愛国丸単語

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愛国丸とは、大日本帝國海軍が運用した報特設巡洋艦である。1941年8月31日工。大東亜戦争では開戦劈頭より通商破壊に従事し、2隻協同撃沈、2隻拿捕、2隻撃破の戦果を挙げる。その後は輸送として活用されたが、1944年2月17日トラック大空襲沈没

概要

特設巡洋艦とは、優秀な民間船舶を徴用し、大砲兵器を搭載した即席の巡洋艦の事。元はただの貨客なので防御が低い等の問題がある。しかし報は最初から特設巡洋艦としての運用を見越していたため、その辺の輸送や客を急造した特設巡洋艦より高い性を誇っていた。和氏入の設計により内装・外装ともに美しい容姿として誕生した。

排水量1万439トン、速21.1ノット。開戦時の武装は40口径15cm8門、13mm二連装機2基、六年式53cm二連装発射管2基、110cm探明1基、90cm探明1基、九四式水上偵察機2機。これは5500トン巡洋艦と同等のものだった。

戦歴

当初愛国丸は大阪が保有する大貨客として建造され、工後は南アフリカ航路に就役する予定だった。1937年優秀船舶建造助成施設の適用を受けて帝國海軍から建造費を補助して貰う形で起工に漕ぎ着けるが、有事の際はすぐ海軍に徴用される条件付きであった。

1938年12月28日玉井所で起工。1940年4月25日進水式を迎えて愛国丸と命名される。装工事が着々と進められていく中、次第に戦争の足音が大きくなってきため、徴用を見越して塗装ではなく海軍提案のグレー系の迷彩塗装が行われた。開戦直前の1941年8月9日完成前にして徴用命が出され、貨客として運用される事は遂に一度もかった。8月31日工を果たし、9月1日海軍へ徴用されて呉鎮守府所管特設巡洋艦となる。岡村政夫予備少将が艦長に着任し、玉井所で15cm単装や76mm対、53cm二連装魚雷発射管などの武装を搭載。10月15日、報丸と第24戦隊を編成し連合艦隊所属となり、水上機を扱うための装置と110cm及び90cm探照灯を装備。10月31日、工事了に伴って玉野からへ回航。

11月13日を出港して岩国に向かう際、旗艦長門から「報丸・愛国丸の御健闘を祈る。連合艦隊長官山本五十六」と信号が送られた。11月15日17時35分、報丸とともに岩国を出港してマーシャル諸島方面へ向かい、11月24日にヤルートへ到着して燃料補給を受けた。11月26日に出港、12月3日射撃教練を実施する。

より商に偽装すべく乗員を女装させる訓練まで行われた。女装に使う200着の衣装広島市屋から買い占めて調達。敵を発見した時にはメリケン粉を顔に塗り、ドレスセーラー服を着込んだ乗組員が甲に出て相手の警を解く。相手が油断したところを大砲で撃沈する戦法が採られた。いささか卑怯な手と思うかもしれないが、これは戦時国際法に認められた正当な戦法である。

そして密かにニュージーランド北方まで進出。開戦と同時に航路の攻撃を企図した。

1941年

1941年12月8日大東亜戦争の開戦を太平洋アモツ諸北端付近を南東へ航行中に迎えた。翌日からは偵を使った索敵を開始。

12月13日シドニーからパナマへ貨物を運んでいる貨物ヴィンセント(6210トン)をピトケルン北西で捕捉。敵船舶を追い越した後、丸とともに軍艦旗を掲げ、電報で停を送りつつ19時7分に報丸が針路上に8発発射して威嚇射撃ヴィンセント旗を揚げてエンジンを停止した。19時35分。乗組員は3隻のボートに分乗して脱出、人になった敵に向けて15cm4発と魚雷3発を発射して撃沈せしめた。航士9名と乗組員27名全員が報丸に救助される。その後は獲物に恵まれず、12月18日から警

12月31日、愛国丸は九四式水上偵察機を発進させて索敵を行う。同日午後、サンフランシスコからホノルルを経由してマニラに向かっていた貨物マラマを発見して上で旋回。しばらく触接していたが西へ飛び去ったのを最後に行方不明となり、愛国丸の捜索むなしく亡失と判断された。

1942年

1942年1月2日午前9時10分、クック諸島とソサエティ南方貨物マラ(3275トン)を九四式偵が発見して撃。際信号を使って停を呼びかける。14時15分に一旦帰投した偵が爆装していたのを見て、15分後にマラ船長抵抗を断念。乗員と乗客は2隻のボートで脱出し、人となったマラマに4発の爆弾を投下して撃沈。遅れて到着した愛国丸と報丸が船長以下乗員20名を救助した。この頃、ギルバート襲に向かうウィリアム・F・ハルゼー提督率いる第17任務部隊と第18任務部隊が近くを航行しており、万が一見つかっていれば愛国丸は撃沈されていたと思われる。

1月6日にツアルモ諸内に退避して機関を整備、1月9日に出撃してツアルモ諸南東、マルケサス南方及び北方を索敵したが、敵を発見できず。元々この航路は船舶の往来が少なかったのである。1月20日作戦中止となり、2月4日トラックへ入港したのち翌日本土へ向けて出港。2月11日、本土近ソ連キムを報丸が臨検。愛国丸はその周辺の対潜警を行った。結局キムに怪しい所は見つからず解放2月12日大分湾へ到着し、救助していた捕虜76名を大分海軍航空隊に引き渡した。同日夕刻に柱へ到着。2月14日へ回航して40口径安式15cm単装から50口径三年式14cmに換装。通商破壊が不活発だったため第24戦隊は解隊となり第6艦隊第8戦隊に転属。それに伴って潜水艦用の魚雷収容庫とディーゼル燃料用の貯蔵庫が新設され、潜水母艦のような扱いを受ける。3月10日を出港して柱へ回航。

4月12日を出港し、4月15日に報丸、水上機母艦千代田練習巡洋艦香取等とともに柱集合。翌16日、広島湾に係留されている戦艦大和岡村艦長、第8潜戦隊石崎少将小松中将が表敬訪問。午前11時に柱を出港、マニラシンガポール、ペナンを経由してインド洋方面に進出する。4月27日伊30と会同。横付けしている伊30ホースを渡し、送を行って燃料補給。30日にペナンに帰投した。その後、インド洋を狩り場に定め、ペナンを拠点に通商破壊に従事する。ここはイギリスの輸送が頻繁に行き来する絶好の狩り場だった。

5月9日中部インド洋でオランダのタンカーヘノタ(7986トン)を拿捕。特務艦大瀬と名し、運用される。ミッドウェー海戦中の6月5日、モザンピーク南方で英貨物エリシア撃で大破。その後、18によって葬られた。7月12日、セイロン南方ニュージーランド船舶ハウラキを拿捕。倉には大量のチーズラム酒ブランデー、シャンパンウィスキービール等が貯蔵されており、シンガポール海軍部隊と分け合った。ウィスキーの一部は東京に送られている。貨物の中にはニュージーランド海軍が取り寄せた対艦用レーダーSWがあったが、価値を見出せず放置された。特設巡洋艦の役割が多くを占めたが、ともに通商破壊を行っている18に補給を施す事もあった。この戦果を以って、7月20日にペナンへ帰投した。一週間後にシンガポールに回航され、整備と補給を受ける。

ミッドウェー海戦敗北により、帝國海軍空母の補充が急務となった。優秀船舶を次々に装していく事になり、報空母化が検討された。しかし飛行甲スペース150×22mしか取れず、体が細すぎる事から適当ではいと判断。代わりに急降下爆撃が可な一四試二座偵約10機を搭載する事にした。……のだが、実際には搭載されなかった。

8月10日シンガポールのセレター軍港で補用機1機を追加。補給用魚雷70本を搭載できる魚雷収容庫を再び新設した。また体の修工事を受け、25mm二連装機を2基追加。マストを短縮し、偽煙突設備を新たに設置した。9月19日、愛国丸、報丸、清澄丸は至急バネイへ進出するよう命じられ、回航。現地の陸軍部隊を輸送する任務に従事。シンガポールからブラウンに向かい、ガダルカナル島に送られる第38師団の増援を積載。9月24日に出発し、10月8日ラバウル到着。増援部隊を降ろした。翌9日に出港、12日にトラックへ入港した。ここでインド通商破壊を命じられ、10月13日に出港。10日後にシンガポールまで戻った。11月1日、新たな艦長として大石大佐が着任。

11月5日、報丸とともにシンガポールを出港。インド洋で通商破壊に従事する。11月11日、報丸がココス南西でインド掃海艇ベンガルに護衛されたタンカーオンディナを発見。攻撃を仕掛けるが、ベンガルの反撃を受けて報丸が被弾。搭載魚雷に引火し、爆沈してしまう。20里離れて行動していた愛国丸が異変に気付いて急行し、ベンガルオンディナを撃。オンディアを大破させた後、救助活動を行った。一時はオンディナから乗員を退避させたが、戻ってきた乗員によって港まで回航されてしまった。11月16日、生き残った愛国丸はシンガポールに帰投。報丸の喪失により、通商破壊への意欲を失った帝國海軍は愛国丸を特設運送として運用する事に決定。11月22日、南西方面艦隊に編入され、輸送任務に従事。

12月2日シンガポールを出港し、12日にラバウル進出。ラバウル方面に投入された愛国丸は、新たに就役した・護丸を新たな相棒に据え、輸送任務に従事。12月16日陸軍第5師団の兵員を乗せてラバウルを出港。軽巡洋艦天龍に護衛されながらマダン攻略へと向かった。18日、マダンに向かう兵員を揚陸中天龍アルバコア撃され撃沈される被害が生じる。攻略作戦自体は成功した。12月29日へ帰投。

1943年

1943年1月4日を出港し、5日に釜山に寄港。一号作戦に従事する。陸軍209飛行大隊や第14野戦航空修理兵員691名、車両34輌等を積載し、1月14日ラバウル入港。現地で物資を揚陸した。翌15日17時ラバウルを出港し、帰路につくが1月16日アドミラルティー北東で潜水艦から撃を受ける。が、2本の魚雷を回避し事なきを得た。

1月24日、チンタオに寄港。三号作戦に参加すべく、第20師団1602名と車両18輌、軍需品2万1171トンを積載して同29日午前9時に出港。2月7日午前11時50分、パラオへ寄港。更に人員1150名、車両4輌、軍需品1500トンを積載。護丸とともに三号作戦第二輸送隊に編入され、パラオを出港。駆逐艦五月雨の護衛を受けながらウエワクに物資・人員を揚陸した。4月5日へ帰港。

7月6日木更津を出港。空母雲鷹とともに第201航空隊整備員や機材を輸送する。ところが7月10日トラック北方にて潜水艦ハリバット撃を受け、魚雷1本が命中。本来なら危機的状態だが、的地のすぐ近くだったため、損傷が深刻化する前にトラックへ入港できた。

10月1日、特設運送に等級変更。10月6日より(三井玉野造所とも)で再装に着手する。8門は全て撤去され、代わりに12cm2門を装備した。12月31日、工事了。

1944年

1944年1月16日を出港し横須賀へ入港。メレヨン派遣される第68警備隊629名、機1200個等の軍需品を積載して1月24日横須賀を出港。駆逐艦満潮白露朝雲に護衛されながら館山沖へ向かい、赤城丸率いる輸送団と合流する。2月1日トラック到着。荷物の積み下ろしが行われる。同16、作業了。

最期は1944年2月17日トラック大空襲アメリカ第58任務部隊襲を受け、午前6時頃に東方で1発の爆弾揮所に命中。烹炊所から火災が発生する。消火自体は上手く行ったが、午前8時30分に再び敵機の襲撃を受ける。対空砲火で応戦して1機を撃墜するも、機体が体に直撃。こので第一倉に積んでいたダイナマイトに引火し、大爆発。わずか2分で沈没員十数名と便乗していた警備隊員約400名が死亡した(異説では730名とも)。爆発した時の写真が残されており、小さなキノコが立ち上っている。

1944年3月30日、徴用解除とともに除籍。

現在

首を失った状態でトラック環礁(デュブロン東の深70m)に沈んでおり、ダイビングスポットとなっている。ポイント名も「Aikoku maru」である。深い位置に沈んでいるため上級者向けとされる。残骸の近くには慰霊のプレートが設けられている。プレートが設置されているのは愛国丸と富士丸のみ。上には戦死した員のものと思われる遺が散らばっている。対戦闘中沈没したため、25mm連装機を睨むように仰を上げている。

チューク州観光局で購入できるダイビングマップでは愛国丸の残骸が絵付きで掲載されている。

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◆CBGbQXRNEo 2022/10/04(火) 16:42:44 ID: 5NdFu1A2Fh
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