概要
徳川家康の譜代の一人。関白二条良基の子孫を称し、三河足助の出身で、松平泰親以来松平氏に代々仕えたらしい。
成瀬正成も幼いころから徳川家康の小姓として仕え、1584年の小牧長久手の戦いで初陣を遂げる。生真面目な性格もあり、直ちに500石と根来衆を与えられて、17歳という最年少記録で若くして一軍の将となる。その才覚からか豊臣秀吉から徳川家康を通じて召し抱えの頼みが来たが、切腹するとまで言い放って断った逸話があるそうだ。
徳川家康の関東移封後は4000石が与えられ、行政面に優れていた成瀬正成は、関ヶ原の戦い後に米津清右衛門某と堺の政所の役職を担った。さらに本多正純・安藤直次とともに「天下の機務を奉行」し、甲斐に二万石、さらに一万石を加えられ、三万四千石の大名となった。
しかし、そんな成瀬正成に人生を大きく変える転機が訪れる。徳川家康の九男で、尾張に向かう徳川義直の傅役、つまり大名の下につく陪臣の座を引き受けたのである。これを承諾した成瀬正成に徳川家康は喜び、もし徳川義直が従わなかったら代わりに討て、という意味の刀を与えたそうだ。
ただし、御三家の傅役・つまり付家老は陪臣でありながら、数万石の領地を領内に与えられ、今まで通り幕政に参加することも認められた、特別な存在であった。徳川義直も生真面目に職務を担う成瀬正成を信頼し、主君の前で頭巾をかぶる特権を与えられた。
その最期も徳川家康の眠る日光に行きたいと告げ、側役たちは病床を担いで日光に行く振りをし、日光についたことを告げると亡くなったとされる。そして遺言により、日光の家康廟の近くに葬られ、徳川秀忠はその死を悼んだ。
やがて時代を経るにつれ付家老は普通の陪臣と同じ扱いになっていった。しかし成瀬家は明治維新後も条件付きで犬山城を所持することが許され、2004年までという最も長い期間、城主を続けることができた。その犬山城は国宝の五城の一つである。
また、成瀬正成は決して主君に従うばかりではなく、大久保忠隣の無罪を徳川家康に訴えるなど、公明正大な人物であったそうだ。
補足
尾張藩付家老という地位ゆえか、徳川家臣団の中ではめったに登場しない。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 142 | 智才 | 80 | 政才 | 120 | 魅力 | 59 | 野望 | 63 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | 83 | 武勇 | 68 | 知略 | 70 | 政治 | 84 |
関連項目
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