戦艦(英:Battleship)とは、軍艦の一種である。
概要
大型の艦に大口径の砲を搭載し、重装甲を施したもの。海軍兵器の主軸が砲であった19世紀末~第二次世界大戦初期における海戦の主役。
一般的には「当時選択可能な最高威力の砲と、それに対応する装甲を搭載した軍艦」と理解される。
大砲を積んだフネがすべて戦艦と呼ばれるわけではない。
戦艦の最終目的は敵艦に勝つことではなく、シーレーンの支配である。すなわち、商船を本国から植民地まで送り、外国商船の航行を妨害し、敵の上陸作戦を未然に防ぎ、敵の沿岸陣地を砲撃する能力が必要になる。このようなミッションはより小型で軽武装の船でも実施できるが、本来の任務を達成できるまで生き残るという二義的な任務のために、戦艦が必要だった。[1]
某日本国内の新聞やテレビでは戦闘艦(combatant ship)の略称をもって水上戦闘艦を指して「戦艦」と呼称する場合があるので要注意。いかなるサイズの艦艇でも「戦艦」と記述されてしまう原因である。でも彼らも空母だけはちゃんと空母と呼んでいるのが不思議だったりするが。
男子諸君には戦車(陸)・戦闘機(空)と並んで非常に人気が高く、所謂でっかくて強い「男のロマン」というやつである。
現代日本においては第二次世界大戦の大日本帝國海軍の聯合艦隊旗艦戦艦「大和」の知名度が非常に高いが、ゲルマン大好きっ子には「ビスマルク」も人気がある。後述の「弩級=ド級」の語源となった英国海軍の「ドレッドノート」も「弩級」「超弩級」といった用語とともに名前の認知度が高いが、戦艦の歴史上何がドレッドノートをエポックメイキングたらしめたのかといった建艦上の特徴などはあまり良く知られていない(これについては後述)。
日本人なら大和型二番艦「武蔵」、聯合艦隊旗艦の「三笠」、「長門」もたまには思い出してあげて下さい・・・(まぁ、つい最近、知名度は上がっているとは思うけど) っていうか、太平洋戦争中は「大和」「武蔵」は存在そのものが極秘とされていて、一般国民にはその名前も存在もまったくアナウンスされてなかったので、終戦まで日本国民は「長門」と「陸奥」こそが世界最強で日本の誇る名戦艦だと信じ込んでいた。天皇陛下御用達の御召艦にもなった「比叡」はアイドル的存在。
実際に太平洋で一番活躍したのは、空母を中心とした機動部隊の同等の速力を持つ高速戦艦だった。
日本では当時最も旧式・型遅れの巡洋戦艦に改造に改造を重ねた、魔改造戦艦とも言える「金剛」以下、「比叡」「霧島」「榛名」が活躍した。
本来、日本海軍においては[2][3]その名は海自のイージス艦こんごう型護衛艦やはるな型ヘリコプター護衛艦に引き継がれている。
歴史
純粋な戦闘用艦艇としては、ガレオン船を発展させた18世紀の「戦列艦」まで遡る事ができる。
戦列艦は、商船を兼ねていた在来の戦闘用船舶とは異なり、戦闘に特化した近代的な帆船を指し、専用の砲甲板を幾重にも重ね、100門近い大砲を一斉に射撃することを可能にしている。1880年代ごろの黎明期の戦艦を戦列艦として扱うこともある。
いわゆる戦艦の始祖といわれるのは、アメリカの装甲艦「モニター」である。これは、世界で始めて砲塔を載せた艦であり、大口径砲を船の全周に向けられるその設計は画期的なものだった。しかし、この時代はまだ砲塔を載せて外洋で活動できる艦は造れなかった。砲塔に関しても、近代の戦列艦時代と同じく殆ど前装式で、これは装填に多く時間を要した。多くの装甲艦は、前述の戦列艦に比べ内燃機関や艦体の鋼鉄化など重装甲の装備を実現したものの、まだ戦列艦の域を出ていなかった。
1869年、イギリスは帆走に頼らない、つまりマストを全廃した装甲艦「デヴァステーション」を起工。まだ初期の装甲艦にあった補助用のマストなどの帆装類を一切持たない完全な汽走艦であった。ほぼ全周に射撃可能な30.5cm連装砲塔(ただし前装式)を装備し、強靭な装甲を有する、初の「戦艦」として同艦を挙げる研究者も多い。以降、イギリスは戦艦の建造を推し進める。1889年には「ロイヤル・ソブリン」という前述の「デヴァステーション」をさらに拡大発展させより強力な砲塔(しかも後装式)と強靭な装甲を備えなお外洋で戦える艦を設計。同艦は前弩級戦艦としてその名を残す。この弩級に関しては後述する。
日露戦争に至るまで大砲火力の増加が続いていたが、次第に射程が長距離になると命中率が低くなり有効な射撃が行えないというデメリットが生じた。これは個々の砲が各々の位置で照準をつけていたため、着弾位置の観測が距離が遠のくにつれ不正確となったことが原因だった。これに対する回答が英国海軍が発案し、日露戦争において日本海軍が実践した艦橋での観測・指揮による統制照準射撃だった。視点位置の高い艦橋部で着弾位置を観測、結果に基づき角度、俯角を個々の砲へ指示。各々の砲が同じ照準・タイミングで射撃(斉射)することで砲撃をより集中させることが可能になり、日本海軍の勝利に結びつくことになる。
1906年、英海軍は「ドレッドノート」型の初号艦を進水させた。ドイツ艦隊の拡大に危機感を抱いていた英海軍のジョン・フィッシャーが密かに設計させていたもので、エンジンを蒸気ピストンから蒸気タービンに変更し、熱源も煉炭から重油に変え、主砲の口径を12インチに揃えることで、多数の巨弾が一斉に遠くの狭い海面に落下することで高確率に敵艦への命中を狙うという斬新なコンセプトを満載した戦艦だった。ドレッドノートに対しては今までのコンセプトの戦艦では速力でも砲戦力でも勝負にならず、この船の出現によって、フランス、ドイツ、米国、日本、イタリアなど列強がこれまで建造してきた軍艦の数々は、すべて旧式戦力になってしまった。[4]
現在もよく使われる「弩級(ド級)」という語は、ドレッドノートの「ド」を取って『ド級』と言ったことに由来する。
1906年にはアメリカが主砲の口径を完全に統一し、なおかつ背負い式(砲塔を高さを変えて前後に配置したもの)で艦首と艦尾に配置した「サウスカロライナ級」を起工する。ドレッドノートが砲塔を一基ずつ配置していたのに対し、この背負い式配置は以降世界各国で採用されることとなった。
しかしながら戦艦のより一層の砲火力の増大は、次第に戦艦そのものを縛ることになった。
主砲の大口径化によって砲弾の射程は伸び、破壊力も増大するが、遠距離での砲撃戦になればなるほど命中精度は低下した。船は「揺れている」ので照準の基軸が変動しやすく、遠距離を砲弾が飛翔する間に敵戦艦は移動するため、未来位置を予想して命中させるには高度の射撃技術が必要になった。第一次世界大戦のユトランド沖海戦の経験によって、洋上を20ノットで航行している戦艦を補足して撃破することは困難であることも判明した。[5]
また巨艦であることを求めたため建造に巨額の軍事費を必要とし、国家経済が傾く羽目になり諸外国は軍縮会議を行って保有量を国ごとに制限し建造中のものも廃艦にすることとなった(このとき廃艦にかわり空母への改装をすることは空母保有量の範囲内で認められたため、赤城・加賀・レキシントン級といった大型改装空母が生まれた)。
強力な主砲を持つ戦艦の数を揃えていること=その国の軍事力や国力の象徴とされ、それは各国において戦艦の損失を恐れさせ虎の子扱いで大事に大事に後方で温存させ、おいそれと敵との海戦に出撃させないこととなった。戦艦は恐竜よろしく肥大化した上で身動きがとれない怪物となっていたのだった。日本を例にすると、最も旧式の金剛型4隻は西に東に多数の海戦に参加したものの、他の扶桑型・伊勢型・長門型・大和型の8隻は1943年まで一切の海戦に参加せず(出撃はしたが会敵機会無く帰投したことはある)、海戦に参加したのはもはや敗色濃厚となりなりふりかまってられなくなった1944年からである。
戦艦と航空機
1921年、「上空からの攻撃に弱い戦艦の時代はもはや終わった」とかねてより考えていたアメリカ陸軍航空サービスのウィリアム・ミッチェルは航空機による爆撃実験を実施した。当時、世界中の海軍軍人の誰もが、戦艦が航空機によって簡単に沈められることはないと考えていたが、航空機は戦艦の主砲による攻撃に比べ、「戦艦の主砲の射程よりも遠距離にいる戦艦を攻撃できる」「戦艦の近距離から攻撃できるので高い命中精度を期待できる」「大きな破壊力を持つ魚雷を使用して攻撃できる」という点で優位にあった。実験は成功し、ドイツから賠償として入手していた潜水艦、駆逐艦、巡洋艦、そして戦艦「オストフリースラント」が撃沈された。[6]
陸海軍合同委員会は、戦艦は停止しており回避行動をしていないことや、対空砲火の効果を無視している、などの理由からエアパワーは何も決定的なことは証明されていない、という声明を出したが、第二次世界大戦が始まってみると、結局はミッチェルの考えた通りに事態は推移した。
第二次世界大戦において、航空機で主力艦たる戦艦を撃沈できることは証明された。しかし実際に撃沈された戦艦、一例としては英国海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」、日本海軍の大和型戦艦、イタリア海軍の「ローマ」、あるいは真珠湾攻撃などは、戦闘としてはかなりアンバランスなものとなっている。
つまり戦艦の側に、満足な戦闘機や護衛艦がいないか、奇襲による無防備を狙っての撃沈が多い。洋上航行中の戦闘配置に付いている戦艦を沈めたケースは、むしろ潜水艦のほうが多いのである。陸戦で言えば、どれほど強力な戦車であろうとも、諸兵科連合を組んだ部隊に襲われれば、最後は撃破されるのと同じである。
故に戦闘機や巡洋艦、駆逐艦の十分な護衛、強力な対空砲火を持った戦艦は容易には沈んでいない。アメリカ海軍の戦艦は言うまでもなく、大艦巨砲主義の終焉といわれる戦艦大和の撃沈でさえ、たった1隻の練度が低下していた戦艦を沈めるのに、空母10隻近く及び艦上機367機が必要であった。
また、ドイツ海軍のビスマルク級戦艦「ティルピッツ」はイギリス軍の猛攻によりフィヨルド内に抑えこまれるも、度重なる攻撃にも耐え、イギリス軍に圧力を加え続けた。最終的にこれを撃沈すべく、イギリスはなんと12,000ポンド爆弾(5,443kg爆弾)「トールボーイ」を用いた複数回の攻撃を実行した。それでも「ティルピッツ」は1発の直撃弾を被弾するも耐え、2回目の攻撃にて沈没した。なお、12,000ポンド爆弾3発の直撃弾と1発の至近弾を受けている。さらに同艦には護衛艦や護衛機も殆ど存在していなかった。「ティルピッツ」はその生涯で積極的な軍事行動を取っていないのに関わらず、イギリス首相チャーチルは同艦を脅威的存在とみなしている。
航空機の発達で戦艦が撃沈できるようになった、戦艦のコストパフォーマンスが悪い、これは事実である。しかし第二次世界大戦までに限れば、戦艦が撃沈された事例を検証してみると、それはたとえどのような巨艦でも沈む。戦艦というハードウェアよりは、運用というソフトウェアに問題があったことは、留意されるべきである。
逆に適切な運用を得た場合は日本、米国、英国、ドイツの戦艦などはかなりの活躍を示している。実際、列強海軍の殆どが1941年以降も戦艦を建造、あるいは大改造を施したあたり、依然期待された有力な軍艦ではあったのだ。ところが、有力な上文字通り国威を表す戦艦、特に世界最大の大和型戦艦を積極的に運用するリスクを日本は恐れた。万が一を危惧し、同海軍はなかなか大和型戦艦を有効に運用出来なかった。結果、大和型戦艦は多くの契機を逃したことになる。また、戦艦を運用するだけでも大量の燃料などの資源を必要とした。
高速戦艦である金剛型の活躍など戦艦も一定の意義を有すると言える。…まあ英仏のように1945年以降に戦艦を竣工させるというのは、流石にどうかとは思うが。
第二次世界大戦後
終戦以前に起工されていた数隻の戦艦が竣工したのを最後に戦艦はまったく建造されなくなった。1986年に再就役した米海軍戦艦「ミズーリ」が1991年のクウェートにイラク軍が侵攻した湾岸戦争の時に中東に派遣され、姉妹艦「ウィスコンシン」と共に、陸上のイラク軍に対する巡航ミサイル「トマホーク」や主砲砲撃等の海上からの対地攻撃を行ったのが、地球上最後の戦艦の軍事行動と言える。
2006年にアメリカ海軍が保有していた戦艦アイオワが除籍されたことで100年以上続いた戦艦の歴史には終止符が打たれた。
現用艦による海戦の主軸は、空母及びミサイルを搭載した航空機、及び巡洋艦、駆逐艦、フリゲートといった艦艇が担っている。
巡洋戦艦
装甲巡洋艦から発展した艦種。戦艦の亜種としてみなされる場合もある。
1908年にイギリスで建造された「インヴィンシブル級」は、巡洋艦なみの薄い装甲と高速力に戦艦と同じ30.5cm連装砲4基8門の主砲を組み合わせて装備した艦で、戦艦よりもずっと安価[7]に、戦艦並みの攻撃力を有する艦として、以降積極的に建造されていくこととなる。1913年に竣工した、日本がイギリスに建造を発注した金剛型もこのインヴィンシブル級から発展した巡洋戦艦であった。
当時イギリスと対立していたドイツも類似の艦を1910年からフォン・デア・タン、モルトケ級、デアフリンガー級と多数建造したが、ドイツのコンセプトはイギリスといくばくか異なっており、戦艦に準ずる比較的強固な装甲を有し、主砲は戦艦よりは小型のものを有し、速力は巡洋艦並みといった性格であった。またドイツの公式の艦種類別は「戦艦」「大型巡洋艦」「巡洋艦」であって、上記3級は大型巡洋艦に分類されていたが、世界的にはこれらは巡洋戦艦に該当するとみなされている。逆に第二次世界大戦目前の1938年に竣工したシャルンホルスト級はドイツ公式では戦艦に分類されていたが、その主砲の口径の小ささや船体の小ささ、速力などから、世界的にはやはり巡洋戦艦に該当するとみなされている。
このイギリスとドイツの巡洋戦艦同士が直接激突したのが、第一次世界大戦中に起こったユトランド沖海戦(ジュットランド沖海戦と呼ばれることもある)である。イギリス・ドイツとも高速な巡洋戦艦を前衛部隊で先行させ、あとを低速な主力戦艦部隊がついていくこととなったが、巡洋戦艦同士が激しい砲撃戦を行った後、戦艦が戦場に到着する以前に戦闘は終結してしまった。このことで低速な戦艦では海戦に参加すらできないことが判明し、これ以降に起工される戦艦では高速力を有するものが標準となってゆく。また同時に、前述のように異なるコンセプトで建造されたイギリス巡洋戦艦とドイツ巡洋戦艦とでは、イギリス巡洋戦艦が2隻爆沈・1隻撃沈・1隻大破と大きな被害を受けたのに対し、ドイツ巡洋戦艦は1隻が大破ののち帰港を諦め自沈したのみであり、イギリスのような薄い装甲では大事に至るという戦訓が得られた。このユトランド沖の戦訓に基づき各国は巡洋戦艦や戦艦に大規模な改装を施すこととなる。
日本の巡洋戦艦金剛型も(軍縮条約で練習戦艦化された比叡を除き)第一次改装で装甲をおおいに強化し、その結果として速力が低下してしてしまったため、類別を戦艦に変更されている。軍縮条約失効後の第二次改装で機関を非常に強化し(この頃比叡も第一次・第二次の改装をまとめて実施し戦艦に復帰している)、巡洋戦艦時代以上の高速を得て高速戦艦に生まれ変わり第二次世界大戦では大活躍した。
この後、ワシントン軍縮条約で戦艦と巡洋戦艦の保有枠が各国別に厳しく制限されたために、巡洋戦艦の新造は行なわれなくなった。また条約失効後も、前述の戦訓により新造されるのは高速戦艦ばかりとなり巡洋戦艦は建造されなかった(前述のシャルンホルスト級を除く)。
なお第二次世界大戦終盤にアメリカが建造したアラスカ級大型巡洋艦は、公式類別は大型巡洋艦であったものの、その主砲口径と装甲・速力のバランスなどから、世界的には巡洋戦艦に該当すると扱われている。
また大きく時代は下り、東西冷戦も終わろうとしていた1980年にソビエトが建造したキーロフ級重原子力ロケット巡洋艦(ソビエト海軍公式類別ロシア語の日本語直訳)は、大口径主砲こそ持っておらず主兵装はミサイルであったが、26,500トンという巨体、適度な装甲を施された船体、30ノットという速力から、やはり世界的には巡洋戦艦扱いされることがある。
海防戦艦
戦艦の亜種ともいえようか、20cmクラスの中口径主砲を装備し、もっぱら沿岸や内海での防衛や哨戒など小規模な運用をする、大型の海防艦として「海防戦艦」が存在する。フィンランド海軍の「イルマリネン級」やタイ王国海軍の「トンブリ級」などがそれである。戦艦を持つ余力が無い、もしくは必要はないが海防艦以上の砲撃力と防御力を有する艦艇が欲しい場合、この艦種が用いられた。喫水が浅く、低速で航続距離も短いので、中小国の防衛用の戦艦として用いられた。防衛においては巡洋艦を圧倒可能でかつ運用コストは巡洋艦並かそれ以下である。戦艦よりはるかに低コストだ。戦艦クラスの大口径砲を巡洋艦クラスの船体に装備し沿岸での砲撃任務に就いたモニター艦をこれに当てはめる場合もある。英語表記では「Coastal defence ship」となるので戦艦とはやや異なる。
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関連項目
史実に則った記事のある戦艦(「軍用艦艇の一覧」に基づくもの)
日本
欧米
脚注
- *「戦場の未来 兵器は戦争をいかに制するか」ジョージ・フリードマン レディス・フリードマン 関根一彦:訳 徳間書店 1997 p.159
- *旧国名(地域名)が戦艦の命名則の基本であるが、「金剛」型は、巡洋戦艦の出自を持つので、巡洋艦の命名則、山岳名を持つ。
- *空母直衛の任にあった中では金剛型が最も著名だが、それ以外にも、第二次ソロモン海戦においては陸奥が、マリアナ海戦においては大和・武蔵・長門が、エンガノ岬沖海戦では伊勢・日向がそれぞれ空母直衛を担当している。
- *「「地政学」は殺傷力のある武器である。」兵頭二十八 徳間書店 2016 pp.124-125
- *「アメリカ空軍の歴史と戦略」源田孝 芙蓉書房出版 2008 pp.32-33
- *「アメリカ空軍の歴史と戦略」 pp.32-33
- *高速を発揮するために搭載した多くの機関や大型化した船体などにより、戦艦よりも高価になる場合もあった。
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