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この記事は第399回の今週のオススメ記事に選ばれました! よりニコニコできるような記事に編集していきましょう。 |
手塚治虫(てづかおさむ)とは、漫画の神様である。本名、手塚治。
日本がアニメ、漫画大国として海外に知られるようになった原因の偉大すぎる巨星。
概要
1928年(昭和3年)11月3日~1989年(平成元年)2月9日 享年60、胃がん。
手塚治虫を漫画家への道に進ませたのは、長編アニメ映画「桃太郎 海の神兵」である。1945年4月12日、勤労動員の休日を利用して大阪松竹座に赴いた彼は映画を見て、涙を流すほど感動。「一生に一本だけでもいい。どんなに苦労したって、俺の漫画映画を作って、この感激を子供たちに伝えてやる」と漫画家になる決心をした。つまりこの映画が無ければ、漫画の神様は誕生しなかった訳である。
漫画の神様
手塚治虫がいなかったら、今日の日本のマンガ文化、アニメ文化は間違いなく存在しなかった。
マンガの神様であると同時に日本初の連続TVアニメの作者、日本初のカラーTVアニメの作者でもある。
彼が生み出した漫画の表現技法の多くは現在でも使われている。
偉業
- 日本のストーリー漫画の開祖として知られる。
- 日本漫画で初めて徒弟制度的日本独自のアシスタント制度を作る。
- 日本初の1話30分の連続TVアニメを作った人物。
- マンガが右綴じで4段のコマ割でさまざまな角度から絵が展開するという基礎を作り上げた。
- 睡眠時間は一日、3~4時間。全盛期は一週間寝ずに仕事もすることもあった。
- 静まりかえった様子を表す「シーン」という文章表現を、描き文字として漫画に取り入れることを始めたのは手塚。(本人談)
- 第二次世界大戦中にもこっそり漫画を描きまくった。
- 手塚のアシスタント経験者に藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、横山光輝、松本零士が存在する。手塚治虫は地球上で一番豪華なアシスタントを使った男だと思われる。
- 週刊少年ジャンプ・週刊少年サンデー・週刊少年マガジン・週刊少年チャンピオンの全てに連載経験がある。
- 「もう手塚は過去の人」と言われた時も持ち込みを続け、超大ヒット作を出して人気漫画家として復活する。(読者が忘れた頃に何度かヒット作を繰り出してくる)
- 胃癌になっても病院のベッドで3本の漫画を描き続けた。胃癌中に漫画をただ描いたのではなく普通に連載をしていた。
手塚治虫の先駆けたこと
- ロボットが戦うバトル漫画の先駆け(鉄腕アトム)
- 男装少女の先駆け(リボンの騎士)
- 男の娘の先駆け(七色いんこ)
- 大人だけど体が幼女の先駆け(ブラック・ジャック)
- 幼女だけど体が大人の先駆け(ふしぎなメルモ)
- ネコ耳の先駆け(リボンの騎士、七色いんこ他)
- ボクっ娘の先駆け(リボンの騎士、三つ目がとおる)
- ケモノ・ケモナーの先駆け(W3、シャミー1000)
- ビーストラブ&ビーストホモの先駆け(七色いんこ)
- ロボッ娘の先駆け(ピイ子)
- ツンデレの先駆け(そよかぜさん他)
- 男の子でも女の子でもない第三の萌えの先駆け(人間ども集まれ)
- 医者漫画の先駆け(ブラック・ジャック)
- 全裸の幼女が主人公の先駆け(低俗天使)
- 近親相姦漫画の先駆け(奇子)
- 主人公が男の子だと思っていたら後で女の子だと分かったの先駆け(どろろ)
- 女の子の猫口(ω ←これ)の開発(ピノコ等)
- 萌え要素としてのアホ毛を一番はじめに行う。(低俗天使、アラバスター、メルモ)
- 現在はよくある女の子の右目や左目の下あたりに///の斜線を引いてこのキャラはかわいいですよという記号を作る。(目とほっぺの中間ぐらいに付ける可愛らしさを出す記号。)
手塚治虫の漫画の内容
一口に「手塚治虫の漫画」と言っても以下は全く異なる内容である。
「手塚治虫はかわいい絵を描く漫画家だ」ぐらいしか知識の無い子供達が「奇子」や「きりひと讃歌」「鳥人大系」「火の鳥」あたりを読んでしまうとあまりのショックで1週間ぐらいご飯が食べられなくなる場合がある。
1940年代の手塚治虫の漫画と1980年代の手塚治虫の漫画では別人かと思うほど作風が異なる。
特に「人間ども集まれ」や「上を下へのジレッタ」は手塚ファンですら手塚作品だと気付かないぐらい作風を変えている。
実は「手塚治虫=かわいい絵の漫画」という印象は全体から見ると一部でしかない。
手塚治虫のどこが凄いか
手塚治虫の凄い所は「漫画ってこんなに面白いんだよ」「漫画ってこんなに凄いこともできるんだよ」と死ぬまで書き続けたことである。多くの人間は「漫画ってこんなこともできるのか!」と驚き後に続いた。
7歳ごろから漫画を書き続け60歳でその生涯を終えるまでほぼ漫画漬けの人生を送る。
手塚治虫は生涯で15万枚以上漫画を描いたが、これは単純計算で1日に7ページずつ描いても60年かかる計算である。(手塚治虫は60歳で亡くなっているためもっと多くのページを1日で描いている。赤ちゃんから漫画は描けないので。)
年末進行や正月号の締切りが重なり、最も忙しい時は月に600ページを仕上げた。(おおよそヤングキングアワーズ一冊分、週刊少年ジャンプ1冊半、月刊少年ガンガンの半分)
しかも、どの連載作品もジャンルかぶりはほぼナシ。(いまでいうところコナンとフェアリーテイルとドラえもんとカイジを同時に同じ作者が連載していたようなもの、とでも言えばいいだろうか?)
切羽詰ると大人げなくキレる事も有ったが、非常に面倒見がよく頻繁にアシスタントに映画+飯代を渡したり、虫プロの制作進行が演劇に転身後、手塚治虫は劇団の広告に協力したり毎月現金を仕送りしていた。
手塚治虫の代表作
一般的には「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などが有名であり、これは子供達に安心して読ませることができる。鉄腕アトムは日本初の連続TVアニメにもなり、ジャングル大帝は日本初のカラーTVアニメになった。リボンの騎士は日本初の少女漫画である。多くの日本の子供達に夢と希望を与えた。
「W3」は漫画史上初めての仕掛けを漫画に仕込み、当時の子供を驚愕させた。
ちょっと大人向けの名作には「ブラック・ジャック」「ブッダ」「火の鳥」などが有名である。この3つは手塚治虫の最高傑作として名を上げられることが多い。これは人生とは何か、人はなぜ死ぬのかなど深く考えさせられる。「火の鳥」は一生に一度ぐらいは読んでおけと言われるほど。「ブラック・ジャック」は医者を題材にして人間の死と向き合う話。「ブッダ」は読んだ人がみんな悟れると言われる。「アドルフに告ぐ」はユダヤ人を殺したヒトラーは実はユダヤ人であったという作品であり歴史に興味がある人にとっては面白い内容になっている。「陽だまりの樹」は江戸時代を題材とした話で面白い、事前知識無しで読むと最後の1コマで驚きの内容が明かされる。「ばるぼら」も文学作品のように人間が没落していく様子を描き評価が高い。
「人間ども集まれ」「上を下へのジレッタ」も手塚治虫が描いたとは思えない絵柄・内容・作風で面白い。
「手塚治虫の漫画はたくさん出ていてどれから読めばいいのか分からない」と言う人や「忙しくて時間が無い」と言う人は「ミッドナイト」「ブラック・ジャック」「七色いんこ」あたりがオススメである。一話の中に『起・承・転・結』と『喜・怒・哀・楽』が必ず盛り込まれていて短いページ数ながら濃厚な仕上がりで、しかも一話完結でどの巻から読んでもいいので時間が無い時もピッタリ。「ミッドナイト」はブラック・ジャックの続編に当たるような作品、舞台はタクシードライバーの話であるがブラック・ジャックも登場し濃厚な作品になっている(これが最後の少年漫画かつ、完結成功にこぎつけた最後の連載作品でもある)。「七色いんこ」は宝塚出身でもある手塚の大好物であった演劇をテーマにしており、これだけでも結構劇の知識が入手できる。ギャグ漫画では「ドン・ドラキュラ」も面白い。
短編作品では「ゴッドファーザーの息子」も手塚の半自伝的要素を含みオススメである。
手塚治虫作品には名作と呼ばれながらも子供達に読ませられないような作品もある。「奇子」は4歳から27歳まで女の子が土蔵に閉じ込められそこで近親相姦も受けるという悲痛な生涯を描いたもので読む人に衝撃を与える。また「きりひと讃歌」は人間天ぷらで衝撃を与える。「空気の底」なども短編ながら子供達に読ませるとショックを受けるかもしれない。「人間昆虫記」は読むと人間不信になる。「鳥人大系」は人類バーベキューで一生の心の傷になるかも知れない。
- 上記以外
手塚治虫の漫画は「手塚治虫はこういう漫画を描く」という定義付けができないため、興味がある人はいろいろ試して読んでみるといいかもしれない。子供がいる人はうっかり自分の子供に手塚治虫を読ませてしまうと子供の人生を180度変えてしまうかもしれない。
あまり知られていないが手塚治虫のデビューは4コマ漫画家としてである。そのため手塚治虫は4コマ漫画も非常に得意としている。たった4コマの中にも「喜・怒・哀・楽」、「起・承・転・結」を投入するのを得意とし、それが短編漫画の上手さや長編漫画の上手さに生かされている。デビュー作「マァチャンの日記帳」は60年以上経過した現在でも十分楽しめる。
手塚治虫のおちゃめさん
手塚治虫はおちゃめな部分もっておりそれを以下に紹介する。
- 漫画の中で「この漫画に作者などいらない」とか言わせて自分を殺しちゃう。(じゃあ一体誰が描いてんだ?)
- 完成度を上げるために締め切り直前に一から書き直しちゃって編集者がぶち切れちゃう。しかし名作と言われちゃう。
- 締め切り前に編集者にないしょで逃げ出して担当編集者に手塚ウソ虫とあだ名を付けられちゃう。
- 編集者が手塚先生は仕事をしていると思っていたらテレビの生放送に出ていた。編集者激怒しちゃう。
- 仕事が少なくてスケジュールに余裕がある時でも結局は完成度を上げるために締め切りギリギリまでねばっちゃう。付いたあだ名は手塚おそ虫。
- 第二次世界大戦中に爆撃が行われている最中にも死に物狂いで漫画を描いちゃう。
- 第二次世界大戦が終わった時には何よりまっ先に漫画が描けることに大喜びしちゃう。
- 婚約者(後の妻)とのデートの最中に睡眠不足ゆえに爆睡しちゃう。でも奥さん惚れちゃう。
- プロポーズの言葉は「すごい生活のボクですが、お嫁に来てくれますか?」だった。事実本当に凄かった。
- 締め切りに追われて自分の結婚式の最中まで仕事をしちゃって1時間半も結婚式に遅れちゃう。(結婚式の控え室でアシスタントと一緒に仕事をしていた。)
- 妻と一緒に過ごした時間は合計で1年未満と言われちゃう。でも奥さんは納得してちゃう。
- そのあまりの多忙に、知人から「よくお子さんを三人も作る時間がありましたね」と言われたところ、「あんなの五分あればできますよ」なんて言っちゃう。
- 漫画の新人賞の審査委員長なのに、「ボクは自分の原稿を応募したいんですよ」とか言っちゃう。
- しかも正々堂々と新人と戦って賞をとっちゃう。
- 大御所漫画家同士で「漫画の話を考えるのは大変だよね」という話をしていて、何か手塚治虫と他の漫画家と話が食い違うと思ったら、他の漫画家が「話のアイデアを生み出すのが大変」という事なのに対して、手塚治虫は「ことあるごとに思いつきすぎるアイデアをチョイスするのが大変」ということだったりしちゃう。
- キューブリック監督に2001年宇宙の旅にSFデザインで参加を要請されるも連載有るからと言って断っちゃう。
- 24時間テレビ用アニメ制作の際、そのままOKをだしても間に合うかギリギリという位に期限が押しているのにリテイクを出しまくっちゃう。しかも放送終了したのに完成度に満足できていないので作品を作るのを続けちゃう。
(当時はビデオ販売などもろくに無い時代なので完成版を公開する目処すら無いのに) - 漫画で雑誌掲載分をそのまま単行本にすることはほぼ無い。大抵どっかしら加筆したりページを削ったりといった作業が入る。大滝詠一のナイアガラ作品と一緒で「手塚作品に同じものはない」とも。このページを書き直したこと自体を漫画でキャラクターに説明させちゃったりもしちゃう。気に入らない部分はページ全部丸ごと書き直しとかしちゃう。(このことが後年の復刻を複雑化させている遠因でもあるが・・・)
- アシスタントに給料をあげる際に「必ず映画を見るんだよ」と言って毎回、余分に千円をあげちゃう。(昭和中期の価値では映画館代300円 大衆食堂の定食 50円の頃。)アシスタントいつも喜んで映画見ちゃう。
- あれだけ締め切りの事でひどい目にあったはずの編集者達が手塚治虫が死んだあとに「手塚治虫の事がやっぱり好きだった」と語っちゃう。
- 虫プロ時代の手塚の(経営者としての)ドンブリ勘定ぶりに「むかっ腹立ってました」と語っていた富野喜幸が、そのインタビュー中必ず手塚治虫を語るときは「先生」と呼んでいた。そしてかつての自分が愛読していた手塚漫画を見せられると「たまりませんなあ!これがいいのよ!」と目を輝かせる。
- ディズニーアニメの漫画を無許可で描いて無許可で出版しちゃった。(いちおう今は復刻済み)
- アシスタントは愚か、出版社の編集複数人にまでアシスタント作業をやらせちゃう。
- 海外で海賊版が流通していると発覚した際、差し止めも裁判も起こさず「なら本物を現地語で出しちゃおうよ!」と本当に出版しちゃった。(これにより日本の漫画、アニメの海賊版は許されるという舐めきった構造ができてしまったことも事実である)
- 諸説あるが、現在まで続く「アニメ=低予算」「アニメーター=薄給」の構造を作ってしまったことに手塚治虫が無関係とは言えないのは事実である。
- 立ち上げた会社を二回も潰しちゃってる。
- 結構エッチなイラストも好んで描いていた(死後にいくつかが公開されている)。
- 上記の通り、作家、漫画家としては天才であったが職業漫画家としては褒められたものではなく、経営者としては最悪の部類に入る。
昆虫への熱意
手塚治虫は幼少時、典型的な昆虫少年でもあり、日本のファーブルとしての片鱗も見せていた。その経験は医学知識と並んで自身の作品にも活かされており、「人間昆虫記」なんていうまんまなタイトル以外でも、手塚作品での昆虫登場頻度はヒョウタンツギもビックリなほどである。
- 中学時代、昆虫研究会「六稜昆蟲研究会」を立ち上げ、捕虫毒ビンを常時持ち歩いては標本を作り、それを自らスケッチしては手製図鑑を自作するなど、絵の才能はこの頃から遺憾なく発揮されていた。彼の小中時代の昆虫のスケッチ絵を見ると、既に大人顔負けの完成度である。
- タテハチョウやヒョウモンチョウなどの翅色である「茶色に近いくすんだ赤」の色が絵の具では上手く再現できないと言って色々研究を重ねた挙句、自分の指を切って出た血で翅の色を塗り「ようやく思い通りの色合いが出た」と満足していたという。色彩感覚や絵の精密さへのこだわりは、思春期にして既にマジキチの領域に入っている。
- 特に好きな昆虫は、甲虫の「オサムシ」の仲間。あまりに好きすぎて、この頃から本名の「手塚治」の後ろに蟲の漢字をくっつけて、「治蟲(おさむし)」というペンネームを名乗っていたのが手塚治虫という名の原型である。
- 遺したスケッチの数が多すぎて、それを特集するだけで本が数冊出来てしまう有り様である。
誤解
手塚治虫には誤解された話も多い。
- 締め切りギリギリまで粘って完成度を上げたらわずかに間に合わなくて、キレた編集長に出来上がったばかりの原稿を目の前で破かれたという話。
→これは実はそんな事は一切無く、元アシスタントで漫画家の古谷三敏は自身の漫画の中で明確に否定している。 実際には原稿は破かれて無かったので次の週に使われている。原稿を投げた話が破かれたと面白おかしく脚色されたもの。「ブラックジャック創作秘話」において雑誌掲載分としてこのエピソードも漫画化されているが、そのため単行本には未収録となった。 - 大友克洋に手塚治虫が嫉妬して「あなたのような漫画は私も描けますよ」と言って絵をプレゼントしたというもの。
→実際は手塚の大ファンだった大友に対して手塚がファンサービスで大友タッチの絵でサイン色紙を描いただけ。「大友くんの絵をサインに描くよ」と言ったのが正しい。(同様に手塚は弟子である藤子不二雄の記念式に「ドラえもんを真似して描いたよ」とドラえもんを描いた絵もプレゼントしたことがある。) ちなみに大友が漫画家になったきっかけは手塚にあり手塚の雑誌COMの常連投稿者だった。また大友の代表作の「AKIRA」の最終巻の最後のページには『この作品を手塚先生に捧げる』と書かれている。その他に大友克洋は手塚の映画化作品である「メトロポリス」に自ら携わったりしている。原作:手塚治虫、脚本:大友克洋のメトロポリスは結構オススメである。
子供の為の漫画≠幼稚な漫画
手塚の凄い部分は「子供は子供漫画」「子供向け漫画は幼稚な漫画」という概念を作らなかった部分である。
鉄腕アトムでは子供に夢を与えながら「ロボットと人間は一体何が違うのか」などを子供達に問いかけ、「ジャングル大帝」では「動物と人間は一体何が違うのか」などを子供達に問いかける。
鉄腕アトムはあまり知られていないが「交通事故で死んだ子供の代わりにアトムが作られたが、アトムはロボットであり子供の代わりにはならなかったため捨てられてしまう」という重い物語である。
また、手塚治虫は日本で最初に主人公が死亡するという内容を「ロック冒険記」で描いた。手塚治虫の描く漫画には哲学的要素をこれでもかと投入するので子供達も深く何かを考えさせられる。子供達にトラウマを与えるような作品も多い。それが日本の漫画界にとてつもない影響を与えた。
日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」は最高視聴率が40%を超える怪物番組であったが、最終回はアトムが地球を守るために太陽に突っ込むという内容で日本中の子供たちから「アトム死んじゃいや!」「アトムを殺さないで!!」でとテレビ局や虫プロダクションの元にハガキや電話が殺到した。(漫画版ではさらにそれの100倍以上の衝撃的な結末であるが)
また手塚治虫が書いた日本初の少女漫画(正確には日本初のストーリー少女漫画)である「リボンの騎士」は主人公が日本初のボクっ娘であり、日本初の男装少女であり、日本初の王子様かつ王女様であるという相当ぶっ飛んだ内容であった。 手塚治虫はこういった現代でもオタク心をくすぐるような作品を多く生み出した。
漫画「やまなし」という短編作品では、上半分と下半分で別れた漫画という斬新な技法を使う。上半分と下半分ではほぼ同じ構成・構図・ストーリーであるが、はじめに上半分だけ読んだ後、1ページ目に戻り下半分だけ読むと内容がほぼ同じなのにほのぼのとした内容が悲劇的な物語に急変するという誰も真似していない(真似できない?)漫画を描いてもいる。
「そこに指が」という短編作品では、登場人物は全て二次元の世界の住人で、もしかして三次元の世界にも人間が存在するんじゃないかと疑問を持つようになる。途中で三次元の世界の人間についてアレコレ語った後に、ラストは三次元の世界の巨大な指に出くわし驚愕するという内容であるが、その巨大な指の正体は『読者の本を持つ指』であったというオチ。手塚はこのような奇抜な発想の作品も沢山描いている。
最終作にして最高傑作
手塚治虫が最後に関わった漫画は「グリンゴ」「ルードウィヒ・B」「ネオファウスト」である。
手塚作品は手塚が死ぬ直前まで成長しており、上記の3作品は同時期に連載していたにも関わらず全く違う作風である。「グリンゴ」は枠線すらフリーハンドで描くという大胆な表現を使う。内容は手塚治虫の大人向け漫画を代表するようなもの。「ルードウィヒ・B」は若い頃の手塚治虫の絵を意識しており、登場人物の目が大きく柔らかい絵で描かれていてこれまでの手塚治虫の少年向け漫画を代表するような作品。「ネオ・ファウスト」は今までに無いほど繊細かつ丁寧に描かれていて手塚作品の全体のテーマ「生と死」について書かれている。さらにこれは第一部の第一話がそのまま最終話に繋がるという非常に練られた秀逸な伏線が張られている。どの作品も未完のまま終わった。最後に描かれた原稿は書きなぐりのような状態であった。
最期
手塚治虫は胃癌の最中に病院のベットでも漫画を描きつづけ凄まじい最期を遂げる。
もう普通なら漫画なんて描ける状態ではないのに手塚は漫画を描くのを止めなかった。
手塚は医師免許を持っていたため、担当医の言うことは聞かず病室で描き続けた。手塚は有名な自画像の絵とは比べ物にならないくらい痩せ細り、骨と皮だけのような状態でも描き続けた。
手が動かなくなっても痛み止めのモルヒネを打って描き続けた。 奥さんは「もういいんです!」と泣きながら手塚を静止しようとするが手塚は描こうとした。
本当に最後の最後まで描こうとした
彼の最後の三作品は大傑作の評価を受ける。
もし手塚治虫がいなかったら
もし手塚治虫がいなかったら日本は世界一の漫画・アニメ大国にはなっていなかったであろう。
だけでなく、世界レベルでも漫画、アニメの質、構造は全く変わっていたと思われる。
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藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aの二人は手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け漫画家を志した。 そこから手塚治虫の大ファンになる。二人は手塚治虫の漫画は全て買い集めていた。彼らは学生時代に手塚のファンとして手塚にハガキを出しその返事として「ポートレートと自画像ありがとう」「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」「アビコ君(藤子不二雄Aのこと)によろしく」と直筆のハガキを受け取った。 藤子・F・不二雄は生涯このハガキを大事に保管していた。(現在は藤子・F・不二雄ミュージアムに展示されている)
藤子・F・不二雄はあまりにも手塚のことが好きすぎてクラスメートの友達に無理やり手塚漫画を読ませたり、コマの読み方を説明したりしていた。漫画に興味のない人間にも無理やり読ませるのでかなり迷惑がられたらしい。(藤子・F・不二雄本人談。自伝より)
また藤子不二雄Aの手塚好きも藤子・F・不二雄に劣らず並々ならぬもので、自伝漫画の「まんが道」でどれだけ手塚治虫が好きだったか熱い思いを語りまくっている。
二人が高校生になると手塚の自宅に無理やり訪問をしたこともある。アポイントメントを取らなかったのに、手塚は彼らを笑顔で自宅に招き入れた。
藤子不二雄の二人はこの時に手塚に読ませてもらった漫画「来るべき世界」の生原稿に感激する。この手塚の自宅訪問からプロ漫画になるべく二人は本腰でプロマンガ家としてやっていくことを決意。
藤子不二雄は彼にちなんで初めは「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし露骨なため「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」名義にした。その後藤子不二雄としてデビューし手塚の住んでいたトキワ荘で暮らす。しかも藤子不二雄は手塚治虫の入れ替わりでトキワ荘に入居したため手塚治虫が住んでいた部屋をそのまま使った。「やったー!あこがれの手塚先生の住んでた部屋で漫画が描ける!」と二人は子供のように喜んだ。また手塚はデビュー間もない二人のためにトキワ荘の敷金は肩代わりしている。
その後、藤子不二雄は手塚治虫のアシスタントも何度か経験した。
藤子・F・不二雄はドラえもん等で超大御所になった時には手塚の悪口を言った編集者を自分の仕事場から出入り禁止にしたこともある。
また藤子・F・不二雄は手塚が亡くなった後には「手塚治虫が新宝島を描いた1947年を手塚元年と元号を改めるべきだと思う」とまで手塚をたたえた。このほか、1989年の手塚画業45周年を記念した展示会にアトムと藤子Fキャラが対面するという「ぼくらの大先輩」というカラーイラストを寄稿している。(藤子・F・不二雄大全集非売品特典画集「F.ART」に収録)
ちなみに手塚治虫は「藤子不二雄くんにはかなわない」と言ったり、自分の漫画にこっそりドラえもんを登場させたりわりとドラえもんを気に入っていた模様。(七色いんこ)
仮面ライダーやゴレンジャー(スーパー戦隊シリーズ)、サイボーグ009などで現在も知られる石ノ森章太郎も手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け漫画家を志した。 石ノ森は中学生の頃、手塚に分厚いファンレターを出したところ、手塚からさらに分厚い封筒の返事が届き、ますます手塚のファンになったという。石ノ森は手塚の漫画はかかさず毎月読んでおり、手塚が連載していた雑誌「漫画少年」の投稿欄に毎回投稿するようになる。 そこで手塚の目に止まり、念願がかなって手塚のアシスタントになった。 手塚は漫画少年に送ってきた石ノ森のことを「天才的な少年」と褒めている。
石ノ森は手塚の仲介により漫画家としてデビューし、手塚が住んでいたトキワ荘に住んだ。
石ノ森は手塚治虫のアシスタント経験者のため初期の絵は手塚治虫と酷似している。そのため手塚のシメキリがやばい時は石ノ森が手塚の絵を完全コピーして漫画を描いたこともある。
手塚と石ノ森の共作も何作か存在し、晩年まで二人は付き合いがあった。そのため手塚の漫画には石ノ森が大量に登場する。
「天才バカボン」などで知られる赤塚不二夫も子供の頃に手塚治虫の漫画「新宝島」を読み大きな衝撃を受ける。 そして手塚の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意した。 彼が18歳の時は長谷邦夫、石ノ森章太郎と一緒に「墨汁一滴」を描く仲間として手塚の家を訪問した。 赤塚が新人漫画家としてデビューした頃、手塚は『赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい』と助言した。 手塚の助言を受けた赤塚はレコード店に行き店員に『一流の音楽が聞きたいんです。一流のレコードをください』と言い店員は何を渡したらいいのか分からず困ったという。 その後赤塚も手塚が住んでいたトキワ荘で暮らした。 その後、赤塚は手塚のアシスタントも経験。
手塚は赤塚をたびたび自身の漫画に登場させている。また手塚は赤塚のギャグ「シェー」などを気に入っていたのかよく漫画に登場させている。
手塚と赤塚は晩年まで付き合いが続き、合うたびに手塚は赤塚の漫画にアドバイスを送っていた。
●永井豪
「マジンガーZ」「キューティーハニー」「デビルマン」などで知られる永井豪も手塚治虫に影響を受け漫画家を志したと語る。 「僕の漫画家人生は手塚先生の作品から始まった。」とも言い彼は子供の頃手塚治虫の漫画をよく読みいつも衝撃を受けていた。永井は初め手塚治虫のアシスタントになるために手塚プロダクションに出向いたが、あいにく手塚と連絡が付かず、代わりに知人に紹介された石ノ森章太郎の下で仕事を手伝うことになった。
手塚と永井はプライベートでも付き合いがあり、一緒にアメリカへ行ったこともある。(仕事も兼ね)
ちなみに永井豪は手塚のリメイク漫画を多く手がけており、「魔神ガロン」「ブラック・ジャック(ブラック・ジャックALIVE)」「どろろ(どろろとえん魔くん)」などを描いた。
かつて存在した雑誌「月刊手塚治虫マガジン」にも永井は一人だけ手塚治虫の漫画に混じって連載していた。(魔神王ガロン)
手塚の漫画「ブラック・ジャック」に永井は登場人物として出てくる。
●松本零士
「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト(設定・漫画)」などで知られる松本零士も手塚の漫画に衝撃を受け漫画家を志した。彼が小学二・三年の頃に学級文庫があり、それは手塚が描いた『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。松本が「漫画少年」の常連だった高校生の頃には手塚から「テツタイコウ テツカ(手伝い請う。手塚)」の電報を受け取る。松本は最初はイタズラかと思ったが、それはイタズラではなく本当に手塚が緊急のアシスタントを求めた電報であった。そこで松本は緊急アシスタントとして手塚を手伝いながら、漫画家について根掘り葉掘り質問した。これは松本がプロ漫画家になる思いを強めた。松本がプロの漫画家になり上京してからも手塚とは親交があり、手塚が一人で突然に松本の下宿に行くこともあったという。その時は窓の外から「おーい松本君。メシ食わせるから、出てこーい。」と誘った。松本が手塚と気が合ったのはお互いがあけっぴろげのことだと語る。
ちなみに手塚治虫は松本零士にチョコレートが入ったうどんを食べさせたことがある。(しかし、松本零士はちばてつやにパンツに生えたキノコを食べさせたことある。)関係ないが藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aはトキワ荘時代に同じトキワ荘の森安なおやにロウソクを食べさせているので当時マンガ家の間でこの手のイタズラが流行っていたのかもしれない。なおチョコレートが入ったうどんは手塚先生の好物だった。
また手塚治虫は晩年まで松本零士と付き合いがあり、手塚の漫画「ばるぼら」では松本零士が普通に登場人物として物語に関わってくる。
●さいとう・たかを
さいとう・たかをも手塚治虫に憧れて漫画家を目指した。昭和30年頃の学生時代には漫画家志望者として手塚治虫の自宅に尋ねた。しかし、運が悪く手塚は既に東京に上京していたためにさいとうは手塚に合うことはできず手塚の母とニ・三言話しただけで帰ることになった。そのため初期のさいとうの漫画は手塚のような絵柄を描く漫画家であった。その後、さいとうは「手塚に憧れて漫画家を目指したが手塚調の丸っこいタッチの絵が描けず現在の絵になった」と証言している。後に「劇画」と呼ばれる分野の開拓に貢献し手塚の大きなライバルとして彼の漫画家生命を大きく揺るがした。
ちなみに手塚の漫画「ブラック・ジャック」にはこっそりゴルゴ13が登場する。
なんかやたらに「漫画の神手塚vs劇画の神さいとう」として二人は仲が悪かったことにされることが多いが、二人で飲みに行ったり共作をしたりしたこともある。
漫画賞主催のパーティーではさいとうは手塚治虫のコスプレ(ベレー帽に丸メガネ)をしたりもした。
●横山光輝
「鉄人28号」「魔法使いサリー」などで知られる横山光輝も手塚治虫の『メトロポリス』に感銘を受け漫画家を志す。しかし、高校卒業後は神戸銀行に入社する。
手塚はある日、大阪東光堂の社長に連れられたスマートな青年と出会う。社長はその青年は神戸銀行に務めていると言い、社長は「うちでデビューさせようと思いますが、どうでっしゃろ?」と聞いた。手塚は彼の作品を読み「売れるかも知れませんな」と褒め、その青年は漫画家としてデビューすることになった。その青年こそが横山光輝である。横山はその後、手塚治虫の初期アシスタントも経験。
その後横山は手塚のアシスタント経験時代に『黄金都市』『ターザンの洞窟』で共作もした。手塚は横山を「かれほど"彗星のように"という形容のあてはまる男はいない」と絶賛している。またプライベートでも手塚と横山は付き合いがあったようで横山が東京に来たばかりの頃は手塚がいろいろアドバイスしていた。
ちなみに原作手塚治虫・作画横山光輝の『黄金都市』『ターザンの洞窟』は作画が横山光輝だけどかなり手塚の画のタッチが再現できているので横山ファンのみならず手塚ファンにもオススメ。
●寺沢武一
ニコニコ動画やふたば☆ちゃんねるでも大人気の『コブラ』の作者、寺沢武一は手塚治虫のアシスタント出身である。しかし、寺沢は初めはアシスタントの面接で不採用になっていたのだが後日、手塚が寺沢の絵を見て「こんなすごい絵がかける人をなんで見落とすんだ!」と叫び即時採用となった。ジャンプコミックス版の『コブラ』の第1巻では手塚があとがきを送っており「彼の絵は緻密で、丹念で、しかも美しかった。ことに背景を描かせると抜群だった。」とべた褒めしている。ちなみに手塚の映画『火の鳥2772』のオルガのデザインは寺沢である。
荒木が漫画家としてデビューしたのは手塚が荒木を第20回手塚賞の準入選に選んだことによる。その時の作品は「武装ポーカー」で荒木は20歳であった。手塚は荒木に手塚賞を与える際に絶賛しており「これはすごく面白かった。近来にない。僕は大好き。東京へ是非来て下さい。あんまり東北から出る人って少ないんですよね」と語り、荒木が「石ノ森先生が(荒木と同じ宮城県)」と語ると「ああいう程度(しかいない)ものでね。だからちょっとその(石ノ森章太郎の)後を継ぐ人としてさ。お願いします。」と荒木が東京に来ることを薦めた。また荒木はその時、手塚と握手した様子を「1980年の暮れに、手塚治虫先生に握手していただいた時に、うわっ漫画家の手ってすごい柔らかくてフワフワだぁ。と思った。ぼくはあんまり『柔らかいっスねえ!』って言われた事ないけどきっとジャイロ(荒木の作品の登場人物)の手はフワフワだな。」と自身の作品「JOJOの奇妙な冒険」の第七部「スティール・ボール・ラン」に書いている。ちなみに荒木飛呂彦の初連載作品「魔少年ビーティー」の「ビーティー」とは上記の寺沢武一のイニシャルから取られている。
●鳥山明
鳥山は子供の頃は鉄腕アトムのアニメ版を見ていた。1980年の雑誌パフ9月号「まんが家WHO'S WHO 14」に置いて影響を受けた人を聞かれると「意識の上では特に影響を受けたつもりはありませんが、やっぱしたくさんの影響をうけているみたいです。元をず~~~っとたどれば手塚治虫さんの鉄腕アトムじゃないかと思います」と回答。1998年に集英社からジャンプコミックスで「手塚治虫THE BEST」が発売された時は単行本の帯に一巻ずつ少年ジャンプの漫画家が帯にメッセージを寄せていた。鳥山は手塚の「雨降り小僧」が収録された第二巻の帯に以下のように語った「一度だけ漫画で涙が出てしまったことがある。若い頃読んだ『雨ふり小僧』。プロとなった今、出会い、今度は汗が出た。」また1980年にリメイク版「鉄腕アトム」が放映されると、鳥山明の「Dr.スランプ」が裏番組としてぶつかってきた。手塚はその時を「今のテレビのアニメは、比較的ガンダムのように高学年対象のアクション本位のロボットものが多いわけです。ぼくは今こそドラえもんのように年齢層をぐっと下げたむじゃきなアニメがあってもよいのじゃないかと思い、今回のアトムは幼年層を中心にした内容にしたいと思いました。それをスタッフに伝えたのですが、やはり劇画ふうの内容になってしまいました。裏番組のDr.スランプを見て、これだ!これをアトムは狙っていたのだ、してやられたと思いましたが、後の祭りでした」と語っている。手塚は他に「鳥山明は純粋でいい。やっと私の後継者が出てきた。」とも語っている。手塚は鳥山のことを『後継者』と語ったが実際に現在の手塚賞の審査員は鳥山が務めている。もちろん手塚賞の審査員の後任の指名は手塚がしている。また、現在のジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン等の各作家の多くは掲載誌に関わらず鳥山の影響を語ることが本当に多い。ある意味本当に後継者。(ただし、手塚のような多作家にはならなかった)
そのた
ちなみに2ちゃんねるなどでは、手塚が石ノ森と仲が悪かったことにされることが多いが、生前以下のように語っている。
手塚 --- ただね、ぼくが評論家的な言動をすると、すぐそれがものすごく拡大解釈されて、歪められて、とんでもない悪口になって、相手に聞こえてしまうということを何度も経験してます。だからぼくは黙るほうがいいと思ったし、マンガ家はあんまり口を出さないほうがいいなという気がしたんです。
石ノ森 --- うーん、もったいない。
また2ちゃんねるではスポーツ漫画は描いたことが無いことにされることが多いが、短編や長編の中でスポーツを題材にした話をちょこちょこ描いている。(後遺症、グリンゴ、水とあくたれ、タイガー博士の珍旅行など)
さらに2ちゃんねるでは梶原一騎と仲が悪かったことにされることが非常に多いが、「巨人の星対鉄腕アトム」 という企画をしてテレビで放送するような仲だった。また手塚は梶原の「あしたのジョー」を気に入っており、虫プロダクションでアニメ「あしたのジョー」が作られた。アニメ「あしたのジョー」は大ヒットした。
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