斎藤龍興単語

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斎藤龍興 / 一色龍興(1547~1573)とは、戦国時代の武将である。

概要

一般的には一気に傾けた~世大名の一人として名高い人物。しかし、これまでちゃんと調べてこなかったのをよくよく見ていくと、それなりに頑っていたことが明らかになりつつあるのは彼も同じである。

あっけない父の死と継承

斎藤義龍浅井亮政の間に生まれた。なお、母親はこの事績以外何も伝わっていない。ちなみに、父親の頃に一色姓しているため、本人は一度として斎藤龍興を名乗っていないことに注意。

斎藤氏を筆頭に戦国時代美濃はあまりにも史料が少なく(有名な逸話として歴代当全員を合わせても稲葉一鉄一人の文書数にはるかに及ばないことがあげられる)、父親斎藤道三を滅ぼし、一色氏として幕府の相伴衆となった斎藤義龍も具体的な動向はよくわかっていない。斎藤義龍は寺社に介入した別伝の乱の最中の永4年(1561年)に突如として亡くなり、息子の彼に督が交代した。

この直後に、織田信長の攻撃が始まる。六人衆・日根野清実、長井衛安が討ち死にするなど、手痛い損を出し、俣近辺などを攻められていく。しかし、六人衆の残り・日根野弘就安藤守就氏家卜全を中心に立て直し、以後彼らで政務を回していったようだ。ただし、内政にまつわる文書は全く残っておらず、詳細は不明。しかし、彼ら重臣を軸にした機構が機しており、斎藤龍興がにかかわったのは外交問題であったようだ。

ただし、ぶっちゃけ言うとこの外交面であるが、『永沙汰』収録の「賀守就・延永連署状写」、『尊経閣文庫所蔵文書』8号斎藤家老臣連署状」の両書状を見た限り、六角承禎三好長慶の戦いのどちらにもいい顔をしており、どちらにとっても味方の勢というかなりのきわどいラインクリアしていったようだ。やがて観音寺騒動や三好長慶の死が起きてもなお、両者との関係を継続に持ち込んだのである。

なお、この時期の後斎藤氏の臣編成として、ツーマンセルで各所を担当させることが多いのが特徴である。

稲葉山城占拠と信長との戦い

このタイミングの永7年(1564年)2月6日竹中半兵衛による稲葉占拠が起きる。基本的に寺社の法にしか記録されておらず、隣の『信長公記』すらこの事件を認知できていない。竹中半兵衛安藤守就の反乱があったまでは事実だが、後世の『太記』などで増幅されたイメージによって、実態はよくわからないことになってしまった。しかし、竹中半兵衛が自身の策謀を実行できてしまったことは間違いない。

ちなみに、後斎藤氏の一次史料を分析した石川美咲は、この反乱の原因を斎藤義龍時代に追い出された斎藤義龍長井隼人佐の復権と、それに連動した武田信玄との同盟締結にあるとする。つまり、斎藤龍興が西方ではなく東方武田氏に接近し、それに六角ルートの取次的存在であった安藤守就六角氏とある程度共謀関係にあった竹中半兵衛が反発した、ということである。

『尊経閣文庫所蔵文書』によると、10月にようやく斎藤龍興の帰還がかなったようであり、それまではずっとは占拠されていた。なお、ここで浅井長政の侵攻があったとされるが、二次史料によってもいつのタイミングかまばらで、いまだに定説を見ない。

なお、このクーデター以後六人衆は武田氏との同盟締結には添え物と化しており、ほぼ長井隼人佐とその関係者である快紹喜らが導していた。ただし、別に六人衆が以後軽視されたわけではなく、六角氏との回路において依然健在、かつ斎藤義龍に与えられた名字を捨てることも滅亡まではなかった。とはいえ、西美濃を中心にした斎藤義龍旧臣と、中美濃を基盤にした長井隼人佐の両重臣の構成が、織田信長による美濃握以後も各国衆を与えた可性は高いとされる。

さらに、状況はどんどん悪くなる。織田信長が尾北部から美濃にかけての諸勢をどんどん味方につけていたのである。かくして、永8年(1565年)に犬山城が落する(なお、ちゃんと調べられた結果1年タイミングが遅かったことが分かった事件である)。

ところが、足利義昭から和の申し出が出てくる。上に協させるために両者を取り持とうというのである。そしてこれにどちらも乗る。ところが以後の『中島文書』によると織田信長を全く信用していないながらも乗ったが、心変わりした織田信長が上作戦を台しにしたこと、そしてその原因となったのがおそらく自分と開戦した河野合戦であったことがわかる(斎藤龍興の論理としては織田信長責任転嫁しているが、全に自分のせいである)。

かくしてメンツをつぶされた織田信長が斎藤龍興に攻めかかる中、斎藤龍興はついに武田信玄と結ぶ。さらに、このころ義棟に名しており、このタイミングが何年かで実はあることが明らかになる。この義はおそらく足利義維足利義栄からの偏諱らしいのだ。つまり、武田今川に手を伸ばしつつも、織田信長営とは全に逆についたのである。

落城と以後

かくして、永10年(1567年)という運命の年が訪れる。なお、父親の七回忌でさらに義糺 or 義紀に名したことがわかる。

そして、七回忌からすぐに稲葉織田信長によって落した。ちなみに、稲葉が永7年(1564年)か永10年(1567年)かという明治維新後の息の長い論争があり、今では永7年説はあらかた否定された。この混乱『太記』が十と七を混同したことがすべての始まりである。だが『信長公記』の8月か、『瑞衣輪番世代帳写』の9月か、という別の問題があり、いまだに決着していない。

ここまで長々と細かい回りくどいことを書いたが、落自体はとてつもなくあっけなく、特に書くことはない。斎藤龍興やだった臣団はほぼ傷で脱出しており、以後、彼の戦いが始まる。

斎藤龍興は以後伊勢長島からに上り、三好三人衆に与同したようだ。なお、彼本人の事績はほぼ残っていないが、『顕如御書留』の調で、途中の過程が判明した。元2年(1571年)8月に斎藤龍興が信長包囲網によって美濃を奪還する計画が立てられていたのである。遠藤氏らの調略に手間取り、本願寺の協で翌元3年(1572年)にはようやく軌に乗ると、日根野弘就織田信長方を挟撃しようともくろんだ。

ところが、朝倉義景の撤退である。この結果、結局うまくいかず、斎藤龍興も彼に付き従ったようだ。そして元4年(1573年)の足利義昭の敗走と、浅井長政救援に失敗した朝倉方の坂の戦いでの敗戦で、30に満たない若さながら、討ち死にした。彼の獅子貞宗を叔父斎藤利治の子孫が伝えていったという。

子供は一切確認できないが、越中寺の元和9年(1623年)以降の住職が彼の子孫の可性がある。

このような斎藤龍興の生涯は、『土岐塁代記』のような例外はあるものの、近世以降竹中半兵衛の引き立て役として悪しざまに伝えられていった。

創作作品

信長の忍び

CVうえだゆうじ

当初は典的なぼんくらだったが、再起を誓ったことで覚醒し、スペックが大幅に増強された。

自分を受け入れてくれた朝倉にだいぶ惹かれていたが、最後は史実通り坂の戦いで戦死。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける斎藤龍興の力一覧。

一時期までは知が低いくらいだったが、どんどん下がっていってしまった。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 49 政治 48 84 野望 63
武将風雲録(S1) 戦闘 52 政治 47 68 野望 52 教養 58
覇王 采配 68 戦闘 58 智謀 24 政治 31 野望 52
天翔記 戦才 126 智才 48 政才 120 78 野望 55
将星 戦闘 59 智謀 25 政治 53
烈風 采配 27 戦闘 39 智謀 17 政治 48
世記 采配 25 智謀 7 政治 32 野望 54
蒼天録 統率 21 知略 12 政治 32
下創世 統率 20 知略 12 政治 29 教養 53
革新 統率 23 武勇 26 知略 14 政治 40
統率 23 武勇 26 知略 14 政治 40
創造 統率 29 武勇 39 知略 25 政治 43

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斎藤龍興

50 ななしのよっしん
2022/07/17(日) 12:20:51 ID: gHsDuQDT4y
の頃から周りの評判どうしようもないし一色姓を名乗ったり色々理くりして格を上げる動きなどして周辺族の信頼を得ようとしたけど死にして…だからなぁ
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51 ななしのよっしん
2022/08/04(木) 18:04:20 ID: jkVvLwc6wl
長井隼人佐って長井道利のことで良いのかな? 義じゃなくて叔父だけど。
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52 ななしのよっしん
2022/08/04(木) 23:08:27 ID: ZsBm+CIFQV
>>51

『寛永諸系図伝』だと、ですね

今では、以下の2理由から、長井隼人佐は、確定ではないが、三の息子とみなされています
 ①『寛政重修諸譜』では三の初長子とされている
 ②確実な史料では三の時代には全く出てこない
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53 ななしのよっしん
2023/01/07(土) 12:39:00 ID: zNvu3l3GgL
統治関係はほとんど資料ないから不明だけど
とりあえず親父の代に
頻繁に周辺勢と積極的な外交策は展開していて
それはの時代にも引き継がれている
結果、負け組についたってだけで
ただのボンクラはその外交構築すらできずに
孤立して滅んでいくわけで
ゲームで編集するならはいまいちでも
外交関係のスキルは付けてあげたいところ。

あと本題とずれるけど、最近でこそ交通網の発達や温暖化が少なくなったけど、当時の越前は有数の地帯なので、に帰らなきゃ兵站が確保できない以上
そら帰るしかないよね、って話なので
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
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54 ななしのよっしん
2023/02/19(日) 17:26:20 ID: Dvx8A8kZn+
信長に上のためと和して協しろと要請した件、
義昭が朝倉浅井信長の同盟作って六角に圧掛けて自に引き戻そうとしたなかなか大規模な構想だったと思われ、
信長も承知したけど同じ年に反故にして美濃侵攻して失敗したんだけど、
その後に家康が義の対立閥である足利義栄近衛前久に取り入った事件があってな…

1566年も動の年だったが同年の家康心変わりを誘発する程信長相手に大きな勝ちを得た可性がある
同時に義から(信長のせいで)弾き出されてしまい、それが翌年の衰退に繋がったのだろう
六角との密な連携は浅井領が間にあるため阻され、北伊勢で連携するしかないが、北伊勢織田滝川一益が数年間で大きな成果を挙げて織田方になった
西美濃衆の離反は義による工作だったのではという話もある

信長が同じ営にいることが許せなかったのかもしれない
織田には利治、利尭たちもいたし
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55 ななしのよっしん
2023/02/20(月) 02:34:34 ID: ZsBm+CIFQV
ある程度あってる気はするんだが、時系列的にこの時点では義昭は六角のことを味方とは思ってないけど敵とも思ってなさそう

むしろ、その理屈でいうといまいち態度をはっきりさせない六角相手に圧をかけようとしたら、
裏で三好から調略ものびていたので全に敵になった、の方が近そうかな
信長の開戦と、六角が義昭を襲撃したのはほぼ同タイミングなので、
六角に関しては全にクロだと思うのだけども、信長はどっちが戦端開いたのか分かればな〜

あと、家康近衛は徳三河守の件のこと?
確かに義昭は将軍になってからも、この件ガン無視して蔵人って呼び続けるけど、
近衛はたまたまこの時期京都にいて、たまたま九条稙通二条晴良が義昭についたので、とばっちりで追い出された、までしか言えなさそうだなあ
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56 ななしのよっしん
2023/03/19(日) 00:37:30 ID: PEf2PVlpDY
西美濃衆の離反が足利義昭(当時義)を見限ったことをきっかけに起こったのは間違いないと思う。
本来の絵図では六角斎藤織田で戦うところを、六角は義昭を襲撃して、
斎藤織田と開戦、って考えたら戦端を開いたのは側で間違いないだろう。

仮に信長側から戦端を開いていたらがまだ義昭かもわからないのに
味方を攻撃したことになるし義昭がなおも信長に頼り続けたことと矛盾が生じてしまう。
一度朝倉のもとへ行ってからも、なおも信長を頼った事から義昭にとって信長は当時は重要な味方だったのだろう。
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57 ななしのよっしん
2023/05/27(土) 17:41:31 ID: tqhb/M1cuS
いかんせん若すぎたね
竹中半兵衛稲葉乗っ取り話とかでかませ犬オッサンってイメージを持ってたけど
亡くなったのが26とかってなあ…
対した信長も若いけどまさに新進気鋭な若者であっては幼君て表現に近い年齢だもの
すぎる死が悪いよー
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58 ななしのよっしん
2023/06/18(日) 23:24:16 ID: 8NHX0Inr1u
生存説のひとつで「越中のくうえもん」ってのほんとすこ。

若くして大大名を継いで欲望の限りを尽くして、臣にめ(謀反)されたり、爺様の婿追い出されて、復讐しようとあの手この手の限りを尽くすが結局はご破算。
そして遂に越中富山)の地で覚めて民百姓達と農地耕したり温泉掘ったりして余生をすごす…

正直これが物語の中で一番ハッピーエンドですこすこのこ。
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59 ななしのよっしん
2023/11/23(木) 13:34:35 ID: 3MLuosBYJB
こいつも含め最近の日本史界は如何に史実に逆張りして名君にするかゲームがトレンドだからなあ
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