摂政単語

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摂政とは、君主制のある国家などにおいて、権者を直に補佐する役職の一つである。
一般には「せっしょう」と読むが、琉球王国に関しては「しっしー」と発音する。敬称殿下

概要

基本概念

 摂政の役職名は「に代わってそれを行う(政を摂る)」に由来する。
基本的な役割は、『何らかの理由で政務を執り行なえないが登場したとき、その代理人として政を取り仕切ること』である。そのため事実上のとしての権利と待遇とを得るが、それらは補佐する人物が自ら執務できるようになった時点で返還しなければならないとされる。
 摂政の基本的な役割はこれに尽き、他の細かな職責については例ごとに様々な違いを見せている。

設置の通例

 摂政職が必要とされる、すなわちが政務を執り行えない状況については様々なものがある。

 多くは年齢的に幼いことを理由とするが、病気や怪により身動きが出来ないため、外征などで長期不在となることが予想されるため、老年のがその権利を保ちながら半ば隠遁するためなど、その設置理由は非常に幅が広い。
 加えて支配制度が全般に未整備だった古代には、たとえが壮健でも一人では国家全体を統括できないことも多く、必要上から置かれた共同統治者のことを摂政と呼ぶ場合も有った。そのため、この役割に就いた者は古今東西に非常な人数となっている。 

 他にも、実質的に宰相職と未分化だったり、近代においては逆に顧問程度の存在に過ぎない例もあるなど、たとえ同じ「摂政」の名で呼ばれる役職であってもその役割は時代ごと、地域ごとにさまざまな違いを見せている。そのため、全ての例について同じように『あくまでの(一時的)補佐役である』などと見做すことは出来ない。 

就任における要件、慣行

 の代理人として国家運営することが職務であるため、摂政となる人物は非常に身分の高い、ごく一部の層から選ばれるのが普通である。一般には補佐を受ける族(王族)か、または貴族のうちでも特別に身分の高い系に属する者の中からその任に当たるものが選ばれることとなる。
 王族が就任する場合は、前王の王妃などが王太子の成人まで、いは王太子が王の施政を補するため当たることが多い。また臣下が就く場合は、貴族の代表格的な人物、軍の官、高位の政務官、国家宗教導者などからに選ばれることとなる。

 摂政の制度は、また近代天皇制における制度の一部として現代の日本にも存在している。これは日本国憲法、および皇室典範によって保障がなされており、その規定内容については宮内庁のホームページexitなどからでも簡単に知ることができるようになっている。

おおまかな歴史

 その古くは紀元前2990年ごろ(紀元前30世紀)に、古代エジプト第1王王妃だったメルネイト[1]が、国王である夫の死後、王太子たる息子が成長するまでの間その職務についていたと言われる。しかしこの時代については記録も少なく、はっきりとは分らない部分も多い[2]。また紀元前1479年、第18王王妃だったハトシェプストが、夫である王の死後、他の婦人の生んだ幼い新王を後見してその任に就いたとされる。しかしこれも、実際には共同統治の王として即位していたともされるなど不明な点が多い。 

 エジプトの周辺では、他にも紀元前1500年頃のヒッタイトに摂政職があったとの記録が残っており、新王が選出される場合など、貴族層と共にそのを行使したらしいことが分っている。
 歴史的には、これらが摂政職に関する最も古い例となる。ただし記録に残っていないだけで他の地域にも存在していた可性は大きく、そのためどこが摂政職の発祥の地かは現在もあまりはっきり分っていない。

 エジプト周辺以外においては、紀元前1021年の中国、周王において、幼君だった成王を補佐するために旦(周旦)が就いたものを最も古く、確実な例として見ることが出来る。これは王が幼かったために就任したものであり、またあくまで代理人に過ぎず、王が成人して後はとしての権利、待遇を返還したことなど、現代の摂政のイメージにほぼそのまま沿ったものとして注される。

 しかし、そのようにして脆弱な君を補佐する役として広く定着する一方、その国家において最も有な者が就くことの多い職でもあったことから、王を差し置く形で政務を執る者が数多く現れる元ともなった。そうした人物たちにとって摂政とは、いわば権勢として箔を付けるための役職であり、また国王に職権を返還した後も、内最大の有者として長く威勢を揮い続ける第一歩たる地位に過ぎなかった。
 このような、王権の補と破壊そのどちらの元ともなるだけの職がある地位だったからこそ、が就任するかをめぐっては長い歴史の間にさまざまな暗闘があったともされる。

近代に入って以後は、相次ぐ戦争民主主義などで貴族層、宗教導者層などの落もしく、また王族もかつてのような絶対的な権者とは言えなくなった。そのため何れのにおいても、当事政府の定めに従い、王族に属する者が機械的に選ばれて摂政の地位を得る例を多く見るようになった。

 現代においても、君主制の残るほぼ全てのにおいてこの制度は引き続き残されている。「国王」の地位に就いた者が権者として国家運営する例はもはやほとんど見られないが、王位そのものが事行為の催者としてとても名誉有る地位と見做されていることは多く、その重い役職を代行する大任の一つとして認識されている。

日本における摂政

皇室(大和朝廷)

 日本において初めて摂政の位に就いたのは皇后であり、その息子である応天皇の幼少期を補佐したと言われる。しかし半ば伝説中の存在としてその実在が疑問視されており、またたとえ実在していたとしても、摂政と言うよりも共同統治者、または単独で皇位に就いていた可性もある[3]。そのため、現在では摂政の例としては取り上げられないことが多い。これはしばらく後の時代に摂政の位に就いた聖徳太子厩戸皇子)についてもほぼ同様である。
その後も何人かの皇族がその地位に就くものの、太政大臣の職責として幼の補佐が有ることからも分るとおり、明確な形式を持たない、他と未分化な役職として存在するに留まっていた。

 702年に大宝が制定され、また実行支配の範囲が日本全体に及ぶようになると、その機構の大化と共に次第に朝廷の役職も明確化を迫られるようになった。また天皇の地位も、かつてのような飛鳥地方の有族とでも言うべきものから日本一の王権者に変化し、その役割に相応しい補佐が必要となっていた。
 こうした情勢の変化の中で、には規定されていない実際的な官職の一つとして858年、藤原良房がその地位に就任。幼い清和天皇を補佐すると、866年には成人した天皇から「摂行下之政(下の政(まつりごと=政治)を摂行せしむ)」とする摂政宣下の詔が与えられた。
 この宣旨をもって、日本における摂政制度は成立したと現在では考えられている[4]これ以後の時代は、制度としての整備を少しずつ進めながら、ほぼ常設の官職として摂政(または関白)が継続的に置かれることとなった。

 最盛期の摂政が得ていた職権については、なものに詔書の代筆(事実上、天皇の名で命を出せる)、叙位および任官の実施(人事権の握)、内覧の役(天皇に奏上される手紙情報などを先に見てチェック出来る。ただし別の人物が就くことも)などがあり、その権勢は天皇そのものと並ぶほどの強大さだった。そのため実権が武政権に移った後の時代においても、朝廷内においては変わることなく君臨し続けた。

 このように官職として定着を見せた摂政ではあったが、藤原道長が登場して以後、その地位に就けるのは長の子孫のみに限られるようになった。その系は時代と共に5つに別れたものの[5]この「五摂」体制の確立以後は地位を失うなどのこともく、公家の中でも特に格の高い柄として朝廷に重きを置き続けた。結局、明治維新により一度止されるまでの1000年近くの間、この摂以外の出身者が摂政職に就くことはかった。[6]

 摂政は1868年の明治維新の際に一度止されるものの、1889年には大日本帝国憲法に制定される形で復活した。大正期にはこの憲法における規定に則り、当時、皇太子であった裕仁王が父親である大正天皇を補佐している。
 また現在日本国憲法においては、就任した者こそ居ないものの、その保障するところである皇室典範に規定が存在することは前記した通りであり、状況の変化に対する備えとなっている。
2016年平成28年)に上皇陛下(当時は天皇陛下)が徴としてのおつとめに対するご自身の思いを表明するメッセージを出された(お気持ち表明)が、この中で高齢を迎えたご自身に摂政を立てることを明確に否定されたことは記憶に新しい。

琉球王国

 現在沖縄県にあたる琉球王国にも摂政職が存在していた。これは「摂政」と書いて「しっしー」と読むなど、独自の歴史を持ったものである。

 琉球王国事実上最初の王とされるは、3代約72年ほど続いたとされ、その最後の王である義本の時代(1249年~1259年)に琉球最初の摂政が存在していたと記録されている。この摂政は英祖と言う人物で、後にしい災のために義本王が退位すると、自ら新しい王を開いて琉球を統治した。そのため図らずも琉球最初の摂政は、王交代の基盤的な地位として登場することとなった。

 英祖が衰えると、琉球北山中山、南山の3つのに分裂して合い争うこととなった。そのうち中山の察度(さっと)、察度を倒した第一尚氏の初期にはそれぞれ幾人かの摂政がいたとされるが、このころの摂政職には中国人や、王族とは違う名字の人物が就いており、後の時代とは違う任命基準によって選ばれていた可性が高い。

 その後第一尚氏によって再び統一が成った琉球王国は、しばらく安定した時代を過ごしていた。しかし第二尚氏の時代になって突然薩摩が襲来。全土が支配されると言う国難の時代を迎えた。琉球はかろうじて独立を保ったものの、薩摩、ひいては徳幕府とのの差は歴然としており、その実態は単なる植民地とあまり代わらない有様だった。

 第二尚氏時代の摂政は、王族のみがその任に就けると定まるなど制度化が進んでいた反面、実質的な政務からは一歩引いたところに位地し、また数年たてば交代するいくぶん名誉職的な地位と見做されていた。しかし占領下に置かれて以後の琉球王国においては、その地位の高さからしばしば薩摩、徳幕府との交渉役ともなったほか、時には様々な革を進めた人物も出るなど、実質的に政務を取り仕切る三官(宰相)とは別の度から国家を支える存在だったとされる。

 1872年(明治5年)、明治維新を経て誕生した新政府が、琉球王国組して名実共に日本領とする命を発した。存続のための抵抗は届かず、ここに王は滅亡し、琉球の摂政制度もその終焉を迎えた。

摂政の関連語

  • (摂政と同じ意味。中国でその地位に就いた人物をすが、日本の摂政の事もす。)
  • 准摂政(摂政に次ぐとされる地位。)
  • 称制(王位の継承権者が、前代王の薨去後に即位しないまま政務を行なうこと。)
  • 摂政皇太子王位の継承権者が、当代の王を摂政として補佐すること。)
  • 摂政皇太后(前王の王妃が、次代の王である幼児を摂政として補佐すること。)
  • 関白(摂政とほぼ同じ役職だが、その権はやや制限される。)
  • (摂政、関白職に就く資格を持つ非常に高位の公家。)
  • 摂関政治(摂政、関白と言う強大な権を持つ貴族を中心に展開された政治体制。)
  • 摂政会議(複数人の摂政が任命されている場合、その摂政が集まり催される会議。)

架空の摂政

実在のものではい、架の人物が「摂政」として物語に登場することが有る。その場合は通常、史実にプラスして様々なオリジナル要素が加えられる。摂政職の存在する理由としては、補佐の対が幼少だからとされる傾向が非常に強い。

架空の摂政の例

関連動画

左:人身(臣下)初の摂政となった藤原良房についての「替え歌歴史シリーズ」。(文和さん)
右:の摂政を行なったため裕仁王(後の昭和天皇)は「摂政の宮」とも呼ばれた。(EM7101さん)

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関連項目

大百科に個別記事のある摂政就任者

日本

海外

架空

 大百科の項目

脚注

  1. *メルネイト:古代エジプト第1王第3代、ジェル王の后。
  2. *分からない部分も多い:第3代ジェル王の死後の短期間、メルネイトが(女)王として即位していたのではないか、との推論も存在している。
  3. *皇后明治15年に過去天皇の即位順などが整理されるまでは、皇后は実際に皇位に就いていた人物として代に数えられていた。
  4. *摂政制度は成立:ただし、この頃は後の時代の摂政に当たる職責が未だ太政大臣に有り、そのため良房はあくまで太政大臣の職務として天皇を補佐していたに過ぎないとの意見も存在している。事実、摂政の職が明確に太政大臣から別れたのは、良房の息子である基経の時代になってからだった。また建武の新政期など、あえて摂政、関白職の置かれなかった時期も存在する。。
  5. *5つに別れた:この系は「摂(摂関などとも)」と呼ばれ、近衛九条二条一条鷹司がそれに該当した。
  6. *就くことはかった:豊臣秀吉豊臣秀次は、関白には就いたものの摂政にはなっていない。

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摂政

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削除しました ID: NRX+FC+pmG
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2 ななしのよっしん
2017/09/07(木) 20:31:09 ID: gd6M/UO8ag
摂政なんてあったのか
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3 ななしのよっしん
2017/10/29(日) 10:51:43 ID: 73ikYzb8Xp
特殊な例だと、戦間期のハンガリーの元首の称号摂政じゃなかったか?
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4 ななしのよっしん
2022/08/22(月) 10:59:44 ID: qZ1kJMMzrH
安倍していたもの
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