私の記憶が確かならば、
料理の鉄人とは、フジテレビで放送された伝説の料理番組である。
放送期間は1993年10月~1999年9月。2002年1月に特番として放送された事もある。
概要
「料理講座」の意味合いが強かった料理番組に於いて、「料理人同士を対戦させる」というコンセプトを前面に打ち出した革命的な番組で、後の料理番組に多大な影響を及ぼしている。
架空の団体「美食アカデミー」の主宰が、美味しい料理を食べる為にアカデミー所属の料理人「鉄人」と、挑戦者を特設会場「キッチンスタジアム」で対戦させる、という背景の下で構成されている。
主宰役には鹿賀丈史が抜擢され、「私の記憶が確かならば~」という謳い文句から番組は始まる。この謳い文句は、審査員の岸朝子が試食後に述べる「美味しゅうございました」と並んで有名な台詞となっている。
放送開始当初は日曜ゴールデン枠の30分番組として放送されていたが、半年後に放送枠の都合上金曜日へ移動すると同時に放送時間が30分繰り下げられ、午後11時放送開始の深夜番組となった(放送時間は45分に延長)。しかし人気が沸騰したのはむしろ深夜枠へ移動してからのことである。
スポンサーは、放送枠が金曜に移動後から1999年に至るまで日産自動車の一社提供となっていて、当時放送された日産車のCMでは鹿賀丈史と岸朝子が当番組の設定を用いたドラマを演じている。しかし、1999年に日産が一社提供から降板した事で予算が厳しくなったのをはじめ、それ以前にも1996年初頭に初代和の鉄人・道場六三郎の降板による視聴率の低下、出演者のスケジュールが合わないなどの問題も抱えた事もあって、1999年9月にレギュラー放送の幕を下ろす事になった。
なお、最終回で公開された番組費用は、食材だけで8億円を超えるとされている。また、最終回の審査員には総理経験を持つ橋本龍太郎が招かれ、番組開始から最後まで鉄人を務めた陳建一のスピーチで幕を下ろしている。
3年後の2002年1月に特番として復活。先代の甥という設定で、本木雅弘がアカデミーの主宰となって進行された。
この時の設定では過去の鉄人を全員「名誉鉄人」として、新たな鉄人を打ちたてている。が、この時はまだ「鉄人候補」でありアカデミーが抜擢した挑戦者と対戦させ、査定するという内容になっている。また、先代の主宰は「フグの毒にあたって亡くなった」と設定され、番組中追悼シーンが放送された。この事で一部の視聴者から反感を買い、物議を醸している。
さらに9年後の2012年に『アイアンシェフ』の番組名で復活。玉木宏をアカデミーの主宰に据えるも、わずか半年で終了した。
余談であるが、この番組が発祥となった単語も非常に多く、「鉄人」や「食材」といった今では広く用いられる言葉もこの番組発祥である。また、この番組以降料理人が料理番組以外にも出演するきっかけになっている。
ルール
- 制限時間60分。
- 挑戦者は直前に戦う鉄人を指名する。
- テーマ食材は直前に公表される。
- 料理点数は自由。但し、テーマ食材を必ず使用しなければならない。
- 調理器具の持ち込みは可能。また、出汁かスープを1点のみ持込可能となっている。
- 番組初期は持ち込み不可だったが、後に変更された。
- 審査員は3名。(後に4名に増員された。)
- 審査員は各料理人を最高20点で評価・採点する。必ず1点以上はつけないといけない。
- 点数の高かった方を1票とし、獲得票数が多かった者を勝者とする。
美食アカデミー関係者
主宰
鹿賀丈史
初代の主宰。
まさしく番組の「顔」で、豪華な衣装や大仰な立ち振る舞いを演じた事で注目を集めた。オープニングでパプリカをかじるシーンがあるが、鹿賀本人は不味いのを我慢していたらしい。
また、あまりにもはまり役だった為か、本当に主宰だとか、相当な美食家だと勘違いされた事があったとか。
- 主な謳い文句
本木雅弘
先述したとおり、フグの毒で他界した先代に代わり、後を継いだ甥という設定となっている。
実況席
- 福井謙二-実況アナウンサー。放送開始から最後まで担当した。
- 服部幸應-解説。現服部栄養専門学校長で、同学校の講師が挑戦者だった時は神田川俊郎が代役を務めている。
自身も中村孝明の引退試合相手を務め、その時は服部の完敗であった。
また、主宰ボイコット試合では主宰代理を務めている。 - 太田真一郎-冷蔵庫前レポーター。フジテレビ関係者と思われがちだが、実は声優である。
番組中、料理模様を実況する際に「福井さん、福井さん」と2度福井を呼ぶ光景は有名だろうか。
審査員
ここでは番組に出演した審査員を列挙するが、筆者が把握している範囲である為、全員ではない事を予めご了承いただきたい。
- 岸朝子-審査員であると同時に番組アドバイザーでもある。
「料理記者暦40年の~」という紹介と「美味しゅうございます」という台詞が有名。 - 浅野ゆう子-俳優。スペシャルでは必ず出演している。
- 平野雅章-「かの魯山人の(愛)弟子」と紹介される。
初期に多く出演した審査員で、後に挑戦者側として出演した事もある。
2008年11月に心筋梗塞のため逝去。その事実が公表されたのは1年後であった。 - 高田万由子-タレント。初期~中期にかけてほぼ毎回出演。
道場とはそりが合わず、突っぱねられた事があるのは有名な話である。 - 栗本慎一郎-衆議院議員経験者で、学者。評論家でもある。ほぼ全期間通して1枠の審査員を務めている。
- 景山民夫-作家。出演頻度の多い審査員だったが、収録期間中の1998年に火事のため逝去。
- 秋元康-作詞家など多くの肩書きを持つ人物。おニャン子クラブやAKB48の生みの親として有名。
- チャイ・ラン-当時香港ハーヴェスト社の副社長。「まずい」「美味しくない」と平気で酷評する事がある。
- 加納典明-写真家。後期の準レギュラー審査員。
鉄人に対して厳しいコメントをする事が多く、彼推薦による挑戦者が送り込まれた事もある。 - 梅宮辰夫-俳優、タレント。挑戦者として出演した事もある。
スペシャルで空気を読まない採点をした事が一部の視聴者から批判された事もある。 - 石坂浩二-俳優、タレント。理知的なコメントすることがある。
- 野村克也-元野球選手。またヤクルトスワローズをはじめ、阪神や楽天の監督を歴任した。
- 細木数子-占星術師。コミュニケーションの場としてノーギャラ出演している。
基本的にはチャイ・ラン同様に辛口評価を下す事が多い。 - 橋本龍太郎-元内閣総理大臣。最終回の審査員として出演。
アカデミー所属鉄人
美食アカデミーが誇る一つの分野を極めた料理人の事で、総勢7名の精鋭である。
勿論、番組設定だけでなく実際に活動している料理人で、自分の店を持っている者が殆どである。
鉄人が現役から退いた場合、その者には「名誉鉄人」という称号を与えられている。
この番組以降、一つの分野を極めた者を「鉄人」と称するケースが多くなっている。
和食
道場六三郎
「日本料理界の異端児」と称され、対戦成績27勝3敗1分と勝率9割を誇る、番組公認の「最強鉄人」。
引退後も鉄人対決などで出演した他、解説者として招かれた事もある。
和食というジャンルに捕らわれない柔軟すぎる発想で、第二回放送の「フォアグラ」をはじめ「ロブスター」「チーズ」など無茶なお題で連勝を重ね、後に続く鉄人のハードルを上げ続けた。
中村孝明
2代目和の鉄人。『なだ万』料理本部長(他店舗で言う「総料理長」に相当)。登場時は番組初のオーナーシェフでは無いサラリーマン料理人だったが、1999年に独立。
「料理界の諸葛孔明」と称され、1996年3月から出演。
金粉の舞など豪華な趣向を持つが、食材の使い方に困った時には寿司を作ってしまう傾向があった。
初代鉄人候補の一人で、当時は本業を優先した為に辞退している。
後に道場の推薦で就任した。
森本正治
3代目和の鉄人。起用時はニューヨークの『NOBU』総料理長だったが、後に独立。
「料理界の織田信長」と称され、1998年2月から出演。
ニューヨーク仕込みの型破りな和食などが武器。
また、後に製作される「IRON CHEF AMERICA」でも和の鉄人を務めている。
中華
陳建一
「四川の神様」と称された陳建民の息子で、番組開始から最終回まで番組を支え続けた唯一の鉄人。『四川飯店グループ』二代目代表取締役兼『赤坂四川飯店』総料理長(当時)。
程一彦とのタコ対決に於いては、圧倒的なハンデを覆す事が敵わず鉄人で初めて敗北した経歴を持つ。それ以外にも主に女性の挑戦者に対して危なっかしい試合を繰り広げることがあり、番組初期においては鉄人の中のネタキャラ扱いだった。
2023年3月11日、都内の病院にて間質性肺炎のため死去した。享年67歳。
フレンチ
石鍋裕
「フランス料理界のヴィスコガンディ」と称されたが、本業と番組の両立が難しかった為に、僅か5回の出演で引退した初の「名誉鉄人」。
但し、後に挑戦者から「石鍋と戦いたい」という指名を受け、スポット参戦した事がある。
坂井宏行
「フランス料理界のドラクロワ」と称され、1994年2月から出演。
魚介類対決では圧倒的に強く「フィッシュ坂井」の異名をとるが、何故かオマール海老がテーマの時には3連敗を喫した事があり「負け犬オマール」の異名もとってしまっている。
フランスで修行していないフレンチシェフとしても有名。
イタリアン
神戸雅彦
鉄人の中では最年少かつ、店舗で調理をしないフリーの料理人だった。試合開始と同時に食材が置かれている主宰席に猛ダッシュする特徴がある。
鉄人の中では唯一黒星スタートだった。
番組終了後に恵比寿に『リストランテMASSA』を開店させるも、2019年3月14日、店舗の厨房内にて仕込み中に不慮の転落事故で死去。49歳というあまりにも早すぎる死であった。
海外に於ける「料理の鉄人」
「料理の鉄人」は海外でも放送され大いに話題を呼び、1995年にはエミー賞ポピュラーアーツ部門にノミネートされるほどであった。
また、アメリカではケーブルTV専門局により吹き替え放送されたが、視聴者の希望により鹿賀の台詞には吹き替えが行われず、字幕で放送されたというエピソードがある。この吹き替え版はオーストラリアでも放送され、後に公式ブックが発売されるほどの知名度を誇っている。
2005年には本家スタッフの監修の下、同局により製作された「Iron Chef America」という正真正銘のアメリカ版「料理の鉄人」が放送され、日本でもBSフジで放送されている。この番組には本家鉄人の森本正治がレギュラー出演している他、坂井宏行もスポット参戦という形で出演している。
この番組以外にも、2002年にフジテレビから版権を購入して製作された「Iron Chef USA」という番組が存在するが、こちらは本家とはあまりにも違っていた為に不評で、僅か1クールで終わっている。
料理の鉄人トリビア
- 番組初期には予選があった。
挑戦者数名により、決勝とは異なるテーマ食材を用いた予選を行い、勝ち上がった1名が鉄人に挑戦する権利を与えられる、という形をとっていた。この模様は番組冒頭で放送されていたが、本戦の印象が薄くなる事などを考慮し、1993年11月に廃止された。 - 鉄人に不利な食材がテーマとなる事が多い。(一例として道場六三郎のチーズ対決等)
基本的に旬の食材がテーマとなるが、それ以外にも鉄人に不利な食材をテーマとされる事が多い。
これは挑戦者の腕を遺憾なく披露させるためとも、鉄人へのハンディキャップとも言われている。ただ少なくとも、道場の引退試合で「今だから言えるが、彼の苦しむ顔が見たくて何度意地悪なお題を出してきたことか」と主宰に言わせているあたり、番組的にワザとやっていた面もあったようだ。
逆に言うなら、このハンデを跳ね除けてこその鉄人でもあるだろうか。 - 海外へ遠征した事がある。
先述した海外版以外にも、本家番組が海外を舞台にした遠征試合を行った事がある。
遠征した国は中国、フランスなど。フランス遠征試合では、鉄人が1勝も出来ないという異例の事態となった。 - 主宰がボイコットした試合がある。
鉄人が負け続けた時期に、「これ以上鉄人の無様な姿を見たくない」と主宰が出演をボイコットした事がある。
この時は服部幸應が主宰代理を務め、鉄人が勝利を収めている。
結果発表時に、鹿賀がスタジアムの陰から鉄人の勝利を弱々しくも祝福していた事から、本当にボイコットした訳ではなく、そういう設定だったものと思われる。 - 島田紳助が挑戦者として出演した事がある。
「料理ができる芸能人」という印象が薄い島田だが、大正エビ対決に於いては見事な腕前を披露している。結果は島田の敗北であった。 - 深夜番組がゴールデンタイムに移動するケースは現在では当たり前のように見られるが、ゴールデンタイムで始まった番組が深夜枠に移動した後深夜枠で人気が沸騰し、その後再びゴールデン枠に戻らずそのまま終了した番組は後にも先にも「料理の鉄人」以外には無いであろう(ただし復刻版の「アイアンシェフ」を別番組とみなした場合の話ではあるが)。
- 上記の理由に加え、放送枠がまだゴールデンタイム枠の人気が出る前の時期にフレンチの鉄人が石鍋裕から坂井宏行に交代している為、初代フレンチの鉄人が石鍋であった事を知らない視聴者も居た(後に特番等で石鍋が出演したり紹介されたりする事により周知されていった)。
- 「アイドルマスターミリオンライブ!」(GREE版)内で当番組のパロディイベント「年越し!アイドル美食グランプリ」が2014年12月に開催された。主宰は四条貴音、鉄人は三浦あずさ・舞浜歩・宮尾美也が担当。
関連動画
残念ながら、番組本編の動画は削除対象となっている為、ニコニコ動画には確認されていない。
しかし、1996年にセガサターンで発売されたゲーム動画が存在する。
関連項目
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- 0pt