手島興信(てしま・おきのぶ ?~1550)とは、安芸国の戦国武将である。名字は豊島(としま)とも。
概要
吉川家臣。通称は内蔵丞。吉川興経に若き日より仕えた側近だが、主の暴走っぷりから反興経派が吉川元春を新当主に迎え入れたため、隠居する興経に従った。
しかし、毛利元就による興経殺害の命が下った時には、元就の策略により興経の元を離れていた。留守の間に主を謀殺されたことに気付いた興信は、後を追って一人自害したという。襲撃時に共に討死したとも。
元就の策略
以下は『陰徳記』による。
興信は吉川家中でも特に優れた豪の者であった。ただでさえ興経の武勇は厄介であるのに、彼が側にいれば暗殺はさらに困難なものとなる事が予想された。そこで元就は興経の隠居館に、家宝の刀を是非見せてほしい、大切な物であるから強者の手島に運んできてほしい、と書状を送った。
興経はこれを疑うことなく、手島を送り出す。元就としては迎え入れた手島を隙あらば暗殺してしまおうとも考えていたが、流石は家中に知られた豪の者だけあり、一切隙を見せる事は無かった。
むしろ自らの命が狙われた事で、手島は興経に迫る危険を察知し、吉田郡山城を抜け出すと急ぎ隠居館へと走って戻るが、彼が到着した時にはすべてが終わった後であった。手島は大いに泣き、介錯するものもいない中で一人腹を切って、主の後を追ったという。
手島興信には他4人の兄弟がいたが、彼らもまた興経の後を追って自害したという。
興信の年齢について
ゲーム「信長の野望」シリーズの列伝では「幼少の頃より興経に仕える」とあり、実際20代で死去した若武者として設定されている。一方、『陰徳記』の記述によれば「興経の事を、おしめが取れない頃からお世話してきた」という表現がある。信長の野望の列伝も解釈次第といったところだが、(手島が)幼少の頃より、ではなく、(興経が)幼少の頃より仕えていた、興経と同年代かそれ以上の宿老だったようだ。
ちなみに同じ境遇の二宮経方も同様で、『陰徳記』では隠居館が襲撃を受けた際、二宮十郎右衛門という老奉行が登場し、自害している。興経に付き従ったのは、長年彼の側に居続けた宿老たちだったようだ。
補足
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軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 60 | 知略 | 13 | 政治 | 22 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | 65 | 武勇 | 49 | 知略 | 25 | 政治 | 30 |
関連項目
- 吉川興経
- 二宮経方
- 毛利元就
- 戦国時代の人物の一覧
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