戦艦大和単語

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戦艦大和(せんかんやまと)とは、大日本帝國海軍が建造した大和戦艦1番艦である。艦名の由来は奈良県旧国名からだが、日本そのものの意味もある。大和の名は日本海軍軍艦として二(初代:巡洋艦大和)。第二次世界大戦(WWⅡ)中の1941年12月16日海軍工。連合艦隊旗艦となる。排水量口径は現在に至るまで「戦艦」としては世界最大であり、ギネスにも登録されている。レイテ沖海戦駆逐艦ホーエルを協同撃沈。B-24爆撃機5機、アベンジャー1機を撃墜する戦果を挙げた。1945年4月7日坊ノ岬沖海戦沈没

大和2番艦が戦艦武蔵三菱長崎所で建造)、3番艦信濃戦艦として建造中に戦局の変化により設計変更され航空母艦として完成横須賀海軍で建造)した。4番艦も建造中だったが、ミッドウェー海戦敗北や用兵思想の変化で建造は中止された。

概要

ワシントン及びロンドン海軍軍縮条約における建艦の禁止期間は1936年末までだった。世界情勢的にこれ以上の軍縮不可能であり、列強各は禁止期間明けにこぞって新戦艦を作り出すだろうと予想された。そこで大日本帝國海軍仮想敵アメリカに負けない強戦艦を造ろうと、1934年に設計を開始。そしてワシントン軍縮条約脱退後の海軍軍備計画(マル3計画)に基づいて建造がスタートした。

アメリカ海軍戦艦パナマ運河を通過させる必要がある都合上、40cm以上のものは積めないと判断され、新戦艦には46cm(秘匿のため40cmと偽称している)を載せる事とした。大和には当時最先端技術だった電気溶接を盛り込む予定だったが、試験的に使用した潜水母大鯨で大失敗したため、見送られている。またドイツではディーゼルエンジンを取り入れた革新的な袖戦艦ドイッチュラントが誕生。大和に取り入れるべくMAN社に特許料の支払いを打診したところ、100万円(現代でいう数億円)という法外な大を要されたため、こちらも断念している。それでも大和には新機軸が多数盛り込まれ、当時の日本における造技術・軍事技術のを尽くして建造された。巨大であるとともに様々な新機軸も導入されており、翔鶴と同様にバルバス・バウ(球状艦首)を採用。帝國海軍では二例の導入となった。試験的に戦艦比叡で使用したブラウンベリータービンポンプも大和に使われ、比叡に準じた強固な防御装甲が施された。日本が造る軍艦は居住性が劣悪なものが多いが、大和は数少ない例外だった。兵員居住区は冷暖房備(士官室や室だけという説も)であり、三段式ベッドを採用しているなど破格の機を持っていた。そのため、かかった建造費も当時の国家予算の3という巨額になっている。
※ちなみに建造費1億3780万2000円現在の「あたご」イージス艦二隻分の建造費に相当する(で、そんなものかと思えるほど日本戦前戦後にちがいがある拠でもある)。

あまりに高額な予算のため帳簿上の操作が行われており予算上は金剛型戦艦代艦として計上され、それでも不足する予算額は駆逐艦数隻+潜水艦の建造費用として計上された。ただし、それでもなお予算上の都合から諦められた装備なども多いことは書いておいていいだろう。

このような巨艦を建造していることは仮想敵であるアメリカイギリス等に対して隠蔽する必要があり、のドック周囲にはシュロの網がかけられたがあまりに大量のシュロが必要となったため一般庭が用いるシュロが手に入らなくなったなど逸話も多い。長崎でも武蔵を隠すための倉庫が建築されたり、進水式の際にはから見られないよう他の軍艦等を配置して目隠しした。山本五十六長官ですら、呉鎮守府長官から「海軍大臣の特別許可が必要」と言われて見学できなかった。また日本国民に対しても「大和」「武蔵」の工や配備はまったく報道されることなく、当時の民は終戦まで「長門」と「陸奥」こそが日本を代表する戦艦だと思っていた。特に口径が世界最大となる46cmであることは極秘中の極秘とされ、「大和」「武蔵」を率いる艦隊官ですら「大和」「武蔵」のは41cm級だと知らされていた。もちろん敵国アメリカも「大和」「武蔵」の実戦配備とそのおおよその大きさは掴んでいたが、は40.6cmだと思っており46cmと知ったのは戦後であった。

その装備や設計思想などについてはwikipediaや各種書籍等で触れられているのであまりここでは述べることは行わない。ただ日本海軍戦艦に対する捉え方が極限にまで凝縮された設計思想に基づき作られた日本特有のを思わせるような艦デザインなど、扶桑から綿々と受け継がれてきた日本戦艦の最後を飾るに相応しい艦艇であると言えるだろう。ただし太平洋戦争中、十分にそのを発揮できたか。というと極めて疑問符がつく結果が残された。

あまりにも突出した「切り札」すぎたこと、「大和」「武蔵」を動かすための重などの手当ての難しさなどから、作戦参加はあまり行われず、内、トラックなど停泊地にとどまりつづけた。冷暖房備で食料も優先分配された上、戦続くソロモン戦(ガタルカナルの戦い)に 参戦しなかった事もあり他艦乗員から「大和ホテル」と揶揄されたことは有名だろう。ただし作戦参加が手控えられ後方での待機が続いたのは当時日本が持っていた戦艦全般に当てはまることであり「大和」「武蔵」に限らない。最も旧(が故に損失を恐れられなかった)で、かつ高速な金剛の4隻のみが戦艦として多数の作戦に用いられた。前線に出なかった事と底的に情報が秘匿された事で、アメリカ軍大和の全容を認知できていなかった。スケート大和撃した時、艦長は正確に大和の大きさを報告したにも関わらず上層部は「そんなでかい戦艦がある訳ないだろ」と一蹴。変な報告をしたとして、その艦長を陸上勤務にしてしまった。

建造後、数度の修が行われ、に側面副二基の撤去と対火器増設が行われている。

初めてによる撃を行ったのは、あ号作戦におけるマリアナ沖海戦で、この作戦では前衛部隊に配置され敵機と交戦したが、対射撃のみであり敵艦隊と撃ち合うことはなかった。その後捷号作戦レイテ沖海戦)に投入され、アメリカの護衛空母・護衛駆逐艦と遭遇して初めて敵艦を狙ってを発射した(サマー撃戦)。大和の46cm徹甲弾は、厚い防御装甲を持つ敵戦艦の装甲を破った後に艦内で爆発するよう特に起爆を遅く設定した遅発信管が用いられており、装甲のない護衛空母・護衛駆逐艦相手では命中した徹甲弾爆発することく敵艦を突き抜けて反対側のに飛び出したとも言われている。このレイテ沖海戦において「武蔵」を失っている。ちなみに大和自体は参加していないが、礼号作戦ではアメリカ軍重巡足柄を「大和戦艦」と誤認。ミンドロの敵軍がパニックに陥り、迎撃が杜撰になって第二水雷戦隊の突入を許したというエピソードがある。どれだけアメリカ軍大和を恐れていたかを表している。最終的に「大和沖縄海岸に乗りあげて台としてアメリカを迎え撃つ」天一号作戦の一環として参戦し沖縄に向かう途中の坊ノにて撃沈されている。

※・・・菊水作戦は一航空隊の航空攻撃戦を作戦名だが、天一号作戦と混同し使用されるケースがある。

大和最後の戦いであった坊ノ岬沖海戦において、正午よりアメリカ空母機動部隊艦載機の襲撃にあう。
戦争後半におけるアメリカ空母搭載の艦載機が放つ爆弾及び魚雷は開戦当時のものとは大きく破壊が増しており、またレイテ沖海戦での「武蔵」に対峙した戦訓もあり、「大和」は多数の魚雷爆弾を浴び、午後2時23分、傾斜による弾薬庫の誘爆、あるいは機関部の水蒸気爆発と思われる爆発と共にした。
沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分の地点。戦後数十年を経て平成の世に入ってから、海底に眠る大和の姿が明らかになり、艦体が二つ以上に分かれているのが確認された。現在、この「大和」の引き上げ計画も検討されているようだが、そっとしておいてほしいという意見もあるだろう。


昨今、この天一号作戦直前の「大和」を写した写真が発見され、木製甲がすべて黒一色に塗られていたことが明らかになっている。またこの甲塗装は捷号作戦時点から行なわれていたとの説もある。

戦後、「大和」の(日本人的美意識の集約ともいえる)悲劇的結末は多くの小説などの題材に選ばれ、映画化もされている。また、広島県呉市の「大和ミュージアム」こと呉市海事歴史科学館には、1/10サイズの精巧な「大和」の模型が置かれており、多くの来館者でにぎわっている。

艦歴

未曾有の巨大戦艦を建造するにあたり、帝國海軍は様々な試行錯誤を行った。技術先進国ドイツで実用化されていた電気溶接ディーゼル機関大和の建艦に導入しようと、まず潜水母大鯨実験。結果は大失敗で、技術の未熟さが露呈した。ディーゼル機関に関しては水上機母艦瑞穂でも試験的に搭載されていたが、こちらも定格出が出ず失敗。2つとも導入は見送られ、従来のリベット打ちとタービンエンジンを採用する。1936年11月戦艦比叡近代修に入ったため、実験として大和に搭載予定の九八式方位盤照準装置と九八式射撃盤を装備。ブラウン・ボベリーターボポンプも先行実験の名で搭載されている。

昭和12年海軍補充計画(通称マル三)にて、戦艦1号艦の仮称で建造が決定。1937年8月21日に建造訓が出され、11月4日第4渠で起工。1938年ドイツワグナー社から巨大旋盤2台を購入。の製造に使用された。また、ドイツ海軍空母(後のグラーフ・ツェッペリン)開発に協したお礼に貰ったドイツ工作機械や鋼技術も投入されており、ドイツの高い技術日本の建艦ノウハウ合体した。

1940年8月8日午前8時30分に進水式を挙行、軍艦大和と命名される。進後は錨地ポンツーンに回航、装工事を受ける。1941年9月5日呉鎮守府に編入。10月16日から18日まで土佐で予行運転を実施。11月29日、徳山沖試を行い、最高速27.46ノットを記録。開戦直前の12月7日には1発の試射を行った。

1941年

1941年12月8日大東亜戦争開戦。その時、大和に向けて回航中で、ハワイ作戦援護のため外洋に出る長門率いる艦隊とすれ違っている。翌9日から12月15日まで最終装工事を行い、12月16日工。巨大な鋼の猛が産を上げた。戦艦長門陸奥からなる第1戦隊に編入され、初代艦長に高柳儀八大佐が着任。12月21日を出発し、柱島泊地へ回航。長門の西側に投錨する。

ところが12月中に行われた試験により、前後を挟むように配置している副800kg爆弾が命中すると簡単に室内部まで貫通されてしまう事が判明。もし爆発の炎が弾薬庫内に到達すれば一撃で沈する危険性が露わとなり、直ちに対策が検討されたが、大和は既に工しているため一度にまとめて是正工事をするのは不可能だった。一方で戦艦武蔵は建造中だったおかげで、即座に是正された。

1942年

1942年1月14日、室積戦艦陸奥航する標的に向けて射撃訓練。1月18日から翌日にかけて、瀬戸内海西部陸奥撃試験を実施。試験中に民間帆船が迷い込んでくるトラブルがあったものの、了。2月12日戦艦長門から旗艦の座を継承。山本五十六大将が乗艦し、大将旗を掲揚。2月19日、柱を出港して伊予で訓練。遅くに柱へと戻った。2月20日連合艦隊参謀長の少将が乗艦。2月23日まで第二段作戦の図上演習を行った結果、イギリス領セイロンへの上陸作戦は失敗と判定された。

3月に入ると1941年末に露呈した弱点を是正するための改造が出され、少しずつ装されていった。3月30日大和の訓練を山本五十六大将が視察。照準機の設定が間違っているとして高柳艦長と砲術長が叱責された。5月初旬、山本長官は大和艦上でミッドウェー作戦の図上演習を実施。5月19日を出発し、4日間の戦闘訓練に従事。その横には就役したばかりの商改造空母隼鷹がいた。

5月29日午前6時、ミッドウェー作戦参加のため柱を出撃。大和には山本長官が乗り込み、力部隊の旗艦となっていた。17時頃、軽巡洋艦川内率いる第3戦隊が合流。他にも先鋒を務める南雲機動部隊、上陸部隊を乗せた攻略団がミッドウェー近に向かっていたが、敵に位置を悟られないよう厳重な線封鎖を敷いていたため連携が取れない状況にあった。翌30日、カトルフィッシュが放った通信を傍受したが、解読は出来ず。6月4日深夜大和は敵空母らしき呼び出し符丁を傍受。山本長官は「赤城に知らせてみてはどうか」と打診したが、既にミッドウェーまで約250里の所まで来ており、不用意な送信は敵に位置がバレる恐れがあった。幕僚たちが集まって協議した結果、「現在線封鎖中であり、また第1機動部隊連合艦隊より優秀な通信解析班を持っているから危険を冒してまで知らせる必要はい」と結論付けられた。しかしこの通信は赤城では傍受されてなかった。

6月5日ミッドウェー海戦が始まったが、力部隊は空母4隻他からなる南雲機動部隊か後方に位置しており、戦局に寄与する事南雲部隊空母全滅の報を聞く事になる。艦には沈痛な空気が流れた。最もミッドウェーに近かった栗田健男少将の第7戦隊艦砲射撃を命じたが、6月6日午前0時15分に中止。午前2時55分にはミッドウェー作戦そのものの中止を命じて退却を開始した。内地に向けて帰還中の6月10日南鳥島の北東100里で敵潜水艦と遭遇し、2本の魚雷を撃たれている。反撃で副・高射撃した。6月14日19時、柱に帰投。6月20日、柱で停泊中の大和艦上で日本空母脆弱性に対する研究会が行われた。軍部、艦政本部、航空本部員など多数乗艦し、3日に渡って討議。得られた戦訓を綿密に精した結果、火災に対する脆弱性摘された。これを受けて建造予定の雲龍炭酸ガス方式から泡式に消火装置をめ、格納庫内の通も強化している。

8月5日、2番艦武蔵工。大和と第1戦隊を編制する。8月7日ソロモン諸島ガダルカナル島とツラギにアメリカ軍の大部隊が奇襲上陸し、ソロモン戦線が形成される。8月10日大和艦上で対策会議が開かれ、山本長官は第一次ソロモン海戦で快勝した三艦隊の成功を利用して一気にを奪回したいとした。8月17日午後12時30分、特設空母春日丸、第7駆逐隊3隻を率いて柱を出港。中の8月27日タロアへ向かう春日丸とを分離し、自身はトラックに向かう。翌28日、トラック入港直前でフライングフィッシュに捕捉される。アメリカ軍にとって大和は未知の存在であり、フライングフィッシュは「金剛型戦艦」と識別した。4本の魚雷を発射し、2回の爆発音を探知したため2本命中と判断したが、実際は爆であり1本も命中していなかった。撃に気付いた大和零式水上偵察機を発進させ、4発の爆弾を投下させたが逃げられている。その日のうちにトラックへ入港、連合艦隊旗艦として揮を執った。

9月9日南方の泊地へ移動。内地の備蓄燃料は65万トン程度しかなく、最前線ラバウルでは艦隊用燃料が尽きかけていた。そのような状態で燃料を大量に消費する大和が活動すれば、ラバウル方面の艦行動不能に陥ってしまう。また機密保持の観点から出撃したくても出来ない状況が続き、長らく泊地内で過ごす。一時は山本長官が大和武蔵を率いてヘンダーソン飛行場を撃しようとしたが、長官の身を案じた栗田少将金剛榛名で代行した。10月17日、ガ陸軍総攻撃に向けて大和陸奥は自身の燃料を給油健洋丸に移した。南太平洋海戦終結後、角田覚治中将大和を含む泊地内の戦艦を飛行場撃に投入しろと部に昂したが、燃料不足と一蹴されてしまった。いつ頃からか、大和ホテルの蔑称で呼ばれるようになった。

1943年

1943年2月11日戦艦武蔵に旗艦の座を譲渡。山本長官が大和を去った。4月18日、泊地内で発射訓練を実施。5月8日アメリカ軍によるアッツ島攻囲を受けて帰する事になり、トラックを出撃。5月13日に柱へ帰投し、翌日に回航。5月21日から30日まで第4渠で整備を受けるとともに、対4基を追加した。7月12日に再度入渠。21号電探2基と零式水中聴音機を装備し、射界の狭い艦中央両舷の15.5cm三連装を陸揚げ。代わりに25mm三連装機を追加した。過大な航続距離を是正するため搭載燃料を減らし、と補助の制御を容易なものにした。

7月16日在日ドイツ海軍武官パウル・ヴェネッカー大将大和を訪問する事に。だが、いくら同盟であっても機密の塊である大和を見学させる事に艦長松田千秋少将が難色を示し、在独海軍武官野村直邦中将との間で論争が起きた。一応ヴェネッカー大将大和見学は行われたが、1時間以内かつ限られた通路しか通れなかった。彼は昇降機、防揮所、艦の出来の良さを褒めたという。翌17日、出渠。7月21日より速試験と出動訓練に従事。8月16日に軍隊と物資を積載してを出港、に八泊地へ回航される。翌日、戦艦長門扶桑、特設空母大鷹重巡高雄愛宕等とともに出発。横須賀を経由してトラック方面に向かった。8月23日トラック入港。9月18日、敵機動部隊迎撃のためトラックから有艦隊が出撃。しかし燃料の都合から、大和武蔵扶桑は泊地内に留め置かれた。会敵は果たせず、9月25日に艦隊は帰投した。10月5日から6日にかけて敵機動部隊ウェーク島襲。近く敵が大規模行動を起こすと判断した旗艦武蔵は再度艦隊の出撃を下。今回の出撃は大和武蔵も含まれた。10月17日、艦隊は勇躍トラックを出撃。基地用のレーダーがあるマーシャル諸島ブラウンに向かった。ところが伊36ハワイを偵察させてみたところ、港内に戦艦空母それぞれ4隻の停泊を確認。敵艦隊の出撃はかった。10月19日にひとまずブラウン到着。古賀大将はウェーク方面に敵が来攻すると考え、10月23日に出撃。ウェーク近で索敵を行ったが、やはり敵を発見できず。燃料だけ浪費して10月26日に帰投した。

12月12日輸送作戦参加のためトラックを出港。12月17日横須賀へ寄港し、独立混成第1連隊4131名と軍需品を積載。駆逐艦谷風山雲に護衛されてトラックに向かった。ところが12月25日トラックの北西約180里で水上航行中のスケートに発見される。午前5時18分、艦尾魚雷発射管から4本の魚雷を発射。1本が右舷第3下に直撃した。約5mの破孔が生じ、3000トンもの浸が発生する。しかし大和では少し揺れた程度で、被に気付く者はいなかったという。護衛の駆逐艦爆雷6発を落としたが、逃げられた。遅くにトラックへ到着し、工作明石から応急修理を受けた。

1944年

1944年1月10日軽巡大淀駆逐艦満潮朝雲波に護衛されてトラックを出港。翌11日18時、浮上中のハリバットを捕捉して回避。1月14日23時30分、伊豆南方バットフィッシュレーダーに捕まるが、事振り切った。1月15日午前7時10分にはスタージョンスクリュー音を探知。浮上すると10km先に大和の姿があったが、24ノットの高速だったため攻撃する間もく取り逃がした。3回潜水艦に発見されながらも、1月16日へ到着。1月28日に第4渠へ入渠し、スケートに開けられた破孔箇所を調2月3日に一旦出渠し、2月25日から再度に入渠。中央部両舷の副を撤去して代わりに12.7cm三連装機や25mm機を搭載。15cm探照灯2基を陸揚げした。3月18日、出渠。4月11日を出港して伊予試を実施。、柱へ帰投。4月17日へ回航し、輸送物件の積載と補給。重巡摩耶駆逐艦雪風島風等とともに出発する。中でに立ち寄って部隊を揚陸したのち、マニラ方面に移動。4月28日にマニラへ寄港して部隊を降ろし、5月1日リンガ泊地へ到着した。5月3日に「あ」号作戦が発され、翌日中将大和に乗艦。長門から第1戦隊旗艦の座を継承する。5月11日に出港し、タウイタウイ泊地へ移動。現地で武蔵合同訓練を行い、錬度を高めた。

6月10日18時、第三次作戦参加のためタウタウイを出撃。戦艦武蔵軽巡能代駆逐艦沖波島風とともにハルヘラチャン泊地に向かう。出港直後、潜ハーダーのものと思われる潜望を発見。回避運動を行う際に危うく武蔵と衝突しかける一幕があった。6月12日にバチャンへ到着するも、アメリカ軍マリアナ諸に来襲した事で渾作戦どころではなくなってしまう。タウタウイを出発した小沢三郎中将率いる機動部隊との合流を命じられ、翌13日22時に出港。6月15日、ミンダナ東方シーホースに発見され、位置情報通報される。午前10時に第1補給隊と合流し、6月16日15時30分に小沢艦隊と合流。燃料補給を受ける。大和栗田健男中将率いる第2艦隊とともに機動部隊本隊の前方約100里に位置。空母を守るに起用された。

6月19日マリアナ沖海戦に参加。午前9時20分、大和の見り員が西方より接近する敵味方不明機を確認。正体は第601海軍航空隊で味方だったのだが、事前に味方機が上通過する事を知らされていない第2艦隊は敵機と判断。大和は僚艦と回頭を行い、46cmから三式弾を発射。これが実戦における最初の発射であった。三式弾により4機の零戦が損傷。一味方機だと見抜いていた武蔵は対射撃の停止をめたが、聞き入れられず各艦とも射撃を続ける。味方機が両を振ってバンクした事で、ようやく同士討ちは終結。最初の発射が味方相手になってしまった。6月20日夕刻、200機以上に及ぶ敵機の大群が小沢艦隊を攻撃。大和傷で攻撃を乗り切ったが、大空母3隻、300機以上の航空機、700名の搭乗員を喪失して事実小沢艦隊は戦闘喪失。やむなく退避行動に移った。6月22日中城湾に到着。遺体の移動や駆逐艦への燃料補給を施し、翌日出港。荒の玄界を突破して6月24日に柱へ帰投した。5日後、戦艦武蔵とともに柱を出発してに回航。7月2日、タンカー日栄丸から燃料補給を受ける。7月5日から7日にかけ、十時和陸軍大佐率いる第49師団歩兵106連隊3522名が乗艦。7月8日午前8時45分に出発し、戦艦武蔵長門等とともに南方への兵輸送に従事。中城湾を経由し、7月16日16時10分にリンガ到着。便乗の陸軍部隊を輸送に移乗させた。翌日から武蔵月月火水木金金の猛訓練を開始。

10月17日アメリカ軍レイテ湾スルアンに上陸。これを受けて翌18日に捷一号作戦が発され、ブルネイへの進出が命じられた。大和のサンベルナルジノ峡突破を容易にするため、煤で黒色塗装した。10月18日に艦隊はリンガを出港、10月20日正午に補給地のブルネイに到着した。ところがタラカンを出発した給油団が潜水艦の襲撃を受け、被害こそかったものの到着が遅れていた。やむなく大艦から中艦、中艦から小艦へ給油する事になり、同日大和重巡摩耶に横付けして給油した。東郷元帥の孫であり、摩耶の甲士官だった東郷良一少尉が「クラス会だ!」と叫び、両手一杯にビールを担いで大和に乗り込んできたとか。燃料補給の傍ら、長門から零式観測機を受領する。大和栗田健男中将の艦隊へ編入され、力部隊の一員となる。艦隊の的地は敵が橋頭堡を築いたレイテ湾。そこへ至るには数々の難関が待ち受けていた。

血染めのレイテ沖海戦と失意の帰国

10月22日午前5時、全艦艇32隻の給油了。午前8時、旗艦愛宕に率いられて出港。西村艦隊の艦艇が見送ってくれた。出港直後にスコールが降ったが、その後は快晴も穏やかだった。艦隊は18ノットに増速し、午前10時3分にアベノロック北方を通過。午後12時45分、針路15度に変更。レイテ湾への最短ルートとなるパラワンす。翌23日、パラワンで敵潜の襲撃を受け、旗艦愛宕摩耶沈没高雄が大破落という手痛い損を受ける。を泳いだ栗田中将波に救助され、攻撃から約10時間後の夕刻に大和へ移乗。旗艦任務を引き継ぐ。

10月24日栗田艦隊はミンドロ南方を北東方向に進んでいた。午前7時43分、タブラス峡を北上。艦隊は二つに分かれ、それぞれ輪形を敷いた。大和は前方を進む第1部隊の中心に位置する。午前8時10分、3機の偵察機が出現した事で襲は免れない事態となった。シブヤン戦の幕開けである。タブラス峡を抜けた直後の午前10時25分、空母第2群ボーガン隊の第一次攻撃隊44機が出現。1分後、大和は接近する敵編隊に向けて三式弾を発射した。大和武蔵があまりにも巨大過ぎたので、敵は長門を大巡洋艦と誤認したという。その巨体さ故に多くの敵機が大和に殺到した。

午前10時32分、2機のアベンジャーに襲われたが命中弾し。午前10時47分頃、大和の見り員が潜望を発見。他の艦も同様の報告を上げた事から潜水艦が潜んでいると判断され、艦隊運動の妨げとなる。この攻撃で妙高が大破落、艦隊に追随できなくなりブルネイへ引き返した。午後12時6分、マリンゲス南方で第二次攻撃隊が襲来。13時25分、シブヤン北東に差し掛かったところでシャーマン少将率いる第3空母群の第三次攻撃隊68機が出現。ルソン南部を飛び越えて栗田艦隊に殺到する。6分後、大和撃開始。攻撃が集中した武蔵艦首が沈下し、速低下。13時50分、ヘルダイバーが投じた爆弾2発が1番前部に命中。その頃、シャーマン隊に瑞鶴から飛び立った20機の爆装零戦が到達。至近弾4発を与え、更なる攻撃隊発進の機会を失わせた。14時26分、シブヤン北方デビソン少将率いる第4空母群の第四次攻撃隊25機が襲撃。栗田中将は落しかけている武蔵に合わせようと、艦隊速を22ノットに低下させた。4分後、4機のヘルキャットと12機のヘルダイバーが襲い掛かり、5発の500kg爆弾と7発の250kg爆弾が投下された。1発が左舷錨鎖甲を貫通して内部で炸裂。左舷艦首線部に破孔が生じた。更に2発が第1に直撃。3000トンの浸被害が発生し、左へ5度傾斜するも注装置で1度までに回復。14時55分に第五次攻撃隊が出現し、15時30分に攻撃が止まった。実に261機の航空機栗田艦隊を攻撃したのだった。多くの攻撃を吸収した武蔵満身創痍と化し、ついに洋上で停止した。

体勢を立て直すべく、栗田艦隊は輪形のまま290度回頭を行って西方へ退避。18ノットで西進する。これが効果的だったようで、ハルゼー艦隊は決定的痛打を与えたと判断。新たに北東方面に現れた小沢囮艦隊に注意を向け、サンベルナルジノ峡をがらきにした。栗田中将回路のマスバテ峡を通ってレイテ湾をそうとしたが、これでは到着予定時間に5時間の遅れが生じ、レイテ湾口スルアンの手前60里で明けを迎えて襲を受ける羽になる。仕方なく予定通りサンベルナルジノ峡を通過する事とし、17時15分に120度方向へ反転18時30分、瀕死状態の武蔵と遭遇。艦首し、10度ほど左へ傾斜している。旗艦の大和にしてやれる事は、護衛用に重巡利根駆逐艦島風清霜出する事だけだった。19時頃を最期を看取った浜風から武蔵沈没が告げられた。23時30分、サンベルナルジノ峡突入。敵との遭遇が予想されたが、がらきになっていて会敵はかった。この時点で栗田艦隊の戦戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦11隻にまで減じていた。

10月25日午前3時35分、難所のサンベルナルジノ峡を突破。ついに太平洋へと出た。東進した後、午前4時レイテ湾をして南下。午前6時25分、大和の電探が前方50kmに敵機を捕捉。輪形を組もうとしたが、午前6時45分に大和の見り員が南東方向35kmにマスト数本を発見。当初は小沢囮艦隊から出した戦艦伊勢日向と思われたが、距離が近づくにつれ艦載機を発進させている空母を確認。間もなく敵艦隊だと判明し、栗田中将レイテ湾突入を断念して敵艦隊攻撃に切り替えた。すかさず「戦艦戦隊巡洋艦戦隊進撃せよ」の号が下った。隊形を整える時間を惜しんだため、各艦ばらばらに突撃。敵の正体は第4任務群第3集団(タフィ3)で、護衛空母6隻と駆逐艦7隻からなる艦隊だった。午前6時58分、大和撃を仕掛け、東南東31km先の敵艦隊を先制攻撃。続いて戦艦長門金剛榛名門を開き、サマー戦が生起した。

この時、大和の初弾が護衛空母ガンビア・ベイの艦尾に命中したとする説がある。否定的な見方が強いが、2013年8月16日刊行の「週刊大衆」(双葉社)で副長の深井俊之助元海軍少佐が「を撃ったら、初弾が命中したんです。現在販されている史実とされる本の類には、そんな事は書かれていませんが、私らは双眼鏡で見ていたから間違いありません。大和弾はガンビア・ベイの艦尾のあたりに命中しました。当時、栗田艦隊は着弾したのが自分の弾かどうかが判別できるように、爆煙に色が着いていたんです。当然この色は、戦艦ごとに違って、戦艦長門ピンク大和だったんですよ」と述懐している。

大和の前方5km先を行く重巡鳥海羽黒撃を開始し、20cm弾を浴びせる。たちまちタフィ3は立する柱に囲まれた。脆弱な時を狙われた形となった敵護衛空母群は退避を開始。駆逐艦煙幕を展開し、逃げる護衛空母群を支援する。午前7時8分、突然スコールにより大和空母を見失い、射撃を中止。電探で周囲を探りながら全速で東進する。午前7時15分、スコールが止んだ。その間にタフィ3は艦載機95機を発進させ、更に近隣にいるタフィ1とタフィ2から艦載機を呼び寄せた。上には100機以上の敵機が飛び交い、散発的ながら執拗な襲を繰り返してきた。煙幕から飛び出してきた敵駆逐艦ジョントン北方重巡部隊魚雷10本を発射し、熊野鈴谷を損傷・脱落させる。勇敢な反撃だったが、それが命取りになった。直後に大和を含む艦艇から大小様々な弾が撃ち込まれ、ずたぼろにされた状態で煙幕に隠れた。ジョントンの代わりに今度はホーエルが突撃し、金剛羽黒撃するが、こちらは戦果に恵まれなかった。大和ホーエルに向けて副射撃し、行動不能に追いやる。行き足を止めたホーエル能代大和矢矧から集中火を浴びて転覆し、アメリカ軍最初の喪失艦となった。午前7時54分、右100度に魚雷数本が伸びてくるのを確認。大和は左へ転して北北東に舳先を向けるが、この回避がまずかった。被こそしなかったが、両舷を魚雷に挟まれて併走する形となり、身動きが取れなくなってしまったのである。この椿事は長門も巻き込み、図らずも戦場から3万mも離れてしまう。午前8時4分、ようやく魚雷が沈んだため南下。周囲は硝煙とスコールで視界が悪くなっており、敵艦も僚艦の姿も見えなかった。午前8時14分、大和から艦載機が発進して索敵を行う。その直後、200度方向20kmに戦艦らしき反応を探知(相手は駆逐艦ロバーツ)。電探射撃を加えたが、逃げられている。午前8時21分、艦載機炎上中の敵空母を発見。南東方向に逃げているとの情報を発したが、敵戦闘機に追い回されてサンホセへの着陸を強いられた。1分後、南南西20km先に2隻の敵空母を発見して射撃を再開。大和はカリニン・ベイに弾13発を命中させていたが、装甲が薄すぎて信管が作動せず、火災こそ起きたものの沈没しなかった。更に1隻の空母炎上しているのが見えた。この炎上空母ガンビア・ベイで、集中火を受けて艦隊から脱落しつつあった。この時、敵駆逐艦のものと思われる12.7cmの至近弾2発があり、右舷短艇庫付近が損傷。

午前8時40分、南東方向の線上に新手の敵空母が出現。最も東にいた榛名が攻撃に向かった。10分後、敵情把握のため再び艦載機を発進させたが、敵戦闘機によってすぐに交信が途絶した。南西に進み続けると、燃え続けるガンビア・ベイの体が見えてきた。他の空母は既に戦場から離脱しており、厳しい燃料事情を考えて追撃を断念。この戦で護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦サミュエルロバーツ、ホーエルジョントンを撃沈。ヒーアマンとデニスを大破させた。日本側の被害重巡鈴谷筑摩鳥海沈没熊野大破であった。

戦後栗田中将北上と集結を命じた。栗田艦隊の艦艇は別々に応戦したため、広い域に散在していたのだ。午前9時6分、アベンジャー7機が襲来。魚雷を回避しながら1機のアベンジャーを撃墜した。4分後、マバラカットを出撃した神風特攻隊隊の零戦9機が大和の上を通過していった。午前10時30分頃、ようやく集結を了。午前11時、再びレイテ湾をすため南下を始める。栗田艦隊の艦艇は16隻にまで減少。ブルネイ出撃時のちょうど半数である。もはや艦隊を2つに分けられる数ではなく、輪形は1つに統合された。午後12時17分、南西方向からタフィ2艦載機約50機が襲来。37分間の対戦闘を行った。小沢囮艦隊から交戦状況を知らせる通信が2通しか入っておらず、本当に敵空母釣り上げているのか不安視されるように。付近に敵機動部隊が潜んでいる可性を捨て切れなかった栗田中将は、参謀全員の反対を押し切って午後12時55分に北上を命じた。突入が遅れた事でレイテ湾の輸送団もいないだろうと判断され、13時10分に反転。帰路についた。その僅か1分後、北東より接近する100機の機レーダーで探知。間もなくしい襲が行われ、利根が1発の命中弾を受けたが落艦は出なかった。続いて15時45分、47機の敵機が出現。大和は至近弾多数を受けた。連戦に次ぐ連戦で敵も疲れているのか、精を欠く攻撃だった。16時16分、北方に60機以上の機が探知されたが、これはしく味方機だった。16時45分、50機の敵機が出現して最後の攻撃を仕掛けてきた。この攻撃も何とか乗り切り、サンベルナルジノ峡へと急ぐ。17時40分、左舷上を西進する九九式艦爆32機を発見。発信号で攻撃したかどうか尋ねてみると、「敵を発見せず」と返ってきた。この日だけで栗田艦隊は延べ487機から攻撃を受けた。21時、サンベルナルジノ峡に到達。来たを引き返していく。

10月26日未明、パナイブラス峡北口に達した。午前8時スールー通過中に30機のアベンジャーから攻撃される。それが終わると次はヘルダイバーアベンジャー計50機が出現。前甲に2発の命中弾を受けた他、軽巡能代が被して落駆逐艦波と秋霜を護衛に残した。午前10時40分、今度はB-24爆撃機30機が襲来。陸上機は艦上機べると鈍重で、大和が放った三式弾によって5機編隊のB-24が壊滅。墜落した後も爆発が起き続けたという。この攻撃を以って襲は終了。針路を北西に向けると、燃料切れが迫っている島風以下5隻の駆逐艦コロンに向かわせる。夕刻、パラワン道北東端を通過して南シナに出た。遊中の敵潜水艦を避けるため新南諸を大きく回する航路を選んだ。10月27日は丸一日穏だった。戦死した乗員29名の水葬が行われ、遺体に落とした。

10月28日21時、生き残った艦艇は出撃拠点のブルネイへ帰投。浸3000トンと注2000トンにより艦首が少し沈下していた。さっそく御室山丸から燃料補給を受ける。10月30日、20機のB-24がブルネイ襲。投弾を受けたが、在泊艦艇も対空砲火を上げ、12機を撃墜して追い払った。今やこのブルネイも敵の襲圏内であり、大本営戦艦に帰するよう命じた。11月6日駆逐艦夕月卯月に護衛された隼鷹軽巡木曾が入港。残余の艦艇に弾薬を補給した。11月8日午前3時ブルネイを出港。多号作戦支援のため新南群島方面で活動し、11月11日ブルネイ帰投。11月15日、第1戦隊の解隊に伴って第2艦隊直轄となる。翌16日、泊地にB-24爆撃機40機とP-38戦闘機15機が襲来し交戦。同日18時15分、戦艦長門金剛等とともにブルネイを出港。帰の途につく。敵潜が潜んでいる危険なバシー峡を荒に紛れて突破し、大陸沿いの航路を通る。東シナは一年中荒れているで、ここなら敵潜の出現率が低いとされた。

ところが11月21日、基北方シーライオン撃を受けて戦艦金剛駆逐艦浦風が撃沈された。11月23日、宿毛湾に到着。長門とともにへ回航されたが、大和が先に入渠してしまったため長門が入渠できず、横須賀に向かった。修理と対兵装の強化を実施。

1945年

1945年1月1日大和は生き残っていた戦艦長門榛名とともに第1戦隊を再編制。1月3日に出渠し、瀬戸内海西部で訓練する。2月1日、燃料不足で横須賀にいる長門へ回航できない事から第1戦隊は解体され、第1航空戦隊へ転属。燃料消費がしい空母戦艦の運用を実質断念し、その管轄を第2艦隊に委ねた。2月12日へ入港。3月13日、柱に停泊していた大和松山基地から飛来した第343航空隊の紫電改を敵機と誤認し、射撃している。

3月18日午前0時、敵機動部隊が三群に分かれて都井崎南東200里を北上中との情報が入る。午前4時50分、呉鎮守府全可動兵大和のもとへ集結させ、広島湾に駆逐艦涼月冬月浜風、樫が集った。3月19日午前6時30分、軍港襲が発生。広島湾にいた大和にも、高縄山を左回りに旋回してきた敵機48機が襲い掛かり、徳山沖で輪形を組んで対抗。攻撃は最も大きい大和に集中した。ヘルダイバー11機やヘルキャット15機と交戦し、3~4間隔で攻撃が行われる中、弾と機弾約1万5000発を発射。命中弾を許さなかった。しかし至近弾の方位盤防振装置に不具合が生じた。この戦闘で6機に命中弾を与え、1機を撃墜。

アメリカ軍沖縄上陸が確実視されたため、3月26日午前11時2分に大本営作戦を発。敵機動部隊を味方の航空攻撃圏内に誘引すべく佐世保への進出を命じられ、3月29日にて弾の補給を受ける。全弾最大まで装填された。次に徳山燃料へ回航、駆逐艦冬月から燃料を受け取った。17時30分、大和は第31戦隊や第2戦隊とともに出港。第1遊撃部隊が編制され、大和はその旗艦に据えられた。敵機動部隊九州南部及び奄美大島襲したため誘引の必要がくなり、佐世保回航も中止。で仮泊した後、駆逐艦に護衛されて徳山に戻った。4月2日午前10時三田湾に向けて出港。4月4日岩国基地から飛来した零戦3機が大和の上を旋回し、対射撃訓練に協

4月5日午前、連合艦隊・軍部の合同作戦会議で先任参謀が突然大和と第2戦隊からなる第1遊撃部隊沖縄へ突入させる案を提示した。参加者のほぼ全員が「成功の見込みはい」と考えたが、航空機による特攻作戦が行われている中で水上艦艇のみが座視している訳にはいかないとして認可された。そして13時59分、連合艦隊部より沖縄に上陸したアメリカ軍を撃滅するため、突入準備を下される。15時には正式な突入命が下った。大和には第2艦隊伊藤整一中将が座乗して旗艦となる。戦は戦艦大和、軽巡矢矧駆逐艦雪風浜風磯風冬月涼月朝霜、槙、榧の計12隻だった。当初燃料は2000トンしか集まらず、片にも足らない量だった。幸か不幸か、ヒ96団が奇跡的にへ到着し、重1300トン原油1万2000トンを入手。全艦が往復できるだけの燃料を手にした。17時30分、大和に着任したばかりの兵74期生や少尉補生73名が退艦。18時15分、駆逐艦が横付けして2回に分けて4000トンを送。30分後、に大発2隻を貸し出して魚雷の移送作業を手伝った。大和艦内で無礼講の送別会が行われた。第2副にはチョークで「総員死に方用意」と書かれていたという。

4月6日午前2時大和矢矧から退艦する少尉補生、傷病兵、高齢の乗員をざおでへ移乗。移乗した補生は大和の艦に向けて仰ぎ挙手の礼を行った。午前6時、徳山沖で第2戦隊と合流。13時駆逐艦の各艦長と参謀長が大和に参集。作戦会議と打ち合わせを行った。その後、二少将の発案で帝國海軍最後の出撃に際し、伝統の駆逐艦襲撃訓練を実施。15時20分、徳山沖を抜錨。生きては帰れぬ死出のに出た。大和を中心とする直径1000mの輪形を組み、速12ノットで豊後を南下。二式水上戦闘機2機や駆潜艇6隻、率いる第31戦隊が前路を担当する。16時10分、大和は第31戦隊、槙、榧に向けて「解列反転し、内地へ帰投せよ」と発信号を送る。第31戦隊鶴岡少将艦長東日出雄中佐は不の様子だったが、やがて左へ大きく旋回し、井に向かっていった。暗号解析によりアメリカ軍大和の出撃を知り、豊後に展開中の17隻の潜水艦に監視命を下した。

4月7日未明、大和から零式二座水上偵察機が発進し、対潜に当たらせる。午前6時に大峡を突破。第三警航行序列を組み、之字運動に入った。午前6時57分、駆逐艦朝霜機関不調を訴えて落午前8時23分頃、ヘルキャット大和を発見。通報を受けて慶良間諸からPBM飛行艇2機が飛び立った。午前8時40分には敵艦上機7機が出現したが、艦隊をぐるりと一周しただけで去っていった。午前10時14分、PBM飛行艇2機が第1遊撃部隊を触接。大和から三式弾が放たれたが命中せず、敵機は姿を消した。午前11時7分、大和の電探が100km先の敵大編隊を捕捉。対戦闘配置を取る。3分後、先ほどのPBM飛行艇が再度出現。午前11時35分には敵艦上機7機が確認された。正午頃、落した朝霜から「米軍機と交戦中」との通信が入ったが、間もなく途絶した。不穏な空気に包まれる中、午後12時20分に大和13号電探が敵編隊を探知。そして大和最後の戦いである坊ノ岬沖海戦が始まった。

坊ノ岬沖海戦

1945年4月7日午後12時32分、敵艦上機280機を確認。之字運動を止め、第1遊撃部隊は24ノットに増速。2分後、大和は46cmから三式弾を発射した。内懐に踏み込まれると、今度は全ての対が火を噴いた。対する米軍機は魚雷爆弾、機掃射で機群を潰そうとする。午後12時41分、後部に中爆弾2発が命中。多数の12.7cmや対が破壊された。その直後、更に2発の爆弾叩き込まれ、爆発炎上。後部副13号電探が全に破壊された。午後12時45分、5機編隊アベンジャーが低大和に接近。3本の魚雷が投下され、27ノットに増速して回避を試みるも左舷中央部に1本命中。2350トンの浸により艦は左舷へ5~6度傾斜し、第8機関室が使用不能に陥った。大和の反撃により1機のヘルダイバーと1機のアベンジャーが撃墜され、1機が大破した。直ちに右舷への注が行われ、1度にまで復元。続いてF4Uルセアからロケット弾攻撃を受けたが、命中せず。午後12時50分、第一次攻撃終了。駆逐艦浜風朝霜沈没軽巡矢矧が航行不能に陥っていた。13時大和は針路180度に変針して南下を始める。

13時20分、126機による第二次襲開始。大和は22ノットに速を上げるが、コルセアが投じた爆弾艦首付近に命中。続けざまに12機のヘルダイバー薄するも、対空砲火で5機に損傷を与えて撃退。13時33分、右60度4000mに20機のアベンジャーを発見。撃を予期して単独で左回頭する。その1分後、50度方向2000mから6本の跡が伸びてきた。大和の左舷に3本、右舷に1本が命中し、第7、第8、第12機関室、左舷外側機関室、左圧機室が浸。副が取りのままで故障、左舷へ15~16度傾斜して速18ノットに低下。すかさず右舷に3000トンの注を行い、5度まで復元。13時40分、230度右一斉回頭を実施。回頭中に4本の跡が伸びてきて、2本は回避できたが左舷中央に2本が直撃。その直後に右舷艦首方向から襲撃運動を取っているヘルダイバーを発見、左回頭しながら2機のヘルダイバーを撃墜した。やがて左舷への傾斜は18度に到達。それでも18ノットでの回避運動を続けた。14時、再び右舷艦首より接近する数機の敵機を発見。右回頭で回避を試みるも、左舷中央部に3発の中爆弾が命中した。右舷タンクが満になったため、やむなく第3及び第11機関室、右舷圧機室にも注した。アベンジャーの6機編成が大和に近づき、5機が左舷側から、1機が右舷側から撃。回避運動むなしく立て続けに3本が命中、速12ノットに低下。14時17分に左舷へ魚雷1本が命中、突如として左傾斜が増大した。もはやこれまでの判断した伊藤中将は幹部を艦に集め、冬月に移乗して生存者を救助するよう命。自身は長官室に入った。14時20分、左傾斜20度になった事で総員最上の号が下った。

4月7日14時23分、大和は転覆。傾斜120度になったところで副庫が引火。生じた爆炎により内の弾薬にも誘爆し、艦をっ二つにするほどの大爆発が発生。今際の煙は巨大なキノコになり、遠く離れた鹿児島からも視認出来たという。伊藤中将以下2498名が死亡。14時45分、駆逐艦冬月雪風等が救助活動を行ったが、助かったのは269名だけだった。坊ノ岬沖海戦で戦艦大和、軽巡矢矧駆逐艦浜風磯風朝霜沈没16時37分、連合艦隊作戦の中止を命。生き残った艦艇は退却した。

1945年8月31日、除籍。

諸元

工時のものと較用に最終状態のものを掲載。

工時 最終状態
基準排水量 64000t
満載排水量 72809t
排水量 69100t
全長 263m
全幅 38.9m
10.4m(試時)
装甲(最圧部) 650mm
天蓋270mm
舷側装甲410mm 

艦本式タービン4基4軸150000
ロ号艦本式重専焼12基
27kt
四十五口径九一式四十3連装3基9門
六十口径三年式十五3連装4基12門 六十口径三年式十五3連装2基6門
四十口径八九式十二糎七高角砲連装6基12門 四十口径八九式十二糎七高角砲連装12基24門
六式三連装二十五8基
十三連装機2基 
六式三連装機52基
同単装6基 
十三連装機2基 
艦載機 7機(カタパルト2基)

※実際は46cmだが、性を秘匿するため名称は40cmとなっている。

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戦艦大和

660 ななしのよっしん
2023/12/21(木) 01:10:35 ID: tV0/ZYV0/t
大和武蔵以降に作られた日本の正規空母大和武蔵以上にほとんど何もしてないと言うのが割と無視されている
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661 ななしのよっしん
2023/12/27(水) 20:27:31 ID: jSe2aH07tE
戦艦大和を作ったことの是非については、こことかでよく言われる「大和より空母航空機にカネをかけるべきだった」ってのの他に、「そもそも大和建造を決めた当時、そんなに海軍増強にカネをかける必要があったのか?」っていう疑問、批判もあるな。
まあその当時、巨大戦艦コスパのいい兵器になるはずだったんだろうけど。ただ「海軍兵器にカネをかけすぎでは?」というのは大和の話から大分ずれた話になっちゃうか?
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662 ななしのよっしん
2023/12/28(木) 15:36:03 ID: SAHt9eTWj9
飛行機かった大戦後期の空母と違って大和級は装も完成していたのに戦わなかった分、余計たちが悪い
それだけ使い辛い艦だったのだろうが
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663 ななしのよっしん
2023/12/28(木) 16:01:11 ID: dQL2EAVOAQ
大和は艦隊決戦時の中核戦だったから万が一にでも沈めるわけにはいかなかった。
対して東奔西走していた金剛は、日本海軍戦艦の中では最も旧式で別に沈んでも艦隊決戦なしと考えられていた
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664 ななしのよっしん
2023/12/31(日) 23:48:28 ID: bsNlyLvs9y
>>662
1隻や2隻沈もうが替えが幾らでも効くサウスダコタキングジョージ5世と違って1隻が長期ドック入りするだけで戦艦ガタ落ちだからな
まあ英みたいに新戦艦ポンポン作れるならこんな個艦特化の戦艦なんて不要だけど
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665 ななしのよっしん
2024/01/04(木) 07:10:08 ID: 4D3Wey1W3u
>>663
それよりも「空母について行けるのは高速戦艦だけ」という思い込みが原因だったと思うがどうだろう
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666 ななしのよっしん
2024/01/04(木) 22:52:00 ID: bsNlyLvs9y
>>665
空母の護衛させるだけなら戦艦つけるよりも駆逐艦巡洋艦に燃料割り振った方がかに合理的だし、大和マリアで第三航空戦隊空母を護衛してたぞ(一方アメリカアイオワ級空母の護衛から外して戦艦部隊に一めにしてた)
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667 ななしのよっしん
2024/01/05(金) 12:34:39 ID: SAHt9eTWj9
ゴジラマイナス1945年4月以前が舞台なら、大和ゴジラ対決も実現したのに
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668 ななしのよっしん
2024/02/21(水) 07:12:55 ID: i0zgDfs24A
>>667
当時の日本に更にゴジラ対処とか…
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669 ななしのよっしん
2024/02/21(水) 07:54:53 ID: SAHt9eTWj9
>>668
それを言ったらマイナスの時代は終戦からたった2年後の1947年日本がもっともジリ貧の頃だ
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