徳川斉昭単語

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徳川斉昭1800~1860)とは、幕末に活躍した大名である。

概要

御三家のうち水戸で、自身の子息一慶喜(後の徳川慶喜)を徳定の後継者に据えようとしていた、一の首。また保期以降の明君の一人。

と諡された徳治紀と烏丸外山氏の間に生まれた。正室は有栖川宮織仁親王の第12王女・登美宮吉子で、第8王女・楽宮喬子が正室であった第12代征夷大将軍徳川家慶とは義兄弟だったともいえる。

文化13年(1816年)に長・徳斉脩がとなったために、部屋住みで文武の修行に励んでいったとされる。徳斉脩が文政12年(1829年)に病に倒れると、徳川家斉21男・恒之(後の徳斉彊)を督に据えようとする動きがあったものの、藤田ら下級士を中心とした藤田の嘆願、および徳斉脩の遺命によって、徳川斉昭がとなったのである。

こうしてとなった徳川斉昭は、藤田を中心とした革を実施し、「民」の政治方針を明らかにして、質素倹約を説いていき、館も設立した。また藤田は外船の侵入が相次いだことに危機感を抱き、内政の革・軍備の充実を説き、徳川斉昭はこれも実現していったのである。

保9年(1838年)には幕政革を説く「封事」を著し、保10年(1839年)に徳川家慶に提出した。しかしこうした革は幕府から行き過ぎを咎められ、化元年(1844年)にいったん謹慎をさせられた。ただしこれにもめげず、化2年には『明訓一班抄』を著し、老中阿部正弘を通して徳川家慶やその子・徳祥(後の徳定)に提出した。

やがてペリー来航後に徳川家慶が亡くなると、嘉永8年(1853年)には防の議に参与する。しかし必戦を想定する徳川斉昭のは幕閣と対立する一方で、攘夷からはある種信仰的な期待をかけられる。

ついには第13代征夷大将軍・徳定の後継者をめぐって、自身の子息一慶喜(後の徳川慶喜)を推す一を率いることになり、通商条約をめぐって大老・井伊直弼に反発するが、安政6年(1859年)の安政の大居。万延元年(1860年)にそのまま亡くなることとなった。こうして水戸は大打撃を受けたまま、混乱状態で幕末を迎える。

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