斎藤一とは、新撰組に所属していた幕末の剣客であり、明治時代の警察官である。
概要
史実
天保15年(1844年)1月1日に生まれる。変名に山口次郎(二郎)、一瀬伝八(いちのせでんぱち)などがある。明治以降は会津公・松平容保より授かったという藤田五郎を名乗った。
剣の流派は「無外流」と言われるが、子孫によると「上にも下にも何にもつかない一刀流」であり、正確なことは不明。斎藤本人の遺した証言によると、江戸に住んでいた19歳の頃、いざこざがあって旗本の武士を斬殺してしまった為、父親の縁で京都の剣術道場に逃れたと言う。
剣の腕が立った為剣術道場で師範代を努めていたが、文久3年(1863年)、近藤勇ら浪士組が上洛して壬生浪士組(新撰組)を発足させるとこれに参加。入隊後すぐ幹部になり、三番隊の組長となる。※
※文久3年3月10日の京都残留嘆願書には既に名前が載っており、江戸滞在時から近藤ら試衛館組と知り合いだったと思われる。(浪士組の京都到着は2月23日)
池田屋事件、御陵衛士でのスパイ活動、天満屋事件での逸話が知られる。
慶応4年(1868年)、新撰組隊士として鳥羽・伏見で新政府軍と戦うが敗れて江戸へ敗走。新撰組隊士達と甲陽鎮撫隊を結成して甲州勝沼で新政府軍と戦うが敗北。そのまま会津藩まで逃れ、合流した土方歳三と共に新政府軍を迎え撃つがここでも敗北。土方は仙台に向かったが、斎藤は会津に愛着を持ったのか留まり、ここで新選組を袂を分かった。会津藩の降伏以後は、下北半島・斗南藩への集団移住まで会津藩士達と行動を共にする。
斗南藩時代に篠田やそと1度結婚しているが、明治7年(1874年)、上京後に高木時尾と再婚している。(篠田やその消息や没年は不明)
明治10年(1877年)、警視庁に就職後、西南戦争に出征、新聞に掲載される手柄を立てている。
平成26年(2014年)1月に京都市の霊山歴史館に寄贈された明治時代の警視庁名簿原本によると、「書記兼戸口取調掛」なる役職に斎藤一の名が載っている。現在の警視庁に問い合わせたところ、「そのような役職は存在しなかった」という回答であったため、斎藤が架空の役職に就いてスパイ活動を行っていたのではないかと推測されている。[1]
明治24年(1891年)、警視庁を退職し、以後は東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館)や東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)にて勤務。
大正4年(1915年)9月28日に数え年72歳、満71歳で死去。死因は胃潰瘍であった。死の間際、家族の手によって座布団を敷いた床の間に自分を運ばせ、結跏趺坐のまま息を引き取ったという。
逸話・イメージなど
- 斎藤一の特徴として有名なのが、左利きであったという説である。これは子母沢寛による創作の可能性も否定出来ないものの、斎藤は左片手一本での突きを得意としていたと言われる。この説は漫画『るろうに剣心』に登場する斎藤一の必殺技「牙突」に代表されるように、多くのフィクション作品に採用されている。
- 明治の末に神道無念流有信館の山本忠次郎が木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていたところ、斎藤と思われる老人が通りかかり、忠次郎の竹刀で缶を突いてみせた。老人は一瞬のうちに突き、缶は揺れることなく貫通したとされる。
- 新選組の三番隊隊長を勤め、明治維新後も存命であるものの、他の新選組隊士に較べ謎が多い人物である。新選組を題材としたフィクション作品では、眉目秀麗で飄々とした性格の沖田、我武者羅な熱血漢である永倉らと比較されるためか、孤高の一匹狼的人物というイメージで描かれることが多い。
関連リンク
関連項目
脚注
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