『文明論之概略』とは、福沢諭吉の著書の一つである。
概要
時代背景
出版されたのは1875年、明治8年。日本は西欧列強のアジア進出について何らかの対応を迫られていた。その中で西欧列強が掲げていた文明化(civilization,シヴィライゼーション)、文明開化を自らのうちにどう受肉し、理解するかが至上命題となっていた。その文明開化の一つの精神的な理論が、この『文明論之概略』である。
福沢の意図
福沢の答えは簡単である。西欧文明が日本の遂げるべき目的である。当時西欧列強は「野蛮・半開・文明」という歴史段階理論を採っていた。その理論からすると日本はトルコや中国、日本といったアジア諸国は、半開の国であり、文明国である西ヨーロッパやアメリカよりは劣る存在であるものの、アフリカ・オーストラリアといった野蛮国よりは優れていて、文明国になりうる地位であった。
では、文明化とは何か。それは単に衣食住といった見た目や制度を真似ることではない。無形の文明の精神、人々の態度に現れる精神的態度(「一国の人身風俗」)の改革に求めた。「先ず人心を改革して次いで政令に及ぼし、終に有形の物に至るべし」というのが福沢の理念であった。
目的とすべき「文明の精神」とは、様々な障害(例えば封建的因習)の除去によって人民大衆の知徳が自由に大いに発達すること、「天然に受け得たる心身の働きを用い尽くして残す所なき」常態に至ることである。こうした状態に到達するための人間的条件として「自由の気風」に言及している。そして「文明の精神」において西欧人に匹敵するような常態に日本人が到達することによってこそ、はじめて日本社会は一変し、その対外的独立を合理的に論ずることが可能になるとした。
具体的な想定読者
この『文明論之概略』は、既成の政治観を持っている相手を論難する事を目的としている。具体的には儒学者である。福沢は政府と権力のあり方についての伝統的観念を容赦なく批判する。日本のこれまでの特徴を「権力の偏重」と呼び、「全国人民の気風」とした。治者と被治者の二元性が社会全てを覆い、「被治者は治者の奴隷に異ならず」といった状態になっていると指摘する。この性質は王代の時から今まで一変もしていないとする。その結果、学問も宗教も商売も工業も全て政府の中に「籠絡」され、その命運は政府の判断によって左右されるべきものとされてきた。政府にはあらゆる価値と人材が集中する反面、「国事に関せず」という日本人民の状態は全く変わることがなかった。これを表したのが「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」という福沢のテーゼである。宗教に政府からの独立性なく、武人にはゲルマン人のような「自主自由の元素」なく専ら上洛のことしか考えなく、学者には「政府と名(なづく)る籠の中に閉じ込めれ」、権力者による軽蔑を受けても「恥ずるを知らず」のよな有様が一般的であった。これらを称して「鄙劣(ひれつ)の甚だしきもの」「卑屈賎劣の極み」と酷評する。
儒学は統治者たることを学問の目標として掲げ、先のような「権力の偏重」体制の永続化に寄与した。「古を信じ古を慕うて、自己の工夫を交え」ない、「精神の奴隷」とでもいうべき態度を基本としているという。「至尊」と「至強」とを合致させた体制の再生産の学として専制の永続に絶大な貢献をしたのであった。この「独裁の神政府」(祭政一致)こそ中国において実現されたことは言うまでもない。福沢によれば、儒学こそは人間交際の停滞の立役者であり、「自由の気風」を可能にする多事争論・異説争論を圧殺するのに手を貸したものであった。
もし「権力の偏重」が続いていたとすれば明治維新はなぜ起こったか。「王室の威光」や「執政の英断」に求める解釈はなぜこの時点で起きたのかを説明できないとする。福沢は「時勢」の変化に求める。徳川幕府の終わりにおいて「暴政の力」と「知恵の力」のバランスが変わり始めたところにペリー来航が重なり、改革の好機が訪れたという。日本の衆論における「知恵の力」の台頭こそがあくまでも遠因であり、攘夷論その他は近因でしかないという。従って、明治維新は「全国の智力」の結集である衆論によって政府の形を改めたものに他ならない。ここに「文明の精神」へ向かって歩む「知恵の力」を日本人が備えつつあること、福沢の言う意味での文明化が絵空事でないことが示される。政府が価値を独占せず、政府は一つの限定的な機能を持ったものに過ぎず、文明の進展に伴い変化すべきとした見通しを持っていた。
知恵の活動を進歩発展させるために
文明の世界は多事争論、自由の気風の溢れた世界として描かれるが、それは人間の内面に関わる「心の学」「私徳の教」が説くような仁義道徳だけでは語れない、外の物に関わる広範な知恵の活動(「聡明叡知の働」)を前提にしている。知恵の活動は自然との関係においても他の人間との関係においても大きな影響力を持ち、しかもその真偽は有形の事物に即したテストによって取捨選択され、学習可能であるとともに進歩発展が可能なものである。
そしてこの知恵においてこそ日本人は西欧人に決定的に劣っていること、従って「心の学」に逆戻りすることなくこの知恵をめぐる課題に挑戦すること、この意味での「文明の精神」の発達にコミットすることが学者の新たな任務であることが強調されている。それによって辛うじて日本の独立への展望も見えてくるのであって、旧来の体制の崩壊に伴う開放感に浸っている時ではないとした。
福沢は、神政府の概念について、中国が固執したあまり文明化について誤った対応をしたのに対し、日本は神政府の観念が武家政治の台頭によって不可能になり、そこに「自由の気風」の余地が発生したという認識を持っている。ただし明治維新は武家政治の崩壊と同時に復古であり、その意味では神政府への転落の危険性を持っているともしている。「今日に至りて、彼の皇学者流の説の如く、政祭一途に出るの趣意を以て世間を支配することあらば、後日の日本もまたなかるべし」と天皇主義者を戒めている。
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