:16 ID: 69sw/xxfdc
>>283
けれど政治に対して意欲的で関わろうとして総理大臣になりかけてた息子の死を遂げてる辺り、慶喜は政治に関わらず仕事せず趣味頭するしか身を守る術がかったんじゃないかな
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286 ななしのよっしん
2024/04/14(日) 20:51:55 ID: EFmim3D0ZW
優秀だけどトップに付いた時点ではどうしようもなかったという点においてルイ16世に似ているな
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