慈円単語

ジエン

慈円(じえん、1155~1225)とは、平安時代後期~鎌倉時代前期の僧侶歌人歴史である。

概要

百人一首95番の作者藤原忠通の十一男で、九条兼実の同

・忠通が59歳の時に生まれた末子で、10歳の時に忠通が亡くなり翌年出比叡山で修行を積み、38歳の若さ比叡山延寺のトップである台座に就任。・兼実が建久七年の政変で失脚すると責任を取って辞任したが、その後復帰。計4回、在任した。浄土真宗一向宗)の開祖である親は、若い頃比叡山で慈円に師事している。親がその後師事した浄土宗の法然とは、宗教の面で表向きは対立していたが、九条兼実が法然の元で出したこともあり、実際には友好関係にあった。法然の子が起こした事件がきっかけで、法然と親が流罪にされた時はこれを弁護し、罪の軽減に努めた。また、「徒然」によると、古代中国英雄君のように、一芸に秀でた者を身分を問わず養っていたという。

後述のように歌人としても活躍した慈円だが、歴史学にも極めて優れていた。彼が著した史論書「愚管抄」は、神話の時代から順徳天皇までの歴史をまとめ上げ、貴族の世が衰退して武士が台頭するのも理に基づく時代の流れと評している。の兼実が親幕府だったとはいえ、旧来の寺社勢の頂点に立つ彼がこのような考えを抱いている点からも、慈円の高い観察と洞察える。平清盛の栄や、の暗殺などによる鎌倉混乱の陳述は、軍記物語というフィクション性の強い「物語」や、北条氏に都合良く編集された「吾妻」より信憑性が高い。但し、さすがの彼も摂関の内部に関しては私情が入ってしまったようで、・忠通と対立した藤原忠実・藤原頼長や、・兼実と対立した近衛基通のことは酷評している。身内を客観的に論じるのは難しいということだろうか。慈円が「愚管抄」を完成させて間もなく、承久の乱が勃発。朝廷と武の関係が全に逆転するのを見届けた彼は、その4年後に71歳で病没した。

百人一首に選ばれた慈円の和歌は「おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に 染の袖」である。彼が若い頃に詠んだ歌だが、当時の都はの合戦による内紛が続いた他、鴨長明の「方丈記」などに記されているように、飢饉や疫病、さらには竜巻による災害が多発しており、治安はきに等しい地獄絵図のような有様だった。それでいながら、都を守るはずの比叡山はすっかり堕落しており、自分たちの要を認めさせるために強訴を行い、天皇すら屈させようとする荒法師達が幅をきかせていた。そのような現状の中で、慈円は天台宗の開祖・最澄の教えの原点に返り、国家だけでなく民衆も救おうという強い決意がこの歌には秘められている。百人一首は恋や風景、季節を歌った和歌が大半を占める中、慈円の詠んだ歌は異色である。慈円はこの理念を忘れることく終生守り、生涯を通してこのの行く末を案じ続けた。

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慈円

1 ななしのよっしん
2015/09/20(日) 15:35:09 ID: 9Yx4jo4J3i
自演ではない

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