戸田勝隆(とだかつたか)(? - 1594年12月4日)は、戦国時代・安土桃山時代の武将・大名。
弟の戸田勝成とともに、秀吉に仕えた勇将として知られている。『武家事紀』に言う羽柴四天王の一人。
三河の戸田氏(江戸時代に譜代大名や旗本、各藩藩士として多くの分家が栄えた一族)と関係があるかどうかは不明。
概要
羽柴秀吉の旧くからの重臣で、黄母衣衆として仕えた。
江戸時代の『武家事紀』によれば、初期の重臣の中では神子田正治、宮田光次、尾藤知宣と並んで「これを越える勇功の士あらず」とされ、秀吉家臣団の中でも特に高名であった。
「これを越える勇功の士あらず」
天正元年(1573年)、近江長浜で250貫文を
天正5年(1577年)に秀吉が播磨姫路城主となった際には、5000石に加増されている。
その後も、小牧・長久手の戦い、四国攻め、小田原の役など各地に転戦して軍功を挙げていたらしい。
また、軍功のみならず近江の検地奉行も務め、千利休や津田宗及主催の茶会にも名を連ねている。
四国平定後は、天正15年(1587年)に伊予大州7万石を領し、旧領主の西園寺公広を自邸で謀殺している。
文禄・慶長の役に際しては、兵4000を率いて朝鮮へ渡海。尚州の守備についた。
翌年、巨済島に滞留して講和交渉に当たるが、帰国中に病没。
息子に対して
息子がいたが、ある時刃を誤って自らを傷つけて死んでしまった。
放鷹に出かけていて訃報を聞いた勝隆は、
「己が刃にて過ちて死するほどの気質にては、益に立つ器にあらず、見るに及ばず」
と言ってそのまま放鷹を続けたという。その後子はなく、大洲戸田家は断絶した。
関連項目
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