戦艦朝日とは、大日本帝國海軍が運用した敷島型戦艦2番艦である。1900年7月31日竣工。日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、大東亜戦争に参加し、自身は老朽艦になりつつも工作艦へ転身するなど奇怪な運命を辿った。1942年5月25日、カムラン湾近海で戦没。
概要
仮想敵ロシアとの戦争を見越して軍備増強に力を入れていた大日本帝國。富士型戦艦の完成により近代的な戦艦を手に入れる事には成功したが、ロシア海軍と比べるとまだ力不足であった。そこで海軍は戦艦6隻と巡洋艦6隻を増備する六六艦隊計画を始動し、第一期拡張計画で敷島型戦艦1番艦敷島を、第二期拡張計画で2番艦朝日、3番艦初瀬、4番艦三笠の建造する事にした。設計自体は前級の富士型、イギリスのフォーミダブル級戦艦に準じているが、急速に発達する建艦技術をふんだんに取り入れ、装甲板にニッケル合金を使用。これにより富士型より半分の装甲しかないにも関わらず富士型以上の防御力を獲得した。水密区画の数も261から288に増加し、浸水に対する防御力が向上。しかし全幅の増加に伴ってスエズ運河を通過できなくなってしまった。建造費は日清戦争で清国から得た賠償金で賄われている。計画より燃料消費量が多い欠点を抱えていたものの、後に改善された。
要目は排水量1万5200トン、石炭搭載量1549トン、全長129.6m、全幅22.9m、出力1万5000馬力、最大速力18ノット、乗員836名。兵装は40口径30.5cm連装砲2門、40口径15.2cm単装砲14基、7.6cm単装砲20基、47mm単装機銃12基、45cm魚雷発射管5基。工作艦時代は排水量1万1441トン、全幅22.94m、速力12ノット、石炭搭載量1722トン、乗員286名。武装として8cm単装高角砲2門と13mm機銃2基を装備。
艦歴
1897年に策定された第2期海軍拡張計画にて、第2号甲鉄戦艦の仮称で建造が決定。同年8月1日、ジョン・ブラウン社のクライドバンク造船所で起工。10月18日に軍艦朝日と命名される。1899年3月13日に進水式を迎える。1900年3月1日、サウスシー海岸で公試運転中に座礁事故を起こし、急遽ポーツマスで入渠修理を受ける。この修理により竣工が3ヵ月遅れたという。4月12日に日本側が代金を支払い、7月31日に竣工。日本人回航員によってポーツマスを出発し、10月23日に横須賀へ入港した。1901年3月22日に常備艦隊に編入され、4月9日に酒保の設置工事を受ける。6月12日、姉妹艦敷島とともに佐世保へ回航され、6月18日から29日まで佐世保鎮守府と合同訓練を実施。
1904年2月6日、日露戦争が勃発。朝日は山田彦八大佐率いる第1艦隊第1戦隊に伍した。2月9日、満州南部のポートーアーサーに停泊中のロシア艦隊を奇襲したポートアーサーの戦いに参加。激しい砲撃戦により両軍の多くの艦船が被弾したが、朝日は無傷で済んだ。第一次旅順閉塞作戦に参加するも、2月27日に広瀬水雷長と杉野孫七上等兵曹が戦死する被害を受ける。8月10日、黄海海戦に参加。ウラジオストクから出撃してきたロシア艦隊を迎撃するため、17時43分に砲撃戦を開始。旗艦三笠、朝日、富士、敷島は6隻のロシア戦艦と交戦する。朝日は三笠に次ぐ第二目標としてロシア艦隊から集中砲火を浴び、命中弾1発を受けて乗組員2名が負傷。その後、朝日は戦艦ポルタヴァとツェサレヴィッチに火砲を集中させる。日没前にロシア艦隊の旗艦ツァレヴィッチが2発の命中弾を受け、ヴィトゲフト中将や参謀将校2名、艦長を含む艦橋の要員が死亡。これを機にロシア艦隊は混乱に陥り、ウラジオストクに退却。敵艦隊を後退させた日本艦隊は母港へ帰投した。10月26日、ポートアーサーの海上封鎖任務中にロシア軍が敷設した機雷に触れて大破。11月から1905年4月まで佐世保工廠で修理を受ける。
1905年5月27日に日本海海戦に参加。戦闘当初、ロシア艦隊は三笠に砲火を集中させたため朝日は攻撃を受けなかった。戦闘も終わりに差し掛かった頃、戦艦富士とともに敵戦艦ポロジノ、オリョールと交戦。朝日はどの艦よりも多く30cm砲弾(142発)を発射したが、ロシア艦隊からの反撃で砲弾6発を喰らって乗員8名が死亡、23名が負傷した。しかし海戦自体は日本艦隊の快勝であり、ロシア艦隊は56隻中34隻を喪失。4830名が戦死し、5917名が捕虜となった。9月5日、日露戦争終結。10月23日に横浜沖で行われた観艦式に参列して臣民に威容を見せた。
1907年11月、煙突頂部を黒く塗装する。1908年9月25日、伊勢湾で検定射撃中に三番8cm砲が早発し、死者4名と負傷者7名を出す。1909年12月13日から翌年6月30日まで横須賀工廠で機関部の改造工事を受ける。1912年、駆逐艦の航続距離不足を補う目的で駆逐艦皐月等とともに被曳航実験に参加。1916年7月から1917年3月まで横須賀工廠で船体を修理。1918年11月2日から翌年3月10日にかけての工事で8cm砲2門を8cm高角砲に換装。1921年9月、一等海防艦に類別変更。1923年4月1日に練習特務艦へ格下げとなり、翌年締結されたワシントン海軍軍縮条約に基づいて兵装と装甲を撤去した。この頃、呂31と呂25が立て続けに事故を起こした事から潜水艦専用の救難艦が必要となり、朝日に白羽の矢が立てられた。
1925年より1928年にかけて横須賀工廠で改装工事を受け、船体両舷4ヵ所にブラケットと釣瓶式潜水艦引き揚げ装置を持った日本初の潜水艦救難艦となる(類別は練習特務艦のまま)。海底に沈没した要救助艦にワイヤーを通し、もう片方に廃艦を用意して注水で重みを増す事で天秤のように要救助艦を引き上げるのである。実験結果は「おおむね良好」とされた。また25基のベルビール機関を4基の艦本式機関に換装するなど近代化改装も並行して行われた。1928年2月10日より前甲板に圧縮空気式カタパルトを設置し、広島湾で一五式水上偵察機の発艦試験を実施して見事成功を収める。しかしその後のテストで事故が多発したため、圧縮空式を廃して火薬推進カタパルトに変更された。
幸か不幸か潜水艦の事故はパッタリと無くなり、同時に潜水艦の大型化で釣瓶式が通用しなくなってきた事から1937年5月31日、潜水艦救難装置の撤去が決定。7月7日、支那事変が勃発。当時帝國海軍は予算の都合で工作艦を持っておらず、中国国民党軍との戦闘で大小の損害が発生する事が予想された。このため8月1日に朝日の艦種を工作艦へ変更。8月13日には第二次上海事変が勃発して戦闘が激化する事態に陥り、一刻も早い改装が求められた。8月15日から呉工廠で釣瓶式潜水艦引き揚げ装置を撤去し、応急排水が可能な修理施設と注排水装置を搭載。更に工作室や器材運搬用デリックを設置する突貫工事で急ごしらえの工作艦に仕立て上げた。8月18日に改装完了し、即日出港。8月20日に上海へ入港したあと呉淞沖に派遣されて黄浦江で損傷艦艇の修理に従事。工作艦である事が中国国民党軍に露呈しないよう、艦内工作部で造った木製の偽砲を一番砲塔跡地に装備した。9月2日13時5分、最初のお客さんである駆逐艦夕立が横付け。翌3日18時20分に横付けを離したが、入れ替わる形で今度は駆逐艦五月雨がやってきた。急場凌ぎのため工作艦としては低い修理能力だったが、戦線維持に多大な貢献をした。支那事変の勃発と朝日が実証した工作艦の有用性により、明石が建造される事となる。11月2日朝、上海の後方地域である杭州に上陸させる陸軍の船団を護衛して出港。11月5日午前6時15分、濃霧の中で杭州への上陸が始まった。翌6日、「日軍百万杭州北岸上陸」と書かれたアドバルーンが掲げられ、上海の国民党軍が士気を阻喪。第二次上海事変の勝利を決定づけた。11月11日から翌12日にかけて、国民党軍が黄浦江に閉塞船として沈めたジャンクや汽船の撤去と水路啓開作戦に従事。1938年5月、江南造船所の依頼で長江江陰沿岸に擱座放棄されていた中華民国の軽巡洋艦寧海を浮揚して上海まで回航する。
1939年8月4日に雑役船立神を、8月6日に国民党軍から鹵獲した交通船飛鳥(元砲艦永建)を修理。11月15日、上海方面根拠地隊旗艦に就任。陸上に庁舎が出来るまで旗艦任務を務めた。1940年5月29日から11月7日まで上海方面で警備任務に従事した後、上海を出発して内地に帰還。11月15日、連合艦隊に編入。1941年1月9日午前10時、佐伯湾で伊70潜に横付けして網切器を修理。9時間の修理を経て、伊70潜は離れていった。7月28日、援蒋ルート遮断の目的で南部インドシナ進駐に参加。11月19日に第11特別根拠地隊を乗せて呉を出港。11月28日に前進拠点の海南島三亜港へ到着した。12月5日に出港し、12月7日にカムラン湾に入港。防材の設置作業を行った。
大東亜戦争開戦後の12月16日、特設運送船の廣徳丸と日國丸が横付けし、救難用機材、特型運貨船1隻、救援要員19名を受領。1942年1月4日、廣徳丸から弾薬の補給を受ける。1月14日、第3水雷戦隊から予備魚雷の弾頭60個を1日だけ保管。1月28日午前11時50分、廣徳丸が横付けして鉄板及び酒保物品、清水60トンの補給を受ける。1月31日、特設運送船萬光丸が右舷に横付けし、三号塊炭45トンを積載。2月11日から14日にかけて第35号哨戒艇から発信不良の九三式特受信機2台を受け取って修理。3月9日にカムランを出港し、3月13日にシンガポールへ到着。3月14日から16日まで第35号哨戒艇の12cm双眼鏡レンズを修理する。4月12日、クリスマス島攻略作戦中に雷撃を受けて大破した軽巡洋艦那珂を応急修理。給油艦鶴見の応急修理も行った。現地の第101海軍工作部と協同だったため、順調に作業が進んだという。
最期
1942年5月22日、朝日は自身の修理と材料を補充するため、第9号駆潜艇を護衛にシンガポールを出港。超老朽艦の朝日は8ノット程度の速力しか出せず、艦首に速力を誤認させる目的で白波の迷彩塗装が施されていた。危険な沿岸航路を避けて南シナ海中央を突っ切る航路を選択していたが、大型かつ超低速なのが祟って敵潜水艦の格好の標的とされてしまった。
5月25日夜、米潜水艦サーモンは夕張型軽巡洋艦(朝日の誤認)を発見して潜航。23時27分、カムラン湾南東にて4本の魚雷が放たれ、そのうち2本の魚雷が左舷中央機関室と後部水雷室に直撃。主機と発電機が停止して航行不能に陥る。23時32分から6分間に渡って高角砲、40mm機銃、12cm機銃が火を噴いたが、効果は不明だった。朝日の船体は急速に傾斜しており、翌26日午前0時39分に第1カッターと通船が下ろされた。午前0時41分に軍艦旗降下。午前0時49分、左舷への傾斜が30度に達したため総員退艦が発令。そして午前1時3分に沈没してしまった。乗員16名が戦死し、582名が第9号駆潜艇に救助された。
1942年6月15日、除籍。戦後の1985年5月2日、広島県呉市内の長迫公園で特設工作艦山彦丸、山霜丸との合同慰霊碑が建立された。
関連動画
関連項目
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