忌野清志郎(1951年4月2日 - 2009年5月2日)とは、日本を代表する偉大なロッカーである。
概要
1968年、RCサクセションを結成。結成当時は同級生だった三浦友和が参加していた時期もある。結成時メンバーは、小林和生、破廉ケンチと清志郎の3人。
1970年3月『宝くじは買わない』で東芝音工よりデビュー。当初はフォークグループで、『僕の好きな先生』をスマッシュヒットさせるも、以降長い下積み時代を経験することとなる。同時期に、アルバム『初期のRCサクセション』もリリース。当時所属していたホリプロのマネージャーの独立騒動に巻き込まれて仕事を干され、レコードを出してもすぐに廃盤になりしばらく制作出来なくなるなど辛苦を味わった。この頃に代表曲の一つである『スローバラード』を発表したが、全く売れなかった。アルバム『シングル・マン』も発売したが、すぐに廃盤の憂き目を見る。
1978~1980に仲井戸麗市、ギタリスト・春日博文、ドラムの新井田耕造が加入。その後、ギターの小川銀次とキーボードのGee2wooの加入/脱退を重ねて、バンドとしての黄金メンバーが揃う。清志郎もそれまでの地味な風貌から、派手なメイクや服装で着飾ったその後のスタイルに変貌する。以降、『トランジスタラジオ』『ステップ!』『雨上がりの夜空に』を立て続けにヒットさせ第一線に立った。また、廃盤になっていた『シングル・マン』も吉見佑子氏らの運動で再発された。
1991年をもってRCサクセションは無期限活動停止に入り、実質的に解散した。解散時メンバーは、忌野、小林、仲井戸の3人。
ロックの王様になってもなお、生放送の音楽番組で当初の予定に無かったFM東京をコキ下ろす歌を突然演奏する、原発反対の曲が入ったアルバムをレコード会社(東芝EMI)の圧力で販売自粛されるも会社を変えてリリースさせる、パンク調の君が代をリリースしようとするもまたもメジャーレーベルで販売自粛されてインディーズからリリース、さらにはインディーズ業界そのものを皮肉った楽曲を制作し前代未聞の「インディーズ発売中止」を経験するなど、まさにロックな生き方を貫いた神様。2020年には生誕50年を迎え、インディーズで発売したアルバムが全てサブスク解禁に。
また音楽以外にも自転車でのツーリングなどにも力を入れていた。
2006年に喉頭ガンが発見され入院。
一度は復活し、武道館で彼を慕うミュージシャンとともに復帰ライブを行った。
しかしガンが左腸骨へ転移していたため活動を再び停止。
2度目の奇跡は残念ながら起きなかった。2009年5月2日に58歳という若さでこの世を去り銀河系遥か彼方へ終わらないツアーに旅立った・・・・
が、それがどうした!
おまえら!
ソロ期のユニットなど
2,3'S、HIS、LOVE JETS、ラフィータフィー、Little Screaming Revueなど。
俳優としての映画出演もある。2020年には数々の言葉を集めた本も発売。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- RCサクセション
- 井上陽水
古くから親交があり、清志郎の不遇時代は提供した楽曲の印税で食いつないでいた。 - 坂本龍一
1982年にコラボレーション曲「い・け・な・い ルージュマジック」を発表しヒットさせた。 - 天国へコンサートしに行った男
- ミュージシャン一覧
関連リンク
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