性善説とは、人は元々善であるが放っておくと悪に染まっていくので学問を修める必要があるという考え方である。
「無人販売所は性善説でなりたっている」など他人の善性を信じる楽観論的な意味合いは原義の性善説とは異なるが、現在ではこちらの意味で使われることも多い。
ここでは性善説を確立したと言われる孟子の性善説について解説する。
概要
水は放っておくと低い方に流れる。だがこれは水本来の性質のためではない。同じように、悪いことをする人がいるからと言って人間の本性が悪というわけではない(水は低きに流れ、人は易きに流れる)。
子供が井戸に落ちそうになっているのを見て可哀想だと思わない人間はいない。誰もがその時、怵惕惻隠の心を持つのである。人は皆このような四端(四つの本性)[1]を持っている。そして孟子はこの4つの素朴な心情が、儒教における根幹的教義につながると述べる。
- 惻隠の心(井戸に子供が落ちそうになっているのを見れば可哀想だと思う心)→仁
- 羞悪の心(悪いことをやったときに恥ずかしく思い、顔を赤くする心)→義
- 辞譲の心(他人に譲ろうという心)→礼
- 是非の心(正しい道か正しくない道かを考える心)→智
仁義礼智というのは何となく耳にしたことがある人も多いだろう。孟子によればそれは難解な道徳哲学などではなく、日頃から当然やるべきことをやっていればそれで良いのである。友人と親しみ、年長者を敬い、長者を尊ぶ。当たり前のことを当たり前にやっていれば人は誰でも堯・舜(それぞれ古代中国の王。儒教では理想の人物とされる)になれる。そうすれば天下は太平になるのだ。
一方で立派な本性があっても養い育てなければ意味がない。また人はものの大小軽重を誤りがちで、身体の不調には大騒ぎするが心の善性の不調が起きても医者を訪ねることはしない。結局のところ、人が悪事を為すのは、大切な本心を放ち失うところに根源がある。学問の道はその放たれた心を取り戻すところにある。
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参考文献
関連項目
脚注
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