斎藤隆とは日本人の名前である。著名人として、主に次の人物らが存在している。
- 日本、アメリカで活躍していた元野球選手。 ← 本記事で解説
- 声優。代表作に「ひょっこりひょうたん島」など。1995年に死去。
- 東京情報大学の教授。経営情報学者。
- 日立製作所の特別顧問
- 他に、裁判官、自衛官、昭和時代のプロ野球審判員など。
概要
- プロ野球選手一覧 > 斎藤隆
OB | |
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斎藤隆 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮城県 |
生年月日 | 1970年2月14日 |
身長 体重 |
188cm 98kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1991年ドラフト1位 |
引退 | 2015年 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
東北福祉大学時代に、一塁手から投手に転向。1991年ドラフト1位で横浜ベイスターズ(当時の横浜大洋ホエールズ)に入団。なお、同級生には金本知憲、浜名千広がいた。
1996年にプロ入り初の二桁勝利をマークし、206奪三振でタイトルを獲得。
1998年4月に復帰し、13勝5敗1セーブで38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。カムバック賞、日本シリーズ優秀選手賞も受賞した。
2001年には、森祇晶新監督の指名でストッパーに転向する。7勝27セーブ、防御率1.67の好成績を残すが、本人はリリーフでの調整の仕方が分からず、ブルペンで先発投手のように投げ込んでからマウンドに向かうこともあったという。
ただ、本人はこの時の経験が後にメジャーで大いに生かされたと語っている。
2003年には、山下大輔新監督の方針により先発に再転向するが、成績は低迷した。
MLB移籍
2005年オフには球団にメジャー挑戦を申し入れ、了承され自由契約となった。36歳という年齢と成績不振から興味を示す球団はなかなか現れず、2006年2月にロサンゼルスドジャーズとマイナー契約を結んだ。4月7日にメジャー昇格。6月にクローザーに指名され、守護神として定着する。最終的には6勝2敗24セーブの成績を挙げ、プレーオフ進出に貢献した。
2007年6月27日のダイヤモンドバックス戦で、当時の日本人投手として最速の99mph(159km/h)を記録。またこの試合のセーブで、メジャーデビュー以来48度のセーブ機会で45の成功により、44/48のエリック・ガニエを抜き、初セーブ機会からの救援成功率のメジャー新記録を樹立。7月には監督推薦でオールスターに出場。8月には日本人投手初の月間最優秀救援賞を受賞。しかし、9月19日のダブルヘッターの二戦目でサヨナラツーランを浴び、チームはワイルドカード争いから脱落した。最終的にはナ・リーグ3位の39セーブを挙げた。
2008年も活躍したが、オフにFAとなり、2009年1月にボストン・レッドソックスと1年契約を結んだ。6月11日に日米通算100勝100セーブをマークした。メジャーでは自己ワーストの記録に終わるも、後半戦は好投した。オフにはアトランタ・ブレーブスと1年契約を結ぶ。
2010年はクローザーに次ぐセットアッパーとして起用される。5月30日のピッツバーグ・パイレーツ戦でシーズン初勝利を挙げ、日本人メジャー投手初となる40歳代での勝利を、8月8日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で、40歳代でのセーブを達成。しかし10月シーズン終了後の自由契約を望んでいたこともあり、解雇された。
2011年1月にミルウォーキー・ブルワーズと1年契約を結んだ。地元が東日本大震災で被災し、4月には左脇腹を故障し、その際の痛みから引退を覚悟していたが、ブログでファンから励ましを受け、現役続行を決意し、7月にメジャー復帰。好投を続けブルワーズの29年ぶりの地区優勝に貢献したが、ワールドシリーズ出場はならなかった。その後FAとなり、アリゾナ・ダイヤモンドバックスと1年契約を結んだ。
ダイヤモンドバックスでは故障もあって結果を残せず、オフにFAとなる。日本球界復帰決断の報を聞き、地元の東北楽天ゴールデンイーグルスと古巣の横浜DeNAベイスターズが獲得に名乗りを上げた。両親が地元仙台でのプレーを強く望んでいた(2005年に横浜を退団したときにも、楽天に入団して欲しいというコメントを出していた)こともあり、東北楽天ゴールデンイーグルスに入団した。
日本球界復帰後
2013年は序盤は出遅れ、怪我の影響もあって登板回数は多くなかったが、中盤以降はリリーフの切り札としてポストシーズンまで好投を続け、チーム初の日本一に貢献した。
2014年に右投手最年長セーブ、右投手最年長勝利を記録した。
2015年は4月14日に一軍に昇格するも、15日、16日の埼玉西武ライオンズ戦で森友哉に本塁打を浴びるなどして2試合連続で失点し、17日に早くも登録を抹消される。その後シーズン終盤まで出番がなく、8月16日に現役引退を表明。10月4日の福岡ソフトバンクホークス戦で9回表に登板し、細川亨から三振を奪い有終の美を飾った。
引退後
2015年から2019年までサンディエゴ・パドレスの裏方を務めていた。
2020年は東京ヤクルトスワローズのコーチを務めたが、同年オフに退団している。
人物
成績
通算投手成績
通算:23年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB:16年 | 403 | 208 | 30 | 8 | 91 | 81 | 55 | 14 | .529 | 1575.0 | 457 | 1331 | 714 | 657 | 3.75 |
MLB:7年 | 338 | 0 | 0 | 0 | 21 | 15 | 84 | 40 | .583 | 338.0 | 108 | 400 | 99 | 88 | 2.34 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | |||
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NPB | 最多奪三振 | 1回 | 1996年 |
表彰 | |||
NPB | 月間MVP | 1回 | 1996年4月 |
カムバック賞 | 1回 | 1998年 | |
MLB | 月間最優秀救援 | 1回 | 2007年8月 |
その他 | |||
NPB | オールスターゲーム出場 | 4回 | 1994年、1996年、1999年、2001年 |
MLB | オールスターゲーム出場 | 1回 | 2007年 |
関連動画
関連項目
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